73.宿への帰還
夜の『カラスの羽休め亭』は、煌々と明かりが点いていた。
周囲に漂う、肉の焼ける香ばしい匂い。煮込み料理のハーブの香り。
店内からは、賑やかな笑い声が聞こえて来る。
「今日はお客さんが多いみたいだね」
《ジェフが帰って来たから、知り合いが集まってるんじゃない?》
昨日街に戻って来たジェフは、自宅療養になったと聞いている。
まだ本調子ではないだろうが、既に1日経っているし、知り合いと話をするくらいはできるのかも知れない。
イリスが扉を開けると、ジーンがぱあっと顔を輝かせた。
「イリスさん、ラズライトさん! おかえりなさい!」
その表情は、最初に会った時とは全く違う。弾んだ気持ちが目に見えるような明るい笑顔だ。
それだけで、ジェフを助けられて良かったと心底思えた。
「ただいま戻りました」
《ただいま》
イリスとラズライトが応えると、おおっとどよめきが上がる。
「英雄様のお帰りだ!」
「お前ら、席を空けろー!」
テンションの高い笑い混じりの声が響き、ガタガタと数人が席を立つ。
ほぼ満席状態だった食堂に、あっという間に2人分の空席ができた。席を立った者たちは、予備の椅子を持ち出して別のテーブルに割り込んでいる。
どうやら全員、顔見知りのようだ。
イリスとラズライトが呆然としていると、奥からターニャが顔を出した。
「イリスさん、ラズライトさん、おかえり! 部屋に荷物を置いたら、空いた席に座っとくれ! すぐに夕飯を出すよ!」
声に張りがある。ターニャも楽しくて仕方ないようだ。
言われた通りに荷物を部屋に置き、全身を丸ごと魔法で洗浄して食堂に戻る。
食堂の客たちは再び食事や酒に舌鼓を打っていた。
こちらに注目しないようにしてくれているようだが、意識がこちらに注がれているのが気配で分かるので、少々落ち着かない。
「はいよ、お待たせ!」
席につくと、ターニャとジーンが次々と料理を持って来てくれた。
分厚いステーキに、ホロホロになるまで煮込んだ骨付きの鶏と野菜のハーブ煮込み。
ふんわりとした白パンと、豪快に野菜が盛り付けられたサラダ。
ラズライトには、ハーブを抜いて仕立てた鶏の煮込みと、薄く切ったローストビーフ。
イリスの前に並べられたものは熱い湯気を立て、ラズライトの前のものは適度に冷ましてある。
至れり尽くせりのラインナップに、イリスがごくりと生唾を飲んだ。
「いただきます!」
《いただきます》
早速骨付きの鶏肉を頬張ったイリスの顔が、一瞬で溶けた。
「うま…」
ラズライトの方も、鶏肉の煮込みの旨味に目を見張る。
《うわ、これ美味しい》
「良かった。鶏の煮込みは母の得意料理なんですよ」
忙しくテーブルの間を動き回るジーンが、嬉しそうに顔をほころばせる。
お世辞ではなく、煮込みもローストビーフも、イリス曰くステーキも白パンもサラダも絶品だった。
イリスは鶏肉と野菜の煮込みをまるっと1皿お代わりし、それもあっという間に平らげる。
食後の温かい紅茶とヤギ乳をそれぞれ堪能していると、なあ、と隣のテーブルの男が声を掛けてきた。
「良い食いっぷりだったなあ! やっぱターニャの料理は最高だろ!?」
顔が赤いし、手に持っている大きなコップの中は発泡酒。
完全に酔っ払っていて、大変機嫌が良さそうだ。
「ホントだねー。なんかもう、心の底から幸せになれる味だよね」
「だよなあ!」
イリスが真剣に同意すると、盛大に破顔する。
そのまま椅子を引きずって近寄って来た中年の男は、前後逆の状態で椅子に座り、背もたれに肘をつきながら発泡酒をあおった。
「──っかー! ターニャの鶏煮込みにコショウたっぷり掛けた上で黒エール、これが鉄板だよなあ!」
「いやいや、煮込みなら赤ワインだろ! 野菜も肉もどっちも美味い!」
「白ワインも忘れるなよー!」
方々から野次が飛ぶ。どうやらそれぞれお気に入りがあるらしい。
他の声も合わせると、ターニャの鶏の煮込みは全ての酒に合う、という結論になるのだが──ターニャおそるべし、と言うべきか。
「いやー、甘いねおっさん」
そんな男たちに対して、イリスは何故か得意気に首を横に振った。
「まずは酒を入れずに、料理単品でそのものの味を楽しむ! でしょ?」
イリスの言い分に、男たちは一瞬ぽかんと口を開けてから、どっと笑った。
「違いねぇ!」
「そこは一番大事なところだよな!」
「あんたたち、なに好き勝手言ってんだい」
ターニャが4人掛けのテーブルに追加の煮込みの大皿を置き、苦笑する。
そのターニャにも、男たちは上機嫌で絡んだ。
「ターニャ、お前だったらこの煮込みには何を合わせる?」
「アタシかい? そうさね──」
軽く各テーブルを見渡し、
「酒は何でも、その時飲みたいモンを飲めば良いさね。煮込みには焼き立ての白パンかトーストしたバゲット。たっぷりの汁に浸けて、具材をのせて食べるのは最高だろ? で、食べ終わったら──」
にやりと笑う。
「ジェフ特製のジンジャーハーブティー。これだけは外せないね」
「出たよ、ターニャのジェフ推し!」
「まあ確かに美味いけどな!」
お決まりのパターンだったようだ。
男たちがゲラゲラ笑っていると、厨房からジェフとジーンが出て来た。
それぞれ、コップや皿を載せたトレイを持っている。
「みなさん、それくらいで」
にこやかにジェフが言う。
「おっ、噂をすればだな」
ガタッと男たちが席を立ち、ジーンから次々にコップを受け取る。
イリスとラズライトのところにはジェフがやって来た。どうぞ、と差し出されるコップを、イリスが受け取る。
「あ、ひょっとしてこれがさっき言ってた?」
「ええ、ジンジャーハーブティーです。お口に合うと良いのですが」
《ジェフ、もう動いて大丈夫なの?》
「おかげさまで、大分調子が戻ってきました」
ラズライトの前に、シンプルな陶器の深皿が置かれる。
「こちらは、ラズライトさんに。特別です」
目を細めて、意味深な笑み。
ふわりと漂う香りに、ラズライトは目を輝かせた。
《これ…魔タタビ!?》
深皿には、琥珀色の液体に浸かる人間の小指の爪ほどの茶色い塊が2つ。
「干し魔タタビをじっくり煮出したジュースです」
『あちらの世界』のマタタビは猫の大好物──と言うより、麻薬のようなもの。
『こちらの世界』の魔タタビは、それと良く似ている。
小さな果実は魔力を多く含み、ケットシーが好んで食べる。
食べると酔っ払いのような状態になるのも『あちらの世界』のマタタビと同じだ。
ただし酔いの状態には個体差があるため、いくら食べても平然としているものも居れば、匂いを嗅いだだけでへべれけになるものも居る。
──ちなみに魔タタビは栽培に成功しておらず、自生しているものを採取するしかない。
その自生場所も、魔素濃度の高い森林地帯や山岳地帯に限られるため、人間では入手が難しい。
非常に貴重な一品なのだ。
「どうぞ、ご賞味ください」
《いただきます!》
ジェフの声に弾んだ念話で応じ、ラズライトは魔タタビジュースの皿に顔を突っ込んだ。




