110.北へ
崖壁都市メランジに滞在すること、3ヶ月。
春の花が咲き始める頃、イリスは唐突に呟いた。
「よし、そろそろ北に行こう」
《北?》
『カラスの羽休め亭』の食堂。
食後のヤギ乳を飲んでいたラズライトは、言葉の意味を掴みかねて首を傾げる。
街の北側には、もう何回も足を運んでいる。
金鉱床開発の下見にハドリーと従者を案内したり、カイトたちの鉱石探索に付き合ったり。
改めて『北に行こう』とは、どういう意味なのか。
「そう。そろそろ、北の街に移動しようかなって」
《ああ、なるほど》
確かイリスは、季節ごとに過ごしやすい場所に移動するのだったか。
《北って言うと、王都?》
ここから真っ直ぐ北に向かうと、この国の王都に行き着く。立地的にも経済的にも政治的にも、この国の中心だ。
そちらに行くのかと思っていたら、イリスは首を横に振った。
「いや、もっと北。ハルンフェルスって街だよ」
(げ)
ラズライトは思わず内心で呻いた。
──山岳都市ハルンフェルス。
この国の北、山岳地帯の中腹に位置する都市だ。
谷筋から山の斜面に張り付くように広がる都市は、風光明媚な観光地、兼、避暑地として裕福層に人気がある。
何が『げ』なのかと言えば──そのすぐ北に位置する霊峰は、ドラゴンの棲み処、つまりラズライトの出身地。
ノラを通して散々『帰って来い』と言われている、実家なのだ。
「──イリスさん、街を出て行ってしまうんですか!?」
ラズライトが固まっていると、ジーンが駆け寄って来た。どうやら、先程のイリスの発言を聞いていたようだ。
給仕をしている時のエプロンではなく、冒険者姿のジーンは、焦ったようにイリスを見詰める。
「何かあったんですか?」
「いや、何かあったと言うより…」
イリスが言葉に詰まった。
彼女は元々、季節に合わせて街から街へ移動しながら暮らしていた。
何かあったからではなくて、何も問題が無いからこそ街を出るのだ。
「毎年そうなんだよ。冬はこの街。夏はもっと北の街。そういう習慣になってて」
あまりにも居心地が良いので、てっきりここに定住する気かと思っていたのだが──そうではなかったらしい。
「で、でも、色々あるんじゃないですか? タッカーさんのところとか、ロゼさんの事とか、冒険者ギルドにだって、その…」
「ジーン、そこまでだよ」
カウンターの奥から出て来たターニャが、苦笑しながらジーンを止める。
「イリスはそうやって生活してきたんだろう? 別にこれが最後になる訳じゃない。冬はこの街に来るってんなら、半年ちょっと待てばまた会えるさ」
ターニャは元冒険者で、宿のオーナーだ。
定住する者、旅暮らしをする者、色々な冒険者を見て来たのだろう。
ジーンの肩に手を置いて、ターニャがこちらを見遣る。
「まあ、急すぎるって言いたくなるのは分かるけどね。すぐに出発するのかい?」
「いや、色々買い揃えなきゃならないから、準備に数日は掛かるかな」
逆に言えば、数日後にはこの街を出る気だという事だが。
ジーンが目を潤ませる。
ラズライトは溜息をついて待ったを掛けた。
《旅の準備だけじゃ済まないよ、イリス。冒険者ギルドにはちゃんと言っておいた方が良いし、ハドリーやタッカーにも伝えなきゃ。あと、カイトたちとかロゼとか、この街でお世話になった人にもね》
例のお屋敷や金鉱床の件もある。黙って居なくなるのはいただけない。
ラズライトも、公衆浴場の洗濯係の指導がつい先日終わったばかりだ。
街を出るなら、彼らにも挨拶するべきだろう。
「ええ…」
《面倒臭がらないの》
ついさっきまで北の街には行きたくないと心の底から思っていたのだが、一応相棒なので、ついて行かないという選択肢は初めから存在しない。
放っておくと何をしでかすか分からないイリスである。一人で野放しにする方が怖い。
(…山に登らなきゃいいだけだし…)
自分に言い聞かせておく。
その後、イリスとラズライトは冒険者ギルドに出向いて挨拶をし、居合わせたハドリーにも北に旅立つと告げ、タッカーのところにも顔を出した。
「──街を出るだあ!?」
《…ロベルトたちとほぼ同じ反応だね》
既に何度も聞いているので、叫ばれてももう驚かない。
ラズライトが呟くと、タッカーは直ぐに冷静になった。
「冒険者ギルドにももう言ってあんのか。なら、止められねぇな」
「あれ、あっさり」
拍子抜けしたようにイリスが小首を傾げる。
タッカーが肩を竦めた。
「お前らの中では確定事項なんだろ? 食い下がるのは野暮ってもんだぜ。──ま、ミスリル銀もオリハルコンも、1年分くらいは十分ある。今年の冬にまた採取に行ってくれりゃ、文句は無ぇよ」
《ちゃっかりしてるなあ》
「当然だろ?」
この冬、イリスが何度かミスリル原鉱とオリハルコンを採って来たから、材料の在庫は十分なのだという。
十分と言っても、インゴットの数はそれほど多くない。
本当に大丈夫かと念を押したら、ミスリルやオリハルコンを使った武器はかなり高価なので、買える人間も限られるのだという答えが返って来た。
「そもそもこんな希少材料、その辺の武器屋に卸す武器には使わねぇからな。フルオーダー限定、しかも俺の眼鏡に適った奴だけに作る前提なんだよ」
「あ、なるほど」
その意味では、フルオーダーかつ無料で総ミスリル(オリハルコン入り)のハンマーとタガネ作ってもらったイリスは、『タッカーのお眼鏡に適った』相手だったのだろう。
…希少素材をポンポン採掘する鉱物マニア仲間、という認識な気もするが。
「ああ、それからな」
タッカーが話を変えた。
「火精霊のロゼ。あいつ、ウチで働く事になったぜ」
《え、ホント?》
ラズライトはパッと顔を上げた。
タッカーは何だか楽しそうだ。
「金鉱床探しに行ってから、ちょくちょくうちの工房を見学しに来るようになってよ。炉が気になるってんで魔力充填やら火力調整やら教えてみたら、これがとんでもなく飲み込みが良くてなぁ。スカウトってやつだ、スカウト」
火山出身で、地属性とも親和性の高い火の精霊。
金属の精錬や鍛造に使う炉と相性が良いのは当然と言える。
《武器の作り方も教えるの?》
「それは本人の希望次第だな。炉の制御を手伝ってもらえるだけでも十分助かるからなぁ」
「とか言って、火の精霊が鍛えた武器がどうなるか、気になってるんじゃないの?」
イリスがニヤリと笑うと、タッカーも同じような顔になった。
「そりゃな。だが無理強いは良くねぇんだよ、無理強いは」
これは、結構我慢しているようだ。
しかし、ロゼの身の振り方が決まったのは幸いだった。
念のため、後でロゼ本人にもそれで良いのか訊いてみよう。
…記憶の片隅で、『ヨッ、世話焼きドラゴン!』とどこぞの伝令カラスが囃し立てている気がするが、全力で無視する。
その後、他の面々にも挨拶回りをし──やたら驚かれたり引き留められたりしつつ──10日後、イリスとラズライトは揃って崖壁都市メランジを後にした。




