124.カンラン石と古傷
イリスはあっさりと崖を登り切った。
考えてみれば、まともな足掛かりさえ無い南の半島の台地に登るイリスである。普通の崖など大した問題ではないのだろう。
たった今登った崖も、沢の流れは滝になって落ちていたのだが、目的の滝壺はもっと上流にあるらしい。イリスは迷う事無く歩いて行く。
さらに『滝』とは言えない段差をいくつか登った先で、イリスはようやく足を止めた。
「着いた!」
《…これ?》
「そう!」
目の前には、落差2メートルほどの滝。
それは良いのだが、そのすぐ上流側にも滝、来た道を振り返っても滝──つまり今、連続してある滝の中ほどに居るのだ。
イリスとラズライトが乗っているのは、大きな岩の上。
いかにも上流の岩といった感じで、かなりごつごつしている。
ラズライトは恐る恐る滝に近寄り、滝壺を覗き込んだ。
《……見えない…》
「そりゃあそうだよ。滝壺に沈んでるんだもん」
水量は豊富で、滝壺付近は水面が激しく叩かれ、中は見通せない。
滝壺から少し離れた位置はとても澄んでいて、清流と呼ぶに相応しい水質がうかがえた。
ただし──ヒゲに感じる空気はかなり冷涼で、水温はとても低そうだ。
《沈んでるものをどうやって採る──!?》
振り返りながら訊こうとして、ラズライトは目を見開いた。
イリスが何故か上着を脱ぎ、タンクトップとズボンという格好になっている。
《何してるの!?》
「え? 潜る準備」
《潜る!?》
言っている間に、イリスはブーツも靴下も脱いで裸足になった。
何回か膝の曲げ伸ばしをして、すたすたと滝壺に近付く。
「じゃ、待っててね」
《ちょっ──》
イリスは軽く右手を挙げ、ラズライトが止める間も無く滝壺に飛び込んだ。
盛大な水しぶきが上がり、すぐにイリスの姿が見えなくなる。
(え? え? 滝壺って人間が泳いで平気な場所だっけ?)
確か、滝壺は水流が上下に渦巻いているから、変な所に入ったら抜け出せなくなるのではなかったか。
『あちらの世界』の僧侶が修行の一環として行う滝行も、足元にはちゃんと石や足場があって、立っていられるようになっていたはずだ。
ラズライトが呆然としているうちに、水面が揺らめき、ざばっと音を立ててイリスが上がって来た。
「大漁大漁! ラズライト、これよろしく!」
《うえ!?》
手近な岩の上に砂利のようなものを置き、イリスはまたすぐ滝壺に潜って行く。
置いて行った砂利は、透明感のある緑色をしていた。
深い緑色ではなく、明るい黄緑色から若干渋みのあるオリーブグリーンといった色合いだ。
たまに濃い緑色から黒色に近いものも混ざっているが、そちらはあまり透明感が無い。
ラズライトが観察していると、イリスが再び水面から顔を出した。
「これで十分かな」
今度はそのまま岩に上がり、大量の雫を滴らせながら緑色の砂利を追加する。
こんもりと積み上がった砂利は、両手のひらから溢れるくらいの量になった。
《あっという間だね…》
「滝壺にこの石だけが集まってるんだよ。潜るのはちょっと大変だけど、選別も要らないからここから採るのが一番楽なんだよね」
『ちょっと大変』どころの話ではないと思うのだが、イリス基準なので深くは突っ込まないでおく。
タンクトップの裾を両手で絞っているイリスに、ラズライトは『乾燥』の魔法を掛けた。
いくら夏でもこの標高は結構涼しいし、水はどう見てもキンキンに冷えている。
放っておいたら風邪まっしぐらだ。
「おお」
見る見るうちに乾いて行く服や髪を、イリスは楽しそうに眺めていた。
(…あれ?)
その横顔──左のこめかみのあたりに奇妙な跡が見え、ラズライトは首を傾げる。
日常的に野外生活を送っているから多少日焼けしているが、イリスは元々肌が白い。
その奇妙な跡は周囲から少し盛り上がっていて、日焼けしていない肌と比べてもさらに一段、白かった。
まるで、何か大きな傷の跡のような──
「ラズライト、どうかした?」
《え、あ……えっと、左のこめかみ、何か跡が見えたんだけど…》
首を傾げるイリスに恐る恐る訊くと、イリスはそこに左手を当て、ああ、と肩を竦めた。
「古傷の跡だよ」
《古傷?》
イリスは極めてあっけらかんとした表情で続ける。
「生みの親に、硬い木の椅子でぶん殴られた跡」
《…………はあ!?》
「イイ感じに椅子の足の角が当たってねぇ。流石に痛かった」
軽い口調で言うが──目はそっと明後日の方へ向いている。
ラズライトが絶句していると、イリスはぼそりと付け足した。
「魔法が使えない奴は、『私の子どもじゃない』んだってさ。最初は何が起こったか分からなかったんだけど、呆然としてる間にもう1回椅子を振り上げられたから、そのまま逃げた。──んで、故郷とはそれっきり」
パッと両手を広げて言う態度には、後悔も恐れも怒り悲しみも無い。
何を言えばいいのか分からず、ラズライトは迷った末に何とか言葉を絞り出した。
《…それって、何歳くらいの時?》
「確か、6歳くらいかなあ。ほら、エルフって魔法が使えるようになるまでは集団保育されるのよ。普通なら4歳から5歳くらいの間に魔法に目覚めて、そうするとちゃんとした名前を貰って親元で育てられるようになるんだけど…」
エルフという種族はかなり特殊で、子どもの頃は全員、『銀髪金目』の姿をしている。
この頃の子どもは魔法が使えず、過去には人狩りの獲物として狙われていた事もあったため、イリスの故郷では全員を村の中央にある屋敷に集め、集団で育てていたらしい。
成長すると、おおよそ4歳から5歳くらいの頃に髪の色と目の色がそれぞれ独自の色に変わる。
それと同時に、魔法が使えるようになる。
しかしイリスは、6歳を過ぎても銀髪金目のままだった。
前例の無い事態に、大人たちは相当頭を悩ませた事だろう。
結局イリスはその見た目のまま親元に戻ったのだが──それから半年ほど経って、髪が銀青色に、瞳が青緑に変わった。
ところが、魔法は使えないまま。
長老たちが寄って集って調べ、数日後にイリスは『魔法が使えない』と正式に結論付けられた。
イリス自身にはどうしようもない事実を突き付けられて、母親は狂乱状態に陥り──自宅でイリスの頭目掛けて椅子を振り下ろした。
「魔法じゃなくて良かったよ。魔法なんて使われたら、多分一発で死んでたと思うし」
語る声は、ただ飄々としていた。
たった6歳で母親に殺され掛けて、里を出た──あまりにも壮絶な過去に、ラズライトは言葉を失う。
その反応を予想していたように、でも、とイリスは笑った。
「あれで里を出たから、じいちゃんや師匠、ラフィ姉やレオ兄に会えて、生きる術を教えてもらえて、ラズライトにも会えたんだから。結果オーライ、ってやつだよ」
《そういうもの?》
「そういうもの」
辛うじて訊いたら、大仰に頷かれた。
──達観しているその顔に、何故か胸が痛くなった。




