166.トラウマとの対峙
「アイリス」
入口の方から声が聞こえ、騒いでいたはずの酔っ払いたちが、波が引くように静まり返る。
柔らかで穏やかな、さして大きくもない女声。
なのに──イリスが身体を強張らせた。
入口から真っ直ぐにイリスに歩み寄って来る、黄色い瞳の女性。
深い紫色の髪は艶やかで、華やかな顔立ちはグラジオラスに似ている。
「アイリス」
女性はイリスの横に立ち、ゆっくりと顔を近付けて来た。
「やっと帰って来たのに、忙しいのね。まずは家に荷物を置くべきでしょう?」
顔は微笑みを浮かべていて、口調は穏やかだが、至近距離で声を聞いた途端にラズライトの背中の毛がぞわっと逆立った。
(この人…)
目が焦点を結んでいない。
イリスを見ているようで、全く見ていない。
イリスは里に立ち寄っただけだとガジュマルが説明しているはずなのに、平然と『帰って来た』と口にする時点で分かる。
──これは、ダメだ。
「私、家で待っていたのよ? なのに『ただいま』も言わずにこんな所に居るなんて…そんな風に育てた覚えはないわよ?」
平坦な、表面だけの笑顔をイリスに近付ける。
わずかに身を引いたイリスの瞳孔が、きゅっと狭まった。
《マトモな育て方をしてもらった覚えもないと思うけどね》
ラズライトはテーブルの上に飛び乗り、イリスと女性の間に割って入った。
毛の逆立った尻尾でイリスの顔を隠し、ずいっと身を乗り出す。
《はじめまして、知らない人。僕はイリスの相棒の、ラズライト。よろしく》
わざと笑顔で告げると、女性は仰け反るように身を離した。
ラズライトの背後で、イリスがほっと息をつく。
「あっ……ああ、ガジュマル様から聞いてるわ。私はアイリスの母の、アヤメ。今までアイリスについていてくれたそうね。これからは私の娘は私が責任を持って育てるから、もう一緒に居る必要はないのよ?」
「なっ…!」
カトレアががたんと立ち上がり掛け、クレソンに止められる。
ラズライトは小さく息を吐き、作り笑顔のままアヤメを見上げた。
《ガジュマルの話をちゃんと聞いてなかったのかな? イリスは、どうしてもって言われたから仕方なく立ち寄っただけ。帰って来たなんて一言も言ってない》
「そんなわけないじゃない。アイリスは私の娘よ」
《『こんなの私の子どもじゃない』ってイリスに向かって叫んだ人が、よく言うよ》
ラズライトが吐き捨てた瞬間、アヤメの表情が凍った。
すかさず畳み掛ける。
《もっと言うなら、イリスは『アイリス』なんて名前じゃないし、貴女みたいな人に育てられなきゃいけないような人間じゃない。ちゃんと自立した、立派な大人だ》
「な…何言ってるのよ。アイリスは、私の娘で、里の掟もろくに知らない子どもで」
《その『子ども』が人攫いを蹴散らしてビオラたちを助けたって言うの? じゃあ、一方的にやられて助けにも行かなかったこの里の『大人』たちは一体何?》
言い始めたら止まらない。
ラズライトは後退るアヤメを追って、テーブルの縁ギリギリに立った。
《里の掟なんか知らなくたって問題ない。だってイリスの居場所は外にあって、ここに住む予定なんか無いんだから》
「…っ!!」
アヤメの顔に朱が上る。
「このっ…ケットシー風情が!!」
次の瞬間、アヤメは手近な酒ビンを掴み、ラズライトに向かって振り下ろして来た。
(ああ、なるほど)
アヤメの動きが、スローモーションのように見える。
イリスも子どもの頃、多分こういう呼吸で殴られたのだ。
妙に冷静になって見ていると、さっと誰かの腕がラズライトの前に回され、ぐいっと後ろに引き寄せられた。
──バリィン!
「きゃあああ!?」
ガラスが割れる激しい音と悲鳴が交錯する。
振り向くと、ラズライトを抱き込むように庇っていたのは、当然ながらイリスだった。
「怪我は無い? ラズライト」
《うん、大丈夫》
皆が騒然とする中、イリスは冷めた表情で立ち上がる。
「…本当に、何も変わってないね、アヤメサン」
「っ!?」
淡々とした声が響き、場が静まり返る。
声を掛けられたアヤメは、まるで自分が被害者であるかのように、青い顔でイリスを見た。
「何か安心したよ。──あの時逃げて、本当に正解だった」
「え…」
イリスは目を細め、口元を歪める。
「自分の気に入らない相手を衝動的にぶん殴るその癖、全然直ってないんだね。私、あのままこの里に居たら、今頃死んでたんじゃない?」
「な、何言ってるのよ。貴女は魔法が使えないと分かって、ショックで家出して…ずっと、心配してたのよ?」
「私が魔法を使えないって分かって、あんたが発狂して椅子でぶん殴って来たんでしょ。私はそれで命の危険を感じて逃げただけ。魔法が使えないのがエルフとして致命的だなんて、当時は実感なかったんだから」
「て、適当なこと言うんじゃないわよ!」
「それはこっちの台詞だよ。どれだけ自分の都合の良い記憶、捏造してるの? ──まあ今のあんたの行動を見て、今後あんたの言い分信じる人なんて居ないだろうけど」
「…!!」
アヤメが愕然として周囲を見渡した。
イリスの幼馴染たちは、当然厳しい表情でアヤメを睨み付けている。
遠巻きにこちらを注視していた他のエルフたちは、気まずそうに視線を逸らした。
多分今まで、アヤメの言葉を信じていたのだろう。
だが流石に、目の前でケットシーを──しかもビンで思い切り殴ろうとしたのを見てしまったら、印象が変わるのは間違いない。
狙ってやったわけではないが、正直、ちょっとすっきりした。
しかし、
《イリス、怪我してない? 大丈夫?》
イリスの手がラズライトの顔を覆っていたため、ビンが振り下ろされたのがどこだったのか、よく見えなかった。
もしかして、イリスの腕に直撃したのではないか。
冒険者の服は丈夫だから切れてはいないようだが、打撲になっていてもおかしくない。
ラズライトが訊くと、イリスは笑って首を横に振った。
「避けたから大丈夫だよ。ビンはテーブルに当たって割れただけだし、破片で切ったりもしてない」
「嘘おっしゃい!」
カトレアが柳眉を吊り上げ、イリスの右手を掴んだ。
「痛っ」
「手の甲、切れてるじゃないの! あと左の頬も!」
「…あ、あれ?」
イリスがきょとんと首を傾げた。気付いていなかったらしい。
右手の甲はざっくりと切れ、ラズライトからは死角になっていた左の頬にも、薄ら赤い線が走っている。
ビオラが青い顔をしてイリスの手の甲をハンカチで押さえ付けた。
「イリス、ちゃんと治療した方が良いわ」
「え、これくらいなら放っておけば治るよ」
「馬鹿言わないの! うちに薬があるから行くわよ!」
カトレアがイリスの背中を押し、クレソンを見遣った。
「クレソン!」
「ああ、後は任せておけ」
「後で私たちもそっちに行きますね」
クレソンとヤグルマソウが頷く。
「ラズライト、ネロ、私たちも行きましょう」
《分かった》
《は、はい!》
ビオラに促され、ラズライトたちも立ち上がった。
アイビーがすかさずラズライトとネロを肩に乗せてくれる。
「ま、待ちなさい! まだ話は──」
「はいはいアヤメさんはこっちなー。割れたビン、片付けないとなー」
アヤメの視線を大きな背中で遮り、マングローブが箒とちり取りを押し付ける。
見事な連携に感心しながら、ラズライトはイリスに続いて集会所を出た。
誰かがイリスに失礼なことを言う→ラズライトがキレて挑発し始める→相手がキレる→イリスがブチギレる、のルーティン。




