37.男装/女装の理由を話します(前)
そして、嗅ぎ薬によって意識を戻したルーチェは、焦点が合わない目をさまよわせ、側に人がいることに気付くと顔を向けた。少女が、心配そうな顔をしてのぞき込んでいたのだ。
「あぁ……ミア嬢。さっき、アレン様に見えて、びっくりしちゃった。情けない姿を見せてしまったね」
力なく乾いた笑いを見せたルーチェは、背を支えられながらゆっくりと体を起こした。少女は膝立ちでずっと傍にいたようだ。優しいなぁと思った瞬間、視界にハラリと肩から落ちた銀の髪が映る。
(あれ、髪が長い……まさか)
頭に手をやれば指通りのよい自分の髪と地肌。部屋を見回せばテーブルの上に銀色の髪。言葉が出ず、う、だとか、あ、だとか声を漏らしながら、顔面蒼白になって少女を見た。息が苦しくなって、また気を失いそうになる。だが、倒れる前に両肩を掴まれ、真剣な目を向けられた。
「ルーチェ嬢、落ち着いて聞いて」
その声は、少女のものではなかった。一瞬他の人が話したのかと、ルーチェは人影を探す。だが、部屋は二人だけだ。
アレンは、なるべくルーチェがショックを受けないように、少しずつ話すことにした。まずは、安心させないといけない。
「何も苦しむ必要はないんだ。俺は分かってる。一緒だったんだよ」
ようやくルーチェは目の前の少女から声が出ていることが分かり、聞き覚えのあるその声に戸惑う。
「一緒って、どういうこと?」
なんとか言葉を返せた。緊張と不安で鼓動は走った後のように早い。呼吸も浅くなっている。
「俺はアレン・ブルーム。ミアの代わりに女装をして会ってた。ルーチェ嬢、貴女と同じように」
ゆっくりと、一言一言を言い聞かせるように口にする。その言葉はじんわりとルーチェの心に沁み込んでいき、「まさか」と目を見開いた。
「いつから、アレン様だったんですか?」
口調と声がルーチェ戻る。緊張が解け始めていた。
「薔薇の庭園で会った時からだよ。ミアの代わりにフラれるつもりだったんだ」
「その後も、ずっとですか?」
「うん……ごめんね。もっと早くルーチェ嬢だと気づければよかったんだけど」
ルーチェは「あぁ」と声を漏らし、肩を震わせた。安心から涙がこみあげてくる。
「では、婚約の話は……」
「する気はないよ。ミアを口説いたライアンにむかついたから、ほどほどにつきあって手酷くフッてやろうって思ってたんだ」
アレンは優しい声で話し、ルーチェの肩の力が抜けたのを確認すると、ゆっくりと手を離した。掴んだ肩は思ったよりも細くて、女性であることを実感する。ルーチェは肺一杯の息を吐き、顔を両手で覆った。
「あぁ、よかった! なら、ミア嬢は傷ついて苦しんではいないんですね! 怖い思いもしていない!」
万感の思いがこもった叫び。涙をぬぐうルーチェはほっとした顔をしていて、「よかった、よっかた」と繰り返す。だがすぐに、ハッと表情を変えるとアレンに視線を向けた。
「違うんです! あの、アレン様が傷ついていいとか、危険な目に遭わせてもいいとかではなく!」
「大丈夫、分かってるよ。俺は平気。ルーチェ嬢は優しいね。ミアが心を痛めて苦しんでいるんじゃないかって、ずっと気にしてくれていたんだな」
ぼろぼろと涙を流すルーチェの背を、アレンは優しくなでる。美しい髪が流れている背中は見ていた時より小さく感じる。ルーチェは優しい言葉も行動も申し訳なくて、首を横に振った。
「そんな、いい人じゃありません! 私、私……」
「うん、何? 全部聞くから、言って」
その言葉はルーチェにとって何よりも有り難く、ずっと閉じ込めていた心の声が零れていく。
「本当は、断らないといけなかったのに、すごく可愛くて一緒にいて楽しかったから、騙し続けてしまったんです。友達になれたら、一緒にいられたらって。私の意志が、弱いから……」
「俺なんてもっとひどいよ?」
アレンは思いつめているルーチェの罪悪感を少しでも減らそうと、明るい声を出して笑顔を見せた。
「実はけっこう面食いでさぁ、フラれるはずがうっかり頷いちゃったんだ。で、男装していたルーチェ嬢がかっこよすぎて、嫉妬して、惚れさせてフッてやるって。バカみたいでしょ?」
ルーチェは一瞬きょとんとした顔をしたが、アレンの笑顔につられてわずかに口角を上げた。
「そうそう、ルーチェ嬢はきれいなんだから、笑顔が似合うって。泣くなんてもったいない」
アレンはスカートのポケットからハンカチーフを取り出し、頬を伝う涙をぬぐった。目を合わせてくすりと笑う。
「劇場の時と、反対になったな」
「そう、ですね……」
そして、見つめ合う二人はどちらからともなく小さく笑った。アレンはポケットにハンカチーフをしまうと、立ち上がってスカート払った。
「隣に座ってもいい? ルーチェ嬢のことを知りたいんだ」
「はい、私もアレン様のことが知りたいです」
ルーチェはソファーから足を下ろして座り直すと、アレンが座る場所を軽く叩いた。その流れる所作がかっこよく、エスコートに慣れていることを感じさせる。ルーチェの左に一人分距離を空けて座ったアレンは、体をルーチェに向けて浮かんだ疑問を口にした。
「ルーチェ嬢は、男役が上手だけどいつから男装をしてたんだ?」
アレンのような付け焼刃の振る舞いでないのはすぐに分かる。
「まぁ……三年前ぐらいからですね。どうしてもライアンが出ないといけない茶会があったのに、本人が逃げ出して……。困り果てた両親が見ていられず、双子だからバレないだろうって代わりに出ることにしたんです」
ルーチェは前を向いて視線を宙に浮かせたまま、何でもない昔話のように話す。母親が懇意にしている公爵家の茶会で、公爵夫人がライアンにぜひ会いたいということで設けられた席だった。身代わりを申し出た時の両親は申し訳なさそうだったが、背に腹は代えられず、無事に終わらせた後の安堵した両親の顔をよく覚えている。その後、ライアンはこってり絞られ、口裏合わせをするのが大変だった。
「優しすぎない? いくら双子だからって、バレるかもしれないのに」
「あの時は今より体格差もありませんでしたし、昔からライアンの穴埋めをすることはあったので……。剣術も身につけるきっかけはライアンのサボりでしたし」
アレンの優しい声音がルーチェの言葉を引き出していく。同時に苦い思い出も引きずり出されられ、気持ちを押さえようと淡々とした語り口になってしまった。
「その後は、何度か消えたライアンの代わりをすることになって、それからライアンも頼んでくるようになって、仕方なく……という感じです」
胸の奥から、嫌な気持ちが這いずり出ようとしていて、ルーチェは視線を落とした。アレンがまっすぐ見つめているのを感じるが、その目を見返すことができない。
聞いているアレンはもやっとしたものを感じて、首を傾ける。
「なんで、そこまでする必要があるの?」
素朴な疑問だった。アレンは可愛くて天使な妹のミアが大切だから、女装をして身代わりになった。だが、自分がルーチェの立場だったとして、幼い頃からクズっぷりを見せる兄の身代わりになりたいなど思わない。
「なんでって……」
ルーチェは一度言葉を切った。黒く重い感情がとぐろを巻いている。喉が締め付けられ、唇が震えた。
「だって……ライアンが問題を起こしたら、令嬢たちの矛先が私に向くもの」
ぽつりと、自分に向けて話すような言い方だった。
「それは、分からなくはないけど……」
アレンの脳裏にルーチェに飲み物をかけた令嬢や、何かひどい言葉を吐いた令息が浮かび、眉間に皺を寄せた。あのようなことが他にもあったと想像するのは難しくない。それなのに、大丈夫慣れていますと静かな微笑を浮かべるのだ。アレンのモヤモヤは増える。




