152.出会いたくなかった人
(アイリス、って…)
その名は、ついこの前トパーズから聞いた。
イリスがエルフの里に住んでいた頃、産みの親がつけた名前。
だが、それを知る者はその辺には居ないはずだ。
「…」
イリスは黙って歩を速める。
その肩の上で振り返ると、公園で竪琴を弾いていた男がこちらに駆け寄って来ていた。
驚きと必死さが滲む顔。明らかに、イリスのことを呼んでいる。
「アイリス!」
《あの、イリスさん…?》
ネロが戸惑ったように声を掛けるが、イリスは頑なに振り返らない。
据わった目で、ぼそりと一言。
「私、アイリスなんて名前じゃないし」
その声は楽師にも聞こえたらしい。
ああくそ、と整った顔に似合わぬ悪態を吐いた楽師は、一歩踏み出して言い直した。
「イリス!」
途端、イリスはくるりと振り返り、何事も無かったかのように右手を挙げる。
「お久しぶりグラジオラス」
「…っ! お前なあ…」
《イリス、知り合い?》
ラズライトが訊くと、イリスは至極面倒くさそうに半眼になった。
「一応、多分?」
《たぶん》
「おまっ、それが身内に対する態度かよ!?」
《え、身内?》
ネロとラズライトは同時に目を見開いた。
このピンク髪の派手系美丈夫が?
どう見ても、似ても似つかないが。
イリスが溜息をつく。
「こいつはグラジオラス。私を産んだ人の父親」
つまり祖父。
《…はああああ!?》
ラズライトは思わず叫んだ。
考えてみれば、エルフは長命な種族である。
祖父と言っても、ヒューマンのように老人然とした見た目とは限らない。
(…にしてもさあ…)
店主に紹介された宿屋に併設されているレストラン。
正面で上品に肉を切り分けている男は、どこからどう見てもせいぜい30代くらいにしか見えない。
宿に入ったら、男──グラジオラスは当たり前の顔でついて来た。
『奇遇だな、俺もここに泊まってるんだ』と言われて、イリスは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そのイリスは、仏頂面でスープを飲んでいる。
折角の高級レストランでの食事なのに、味わう余裕は無いらしい。
「さて──」
一応お互い名乗り合った後、ステーキをぺろりと平らげたグラジオラスがイリスに視線を向けた。
「アイリス、そろそろ帰って来る気になったか?」
「…」
イリスは目を合わせず、無言でバゲットを咀嚼している。
修行僧のような無の表情に、グラジオラスは溜息をついて言い直した。
「──もとい、イリス」
「帰るもなにも、あそこに私の家は無いんだけど」
ナイフのような切り返しだ。
今まで聞いたことのない冷たい声に、ネロがびくっと固まる。それを見て、あ、とイリスが呻いた。
頭を振って、グラジオラスに向き直る。
「前も言ったけど、私はエルフの里に行く気は無いよ。そっちはそっちで勝手に暮らしてればいい。私も勝手にするから」
口調は少し柔らかくなったが、内容は先程と同じ、否定。
個室に通されて幸いだった。
内容も内容だし、こんなピリピリした会話、他人には聞かせられない。
グラジオラスが困ったように眉を寄せる。
「みんな心配してるんだ」
「心配してるのはエルフが減ることであって、私個人の心配なんかしてないでしょ。あと、今更里に住めなんて言われても無理だよ。私には私の生活がある」
「外の世界はしんどいだろ?」
「その『外の世界』で情報収集って名目で楽しく旅暮らししてるのはどこの誰ですかねー」
「うぐっ…」
イリスはすらすらと反論した。
「前も言ったでしょ。さっさと諦めてよ」
「いやでも、心変わり」
「しません」
すっぱりと切り捨てる。
グラジオラスは数秒絶句した後、深々と溜息をついた。
「…お前が出て行った日、あの場所に居なかったのは本当に済まなかった」
自分が居ればこんな事には、と、視線を逸らして呟く。
「──ショックを受けて家出して、そのまま帰らないなんて思わなかったんだ。アヤメも、止められなかったことを今でも悔やんでる」
(……は?)
イリスから聞いた話と全く違う。
イリスは、母親に殺されそうになったから逃げ出したのだ。
(…まさか、向こうに都合の良いように情報が改竄されてる?)
表情を見る限り、グラジオラスは自分の認識が正しいと思い込んでいる。身内が嘘をついているとは考えもしないだろう。
ギリ、と小さな音がした。
奥歯をきつく噛み締めたイリスは、1回深呼吸して口を開く。
「…私が里を出たのは、魔法を使えないと言われたのがショックだったからじゃない」
「でも、その判定が出た日に家出したんだろう?」
「──」
すっとイリスの顔から表情が抜け落ちた。
(──ああ、ダメだ)
話が通じない。そもそも、向こうが話を聞く気が無い。
ラズライトがそう悟ったのと、イリスが立ち上がるのは同時だった。
「──ラズライト、ネロ。先に部屋に戻ってるね」
《うん》
《わ、分かりました》
「え、待て、話はまだ──」
止めようとするグラジオラスに、イリスは冷え冷えとした視線を向ける。
「言いたい事も聞きたい事も、もう無い。この話は終わり。じゃあね」
「待っ──」
バタン、扉が閉まる。
手を挙げた状態で固まったグラジオラスは、数秒後、のろのろと頭を抱えた。
「ああ……」
困惑しているのがありありと分かるが、自業自得だ。
ラズライトは涼しい顔で焼きササミを頬張る。
ネロはまだびくついていたが、ブドウを1粒2粒とむしっていく。
「…なあ」
ぼそり、グラジオラスが呟いた。
上目遣いにこちらを見ている。
「お前たちも説得してくれないか? 里に戻れって」
《それ、僕たちに何の得があるの?》
「得って…」
《僕らはそっちの言う『外の世界』でイリスに出会って、一緒に旅をしてるんだ。イリスが里に戻ったら、僕らも一緒について行って良いの? そんなハズないよね?》
「それは…」
エルフの里は極めて排他的な集落だ。
ヒトだけでなく、ケットシーや伝令カラスもおいそれと入れる場所ではない。
そう指摘したら、グラジオラスは言葉に詰まった。
ラズライトはさらに畳み掛ける。
《あと何か勘違いしてるみたいだけど、イリスは魔法が使えないって言われたから家出したってわけじゃないよ》
「いや、でも」
《イリスは、その判定を受けた後、母親に殺されそうになったから逃げただけ。『私の子どもじゃない』って、椅子で頭を殴られてさ》
「!?」
《その後イリスを保護したおじいさんが里に知らせてくれたらしいけど、母親が引き取りを拒否して、他の誰も『自分が代わりに育てる』って言ってくれなかったから、里の外で育つことになったんだって》
「そんな馬鹿な」
《馬鹿な話だよね、ホントに。──イリスの左のこめかみには、殴られた時の傷跡がまだ残ってる。だから僕は、イリスに『里に帰れ』なんて絶対に言わない。イリスは外の世界でちゃんと生きてるんだから、里に帰る必要も無いしね》
一息に告げ、ラズライトは立ち上がった。
《ネロ、行こう》
《は、はい!》
呆然と聞いていたネロが慌てて最後の1粒を口に入れ、ばさばさと羽ばたく。
「……」
ラズライトたちが部屋を出るまで、グラジオラスは目を見開いて固まっていた。




