84.契約書
夕闇の迫る時間、一行は裏口からこっそりと冒険者ギルドに戻り、2階の会議室で大量の書類と向き合っていた。
「まずは、土地建物の譲渡手続きからだ。これが土地の権利書、これが建物の権利書。それから、譲渡手続きを代行する書記官の委任状と、土地・建物の譲渡契約書がそれぞれ4枚ずつ──役所で処理する分、書記官が保管する分、市長が保管する分とお前たちの分だな。必要箇所にサインしてくれ。ジュリア、説明を頼む」
「はい」
ハドリーが付き人の男性から書類一式を受け取り、そのうちの一部をジュリアに渡す。
ジュリアはそれをイリスの前に丁寧に並べ、
「サインは、こことここ、それからこちらに。複写式ではありませんから、全ての書類にサインしてくださいね」
「うええ…」
大変分かりやすい説明だが、イリスは顔を引きつらせている。
今までこんな大量の重要書類と向き合った事は無いに違いない。
《イリス、ほら》
ラズライトが促すと、イリスは恐る恐るペンを手に取った。
このペンも契約書用の特別製だそうで、本体は磨き込まれた黒檀、ペン先は僅かに青みを帯びた銀色の金属だ。
──まさかとは思うが、ミスリル銀だろうか。
使い方は普通のペンと変わらない。中にインクが入っているので、羽ペンのようにインクの量を気にする必要も無い。
が、
「あっ、滲んだ!」
プルプルと不自然な動きで書類にペン先を付けたイリスが叫ぶ。
「そのくらいなら大丈夫ですよ。そのまま書いてください」
読めれば良いんです。
ジュリアがあっさりと言い放つ。
《意外と適当だね…》
「イリスさんの字なら問題無いんですよ。判読不能な文字を書く人も居ますから」
今、やたら辛辣な台詞が聞こえた気がする。
ジュリアの背から立ち昇る黒い空気に、ロベルトがそっと目を逸らした。
目を逸らしながら手元の書きかけの書類をそっと脇によけ、新しい紙を用意した点については、突っ込まない事にする。
(触らぬ神に祟りなし)
「えっと…これで良いですか?」
最初の1枚にサインし終えたイリスに訊かれ、ジュリアは笑顔で頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。その調子で、他の書類にもサインしてください」
「分かりました」
イリスがホッと表情を緩め、2枚目の書類を手に取る。
「えっと、次は…」
《ここと、ここだね。あと、こっちに今日の日付を書くのかな?》
「そうですね。お願いします」
「はい」
そうして全ての書類にサインし終えた──と思ったら、書類を回収してハドリーに渡したジュリアが、別の書類の束を受け取って戻って来た。
「次はこちらです。あのお屋敷で行う各種事業の委任状、利益分配の契約書、その他諸々の手続き書類ですね」
《え、もう用意したの?》
その話が出たのは今日の昼。
その後はずっと屋敷の探索をしていたし、書類を用意する暇など無かったはずだが。
「今書き上げた。書式は決まっているからな」
ふー…とため息をついたハドリーが、イリスの手元にある書類を目線で示した。
「事業内容の詳細は、これから商業ギルドと冒険者ギルドで詰める事になる。本来なら、オーナーには是非打ち合わせに参加して欲しいところだが──」
「難しいことは専門家にお任せします」
イリスが即答した。
一瞬の迷いも無い態度に、ハドリーが苦笑する。
「だろうな。──ならば、今決めておかなければならないのは収益についてだ。屋敷の賃貸費用は不要、その代わり、事業で利益が上がった場合、純利益のうち一定割合をオーナーに支払う──そういう約束で良かったな?」
「はい」
《そうだね》
ラズライトの当初の申し出を、ロベルトはハドリーにもきちんと伝えてくれていた。
頷き合うと、ハドリーは言葉を続ける。
「その割合だが──純利益の3割でどうだろうか?」
《え、そんなにたくさんもらえるの?》
予想外過ぎて思わず呟くと、ハドリーは意外そうに片眉を上げた。
「多いか? 家賃収入が無いことを考えると、むしろ少ないと思うが」
《いや、精々1割5分か、2割くらいだと思ってたから…》
流石に商いの経験は無いので、どの程度が相場なのか分からない。
そもそも家賃不要という時点でイレギュラーなのだ。
お互いに顔を見合わせていると、ハイ、とイリスが手を挙げた。
「私的にはもっと少なくて良いです」
「え? イリスさん、本気ですか?」
ジュリアが唖然としてイリスを見る。
自分から取り分を下げに来る人間は居ないのだろう──普通なら。
しかし、ここに居るのは常識が通用しない相手である。
「別にその収入で生計立てようと思ってるわけじゃないんで。──で、こっちが貰える割合を下げる代わりに…」
何やら交換条件を出そうとしている。
「公衆浴場の『無料入浴券』ください」
《………は?》
『……』
キリッとした顔で言い放った言葉に、全員が固まった。
無料入浴券。
つまり、公衆浴場がオープンしたら、タダで好きなだけ風呂に入らせろと。
(えっと……)
交換条件としてはあまりにささやかな要求である。
むしろオーナーだったらその程度の権利は最初からあると思う。
固まる面々を前に、イリスは真面目な態度で背筋を伸ばしていたが、数秒後に困った顔で首を傾げた。
「あ、あれ? ダメですか?」
「あ、い、いえ、ダメではないですよ! ね、ギルド長?」
ジュリアが真っ先に我に返った。
しかし、ギルド長と呼んで振り向いた先は冒険者ギルド長のロベルトではなく、商業ギルド長のハドリーだった。
ジュリアは商業ギルドからの出向者だと言っていたから、咄嗟に判断を仰ぐ上司がハドリーでも間違いではないのだが──冒険者ギルドでそれをやるあたり、結構動揺しているらしい。
ハドリーは軽く片眉を上げ、あっさりと頷いた。
「ああ、その程度ならば全く構わない。何なら、その他の施設も無料にするか?」
つまり入院してもタダ、好きなだけ飲み物を飲んでもタダ、武器防具のメンテナンスを頼むのもタダという事だろうか。
一冒険者としては破格の待遇だ。
これはとても良い取引なのではないだろうか──ラズライトはそう思ったが、イリスは首を横に振った。
「他の施設は普通に利用します。全部タダだと、私がオーナーだってバレるじゃないですか」
オーナーだとバレるのは可能な限り避けたいらしい。
《イリス、自分がオーナーだって、何でそんなに隠そうとするの?》
訊ねると、イリスは真顔で答えた。
「あの大豪邸が、駆け出し冒険者の所有物なんだよ? 他の人に知られたら面倒な事になるに決まってる」
「あー…まあ、否定はできないな」
ロベルトが苦笑した。
正直俺も思うところがあるしなあ…という呟きは、聞かなかったことにする。
その後結局、イリスの取り分は純利益の2割、無料入浴券付きという条件で、契約が成立した。




