140.ドラゴンと瘴気
帰りの道中、イリスは黙ったままラズライトの背中に乗っていた。
あまりに静かなので心配していたら、休憩場所に降り立った途端に地面に飛び降り、こちらに背中を向けたままゴーグルを外す。
「ラズライト、全身丸洗いお願い!」
《…分かった》
何故、とは聞かない。
ぐす、と鼻をすする音がしたが、ラズライトはすぐに魔法を展開した。
《洗浄!》
ざばっとイリスが水球に包まれ、数秒後には温風できれいに乾く。
「ありがと」
振り返るその顔は、もういつものイリスだ。
「ところでこれ、外でやると水が結構冷たいんだけど。お湯でやるとか出来ない?」
《考えておくよ》
それなら、水と火の同時展開が必要か──考えながら周囲を見遣ると、ぽかんと口を開けたジェイドたちと目が合った。
(あ)
そういえばこの魔法も、ジェイドたちの前で使うのは初めてだ。
《今のは…何だ?》
《えっと…洗浄魔法。水で洗って、温風で乾かす魔法だよ》
説明すると案の定、スフェーンが目を輝かせた。
《兄上、僕にもやって欲しいです!》
《え、でも水だよ? 大丈夫?》
《はい!》
風の氏族のドラゴンは、水浴びをあまり好まない。
しかしスフェーンがこくこく頷くので、ラズライトは促されるまま魔法を使った。
スフェーンが巨大な水球に包まれ、乾くまでの一連の流れを、サファイアとジェイドが興味津々で見守る。
《兄上、これ面白いですね!》
《面白い?》
スフェーン曰く、水に浮いた感じはするのにすぐに乾いて、濡れた時の不快感が無くて楽しいらしい。
なるほど、その発想は無かった。
「分かる! 水浴びよりずっと楽だし!」
《ですよね!》
スフェーンとイリスが意気投合する。
イリスのテンションがいつも以上に高いのは、空元気だろうか。
「あとこれできれいにしてもらうと髪とか毛がサラッサラになるんだよ。ほら」
《わあ! 本当ですね!》
とても楽しそうな一人と一頭を見て、私も練習してみようかしら…とサファイアが呟いた。
《水球なら出せるし、風も大丈夫…あとは温める方法が分かれば…》
《ラズライトは火魔法を使っているようだ。私が協力しよう》
《あら、使えるのですか?》
《多少はな》
ジェイドまで乗り気だった。
…どうしよう、家族が変な魔法に目覚めつつある。ドラゴンなのに。
(…ま、まあ、実害は無いから良い…かな?)
──なおその後、ジェイドとサファイアによって、強制洗浄・退去魔法──通称『顔を洗って出直しな』が開発され、ドラゴンに挑む冒険者たちに猛威を振るうことになるのだが──今はまだ誰も知らない。
霊峰の棲み処に帰還すると、ジェイドは皆を集め、会議で話し合われた内容を伝え始めた。
《ここの南にある王都で、比較的規模の大きい事件が起きたそうだ。よって、今後数年間、魔素に乱れが生じる可能性がある》
「規模の大きい事件って…あれかな。王宮であったっていう」
《知っているのか?》
「私の兄弟子と姉弟子が、解決にちょっと協力したらしくて。貴族がたくさん逮捕されて大変な事になってるって」
イリスが言うと、ああそれだな、とジェイドが頷いた。
《人間社会の乱れは、魔素の乱れに直結する。…厳密には、魔素と言うより瘴気だが》
《瘴気?》
スフェーンが首を傾げた。
確か、魔素に混ざる不純物というか、汚染物質のようなもの、だったか。
前の前か、それより前の生の時、そんな単語を聞いた気がする。
《瘴気とは、あらゆる生き物が発する負の感情の成れの果てだ。魔素循環の中に含まれ、集積すると木々を枯らし、大地を腐らせる》
《え…》
その特性ゆえ、ヒトが放出する瘴気の量は格段に多い。ヒトの世が乱れれば、瘴気も増える。
だが、多くの人はそれを知らない。
《この瘴気を魔素に還すことが出来るのは、変種の世界樹だけだ》
普通の世界樹は、大地から魔素を吸い上げ、大気に放出する。
変種の世界樹はその逆で、大気を流れる魔素を集め、大地に戻す。
その時、変種の世界樹は瘴気も一緒に吸い込み、少しずつ浄化して魔素に還元するのだという。
《瘴気が一定以上の濃度になると、ヒトにも触れられる魔物のような存在が生じるゆえ、それを利用して対処しているヒトの一族も居るがな》
魔物のような存在──『瘴魔』を倒すと、その身体を構成していた瘴気は魔素に還る。
ただしこれは、かなりの危険を伴う例外的な処置なのだという。
瘴気を直接魔素に還元できるのは、変種の世界樹だけ。
その浄化能力はすぐには増えないから、ヒトの世が乱れれば、大気中の瘴気の濃度が上がる。
大気中から魔素を取り込んで生きるドラゴンは、この瘴気の影響を直接受けてしまうのだ。
《我々は魔素と取り込む時、一緒に瘴気も取り込んでしまう。ある程度ならば問題は無いが、今後、濃度によっては体調を崩す者も出て来るだろう》
トパーズが注意を呼び掛けていたのは、そのためだそうだ。
《ラズライト。お前もイリスと共に色々な場所に行くのだろう。気を付けるようにな》
《分かった》
ジェイドに言われ、ラズライトは神妙に頷く。
瘴気を感じ取れるわけではないし、意識してどうにかなるものでもなさそうだが、体調の変化には注意した方が良さそうだ。
ジェイドは次に、イリスに視線を向けた。
《──そういうわけで、イリス》
「なに?」
《錬金術師のグレンに伝言を頼みたい。『ドラゴン用の熱さましと腹痛の薬を多めに、材料の追加が必要なら言ってくれれば用意する』と》
「分かった。ちゃんと伝えるよ」
イリスが頷いた結果、『前払いだ』と渡された大量のウロコとたてがみに、グレンが頭を抱えるのはそれから半日後のことである。
数日後。
グレン特製の薬をジェイドに届けてひとしきり談笑した後、イリスとラズライトは霊峰を下山していた。
普通、こんなに頻繁に往復するような道ではない。
イリスは道中、パッと見には分からないような目印や足場を用意し、歩きやすいように工夫していた。
結果、今では当初の3分の2くらいの時間で登り下り出来るようになっている。
「…あれ?」
その道中、イリスは不意に足を止めた。
《どうしたの?》
圧縮バッグの上で寛いでいたラズライトが顔を上げると、視界の端に黒い影。
「ノラだね。何かあったのかな?」
足を止めて眺めていると、ノラは真っ直ぐこちらに近付いて来た。
《よう! イリス、ラズライト》
ばっさばっさと空中でホバリングしながら、ノラはいつになく真剣な目をしていた。
「ノラ、久しぶり」
《何かあったの?》
ただならぬ空気に、ラズライトはすぐに先を促す。
すると、ノラは何故か言い淀んだ。
《その…頼みたい事があるんだけどな》
「良いよ」
《うん。頼みたい事って何?》
イリスが内容も聞かずに頷き、ラズライトも追随する。
ノラは目をしばたいた後、ブルブルと首を横に振った。
はあ、と溜息一つ。
《…ありがとよ。ちょっと、ウチまでついて来てくれ》




