131.空と霧と翼と拳
背中に風を受けると、軽くなった身体は押し出されるように上昇した。
翼を広げれば、さらにぐんと加速する。
──どんなに羽ばたいても浮かぶことさえ出来なかった子どもの頃とは違う。
風を受ける翼が、渦巻く魔力が、何より──背中に乗る温かさが、力をくれる。
ひどく遠かったはずの空が、今はこんなにも近い。
《──霧に入るよ!》
「うん!」
高揚する気分のまま、ラズライトは上層の濃霧の中に飛び込んだ。
真っ白で何も見えないのに、どこに何があるのか分かる。
その感覚は自分のものではない、と、ごく自然に認識した。
──それは、イリスの知覚だ。
ものの数秒で、ラズライトは霧の層を抜けた。
その先は、青い青い空。
霧の残滓を撒き散らしながら翼を広げ、その場に静止すると、数メートルほど下にドラゴンたちの姿が見えた。
身体の大部分は霧の中。
突き出した頭が、唖然とした表情でこちらを見上げている。
その中央、ジェイドの顔が、ふと訝しげなものになった。
ラズライトの傍に、イリスの姿が無いことに気付いたのだろう。
──そう。先程までラズライトの背に乗っていたイリスは、霧の中で降りていた。
その行先は、
「──こンの、」
ボッ!
霧の中から、突如イリスが飛び出した。
場所は──ジェイドの真正面。
《!?》
「分からず屋あ!」
驚愕に固まるジェイドの顎に、イリスの右アッパーが見事に決まる。
ゴッ!!
素手で殴ったとは信じ難い音と共に、ドラゴンの巨体が一瞬浮いた。
牙が一本折れ飛んで──ジェイドはそのまま横倒しになる。
霧が吹き散らされ、ズン、と重々しい音がして、仲間たちの悲鳴が上がった。
《長!?》
騒然とする周囲をよそに、イリスは仁王立ちしてジェイドを睨み付け、大上段から言い放つ。
「息子の話くらいちゃんと聞け、この頑固オヤジ!!」
ビシッと指を突き付け、そのポーズのまま、
「……」
イリスはぱたりと倒れた。
《イリス──!?》
ラズライトの叫びが、ドラゴンの棲み処に響いた。
そして。
《…なるほどな》
ラズライトの話を聞いたジェイドは、深く納得したように頷いた。
その眼前で、ラズライトは居心地悪く身じろぎする。
イリスに強烈なアッパーを喰らって倒れた後、ジェイドは存外早く復活した。
憑き物が落ちたように話を聞く体勢になったジェイドに促されるまま、ラズライトは棲み処を出る切っ掛けから、各地を放浪していたこと、イリスとの出会いなど、洗いざらい話し──ついでに自分の思いもぶちまけた。
飛べないことが引け目で、ずっと居場所が無いような気がしていた、と。
その間、ジェイドは相槌を打ちながら、否定も肯定もせずにひたすらラズライトの話を聞いていた。
そうして、ラズライトが話し終えると、
《──済まなかった》
ジェイドはラズライトに頭を下げた。
《ち、父上!?》
《飛べなくとも焦ることはないと、時が来るまで見守ろうと決めていたのだが──それでお前を不安にさせてしまったのだな》
《焦ることはない?》
弟が飛べたのに、焦らないで良いとはどういうことか。
ラズライトが首を傾げると、ジェイドは頷いた。
《お前は私と、サファイアの子だ。サファイアは水の氏族出身──元は飛べないドラゴンなのだ。その血を引いているのだから、飛び方が分からなくとも無理もない》
《え!?》
母──サファイアは、元々飛べなかった。
初めて耳にする事実に、ラズライトは目を見開く。
ジェイドは丁寧に説明してくれた。
──ドラゴンは、その血筋と暮らしている場所の魔力や魔素の属性により、外見や能力が大きく変わる。
ジェイド率いる氏族は、霊峰に満ちる風の魔素の影響を強く受けるため飛行能力に長け、サファイアの出身氏族は水の魔素が豊富な地域に棲んでいるため、水中でも呼吸が出来、泳ぎに特化する。
ラズライトは母似、弟のスフェーンは父似。
昔から仲間たちにそう言われてきたが、それは外見だけではなく、身体能力や特性を含めた話だったのだ。
理解して、ラズライトは膝から崩れ落ちそうになった。
(…それじゃあ、僕は勝手に卑屈になってただけで…)
引け目を感じることなど何も無かった。
ならば──家出をしたラズライトの事を、両親も弟も仲間たちも、本当に心配していたのではないか。
そう思い至り、今度は心の底から恥ずかしく、申し訳ない気持ちになる。
穴があったら入りたい。
《──サファイアは、こちらの魔素に馴染んで飛べるようになるまで300年ほど掛かったのでな。お前も100年単位で時間が掛かるだろうと思っていたが──》
ジェイドはラズライトに視線を向ける。
その目が思わぬほど優しかった。
《…まさか、人間の魔法との合わせ技で飛んで見せるとは。お前の魔力制御が相当緻密なのは認識していたが…やはり、魔法にかけてはお前の右に出るドラゴンは居ないな》
《みんなが飛ぶ時は、魔法じゃないの?》
《魔力を使って身体を軽量化し、風を操るという点では魔法に近いが…ドラゴンが飛ぶときは、ほぼ無意識に魔力を使っている》
やはり普通とは違ったらしい。
お前もいずれ使えるようになる、と、ジェイドは頷いた。
その後、少し困ったように目を細める。
《とはいえ──お前はあの人間と一緒に行きたいのだろう? この地の魔素に馴染むのには、かなりの時間が掛かりそうだな》
《え?》
ラズライトは目を見張った。
その言い方は、まるで──
《僕、イリスと一緒に行って良いの?》
《お前のためにあれだけ怒って、あれだけ強烈な拳を放てる人間だ。不安は無いわけではないが──》
ジェイドは言葉を切り、棲み処の奥へと視線を向ける。
そこには、目を回して倒れているイリスと、それを心配そうに見守っているスフェーン、苦笑しているサファイアの姿があった。
《──あれを放っておくのは、お前の方が心配で仕方ないだろう?》
《…うん》
ジェイドに見事なアッパーカットを喰らわせた直後にそのまま倒れたのは大変驚いたが、サファイアの見立てによると、急激に体内の魔力を使ったため、貧血のような状態になっただけらしい。
あの浮遊魔法は十中八九イリスの仕業だ。
初めての魔法があれでは、倒れるのも仕方ないのだろう。
《…僕は、イリスと一緒に行きたい。イリスはエルフだから、僕がここに戻って来るのは数百年後になっちゃうかも知れないけど…》
ドラゴンの寿命は数千年。
そのうち数百年を棲み処の外で過ごすなど、前代未聞だろう。
申し訳なく思って言うと、ジェイドは少し驚いた顔をした。
《彼女はエルフなのか?》
《本人はそう言ってたよ。耳も尖ってないし、今までは魔法も使えなかったから、『出来損ないだ』とも言ってたけど…》
イリスが魔法を使ったのは、恐らく先程が初めてだ。
そう説明すると、ジェイドはふむ…と呻いた。




