うぉ→雨降って鬼隠れる
愛紗はそのまま殺気のほうへと飛び出した。後ろから声をかけられたが、気にしてはいられない。
――鬼が一人じゃない可能性を考えてなかったわ!
胡遊から殺気は感じなかった。
愛紗は彼女を捕まえようとする官吏たちの手を器用に交わし走る。
宴の会場を抜け、殺気を追った。長い廊下を走り、小さな庭を抜けようとしたところで、殺気は強く大きくなった。
――仕方ないわっ!
愛紗はピタリと足を止め、霊力を練る。
――とにかく今は鬼の正体よりも、お父さまを守るほうを優先しなきゃ。
子どもの足では鬼の居場所を突き止める前に黎明が暗殺される可能性がある。黎明の側に張り付いていることも可能ではあったが、大勢の中で仙術を使えばどうなるかくらい愛紗は理解していた。
真夜中ならいざ知らず、宴の真っ只中で使えば皇帝の娘とてその地位を維持することは難しいだろう。そうなれば、永続的に黎明を守ることができない。
「巻き起これっ! 風巻っ!」
風のない静かな庭に、愛紗の声が響いた。雲一つない空に厚い雲集まってくる。
ぽつり、と雫が愛紗の顔を濡らした。同時に愛紗の身体はポンッと小さな子猫になる。
「みゃあっ!」
――成功成功。
次第に強くなる雨に笑いを堪えることができない。雨で宴は中止になるだろう。雨から守るために黎明の周りには大勢の人が集まる。鬼と言えど、多くの人をなぎ倒し黎明を狙うのは骨が折れる作業だ。
――それにこの雨はただの雨じゃないのよ。
仙術で作り上げた雲に何もしないわけがない。邪の力を弱体化させる術を練り込んであるのだ。今ごろ、雨に打たれた鬼は苦しみ取憑いた人間の奥底へと隠れただろう。
それを裏付けるように、強かった殺気が弱まっていく。
――ふははは! ……いけないいけない。悪役みたいな笑い方をしちゃったわ。
気分良く前足で頭を掻く。と、同時に大きな声を上げた。
「みゃあっ!?」
ふわふわの毛が降りしきる雨でずぶ濡れではないか。何度か身体を大きく振り水気を飛ばすが、降る雨のほうが速い。
どこかで雨宿りをしようとしたとき、首根を捕まえられた。
「全く、落ち着きのない子だなぁ~」
「みゃあっ!」
振り返る必要はない。声だけでそれが誰だかわかった。――胡遊だ。彼は右手には傘を持ち、左腕に子猫になった愛紗を抱く。
「この雨は君の仕業だろう?」
胡遊が楽しそうに口角をあげた。鬼だというのに、まるで効果がないとでも言っているかのようだ。
「ああ、猫になると言葉が話せないんだっけ? 不便な身体だなぁ」
飄々とした態度に苛立ち、愛紗は濡れた身体を大きく振った。水しぶきが胡遊の顔や服を濡らす。
「うわっ。相変わらず君は僕には懐かないね。まあ、いいや。そのほうが面白いし。僕は嫌いじゃない。むしろ、ゾクゾクするよ」
――ゾクゾクは風邪の予兆なのよ。
風邪をうつされるのはごめんだと、愛紗は腕の中から飛び出す。しかし、すぐに首根っこを掴まれてしまった。
「君は本当に見ていて飽きないね。――……君の大雨のおかげで面倒な宴は中止だ。戻ろうか」
胡遊は悠然と歩く。必死にもがき腕から抜け出ようとしても、どういうわけか逃げられない。
――どんな技を使ってるの……!
愛紗が胡遊の腕の中でもがいているうちに、後宮の入り口まで辿り着く。出入りを管理する衛兵たちが胡遊の姿を見つけて背筋をピンッと伸ばした。
一斉に頭を下げる。
「面を上げて。そんなに緊張しなくていい」
堂々たる姿で
「殿下、その猫は……?」
「これは、陛下の愛猫の紗紗様だ」
「しかし、紗紗様がお外に出たという記録はございません」
「いつの間にか抜けだしていたらしい。……門を見張っていたのに気づかなかったのかな?」
威圧感のある笑顔に、衛兵たちはたじろいだ。
「も、申し訳ございません。恐らく、先ほどの騒ぎのときでしょう」
「ここで何か?」
「はい。先帝の妃が数名、『皆様に舞いを披露したい』と押しかけてこられまして……」
――わぁ……。強行突破するつもりだったんだ。
愛紗は昨日訪ねて来た先帝の妃を思い出す。未明と名乗った女だ。愛紗のわがままに乗じようという作戦はうまくいかなかったのだろう。
なにせ、黎明という鶴の一声で宴の参加を許されたのだ。
だからと言って、強行突破はどうかと思う。
「それは大変だったね」
「雨のおかげで皆戻ってくれたのでよかったです。まさか紗紗様を外に出してしまったとは……」
「紗紗様が外に出たのは誰も気づいていない。このことは私の心にしまっておこう」
「ありがとうございます……!」
――恩に着せるようなこと言ってるけど、この人たちは何も悪くないのよね。
衛兵が何度も何度も頭を下げる中、胡遊は何食わぬ顔で後宮へと入って行った。いつ胡遊が襲ってくるかと身構えていたが、彼は愛紗を撫で回すだけで、それ以上のことは何もしない。
胡遊は雛典宮の門の前で子猫を下ろすと、ニッと口角をあげた。
「さぁて、これで貸し一つということで」
「みゃっ!?」
――いつ貸しを作ったのよ!
「子猫の姿で後宮に戻るのは難しかったんじゃないのかい? それに、陛下はこれから子猫ちゃんを探そうとするんじゃないかな? きっと朝まで大捜索が始まるねぇ」
「みゃ……!」
想像するもの容易い。黎明は雨の中、一晩中愛紗を探して回ることだろう。
「そんなことになれば、明日明後日の宴は参加させてもらえないだろうね」
「みゃあっ!」
――それは困る!
今日狙ったということは明日狙う可能性だってあるのだ。
「どうしてもって言うなら、助けてあげよう。子猫ちゃんは疲れて僕と一緒に眠ってしまった。……どうだい?」
「……みゃ」
愛紗は低い声で鳴いた。それで手を打つしかないのだ。
「おや、手助けは不要かな?」
「みゃ、みゃぁ~!」
「何言っているかわからないなぁ~」
――こ、こいつ……!
恐らく胡遊はわかっているのだ。ただ、愛紗で遊びたいのだろう。
「言葉が話せないなら、態度で示さないと」
楽しそうに笑う胡遊はゆっくりとしゃがみ、子猫の視線に近づいた。愛紗は伸ばされてた手に爪を立てる。
胡遊の手に小さな傷を作った。彼は眉一つ動かさず、その傷を舐めるように見つめる。
「良いのかな? そんな態度で。では、陛下に報告しに行こう。愛紗が消え――……」
「みゃっ! みゃぁ!」
――それはだめ!だめなのよ!
「なんだい? そんなに鳴いてもわからないなぁ~」
それ以上胡遊は何も言わない。愛紗は視線を右往左往させた。胡遊に頼らなくてもどうにかなる妙案はないものか。しかし、そう簡単に思いつくものではない。
愛紗はゆっくりと地面に転がる。胡遊の足元で腹を見せた。
――くっ……。一生の不覚。
伸びた手が腹を撫でる。嬉しそうに笑う胡遊の顔を端に見ながら、愛紗は「これは夢」と頭の中で呪文を唱えるのだ。
胡遊が土と水で泥だらけになった愛紗を洗うという名目で珍絽殿に連れて行き、朝まで遊び倒したのはまた別の話である。




