い→お父さまは自分のこと話さないので
映貴妃にも名前を与えました。
本編では映貴妃表記のままですが。
愛紗は山羊の乳を飲みながら、真面目な顔で頷いた。
「お父さまの過去を教えてほしい……ねぇ……」
「あい。映貴妃とお父さまは高州からの縁なんでしょ? お父さまはどんな子どもだったの?」
映貴妃は少し気怠そうに欠伸をしたあと、お茶を一気に飲んだ。昨日は夜半まで三人でこっそりと執務をこなしていたせいでまだ眠いのだろう。
執務とはいうものの、愛紗には何をしているのかよくわからなかったし、ただ墨を擦り続けただけなのだが。
本来なら映貴妃は眠っている時間なのだが、今日はそれができなかった。蓮華宮の向かいにある宮の改修工事が始まったのだ。
騒音で眠れるわけがないと、映貴妃は愛紗のいる雛典宮へと逃げてきた。
突然の訪問に昼寝をしていた愛紗は叩き起こされ、話し相手をする羽目になったのだ。二人の共通の話題など黎明の話くらい。愛紗は以前から気になっていた黎明の幼少期についてたずねた。
「そうねぇ……。はじめて会ったのはまだ私が十才になったばかりのころだったかしら」
映貴妃は遠くを見つめる。随分と昔のことを思い出しているようだ。
映家の三男。それが生まれて与えられた身分だった。名は玖楼。武勲で功績をあげてきた映家に生まれたが、残念ながら筋肉がつきにくく、加えて太りにくい。食わなければどんどんと痩せ、女のようだと両親からはがっかりされていた。
兄のついでに剣技などは習っていたものの、力で押すような戦いができない玖楼は映家の中では出来損ないであった。
どんなに技を磨いても、認めてもらうことはない。そんな持て余されていた玖楼に与えられた仕事は、二才上の皇子の護衛兼話し相手だ。
彼の名は黎明。はじめて見たとき、どんな女よりも美しいと思った。
父が玖楼の背を押し、黎明の前へと出す。高貴な身分の者と言葉を交わすのは初めてで、何を言っていいかわからなかった。
手に汗がにじむ。度胸はあると思っていたが、どうやら玖楼の度胸など、ないに等しいものであったらしい。
黎明の真っ直ぐに向けられた目に何も言えない。痺れを切らした父が口火を切った。
「本日よりこの愚息が殿下のお相手をさせていただきます。どうか、仲良くしてください」
「そうか。映将軍には苦労をかける」
「めっそうもない。困ったことがありましたら、なんなりとおっしゃってください」
黎明は小さく頷き、再び玖楼に視線をうつしたが、それ以上何も言わない。すぐに背を向けてしまった。
――こういうときは「初めまして」とか「よろしく」とかあってもいいんじゃないか?
自分のことを棚に上げて、玖楼は思った。しかし、黎明の背中にむかって声をかける勇気もないのだ。
玖楼の仕事は黎明の護衛ということになってはいるが、いたって平和だった。と、言うのも高州は辺境の街で、宮中の争いごととは無縁だからだ。近隣の部族が襲ってくることはあるので、注意は必要ではあったが、そのような大ごとになれば、玖楼ではなく父の出番となる。
玖楼はつかず離れず、黎明が視界に入る場所で、暇な一日を過ごすことが多かった。
彼はただ読書をしていることが多い。
いつもなら、訓練をしている時間だ。それをただの置物のように立っている。身体は大きくならないし、技も磨けない。どんどん役立たずになっていくような気がした。
黎明が玖楼に声をかけたのは、出会って十日目のことだ。
「私のことは構わず、好きなことをすればいい」
「そうはいかないでしょ。もし何かあれば、怒られるのは俺です」
「何もない。あっても死なない。だから、怒られたとしてもかばおう」
「死なない人間はいないですよ。他の人がいいなら、父に言ってください。代えてもらえばいい」
「君がいいならそれで。ただ、立っているのは暇だろう? どこか行きたいところは?」
「殿下の行きたい場所について行きますよ」
「私はこの辺のことはよくわからない。やることもないから本を読んでいるだけだ。この屋敷にある本は読み切ったし、君がふだん行く場所に連れて行ってほしい」
武ばかりを極めていた家に書物がたくさんあるわけがない。玖楼はしばし考えた。いつも行ってる場所など一つしかないからだ。
「殿下にはつまらない場所かもしれませんが」
「かまわない。この部屋で時間を潰すよりは有意義だ」
黎明は表情を変えずに言った。何を考えているのかわからない顔だ。
玖楼は悩んだ末に、黎明を訓練場へと連れて行くことにした。朝から晩まで訓練をしていた玖楼は、他に暇を潰せる場所を知らない。
「ここは?」
「映家の訓練場です。俺は毎日、ここで剣や弓を練習します」
「そうか。なら、私も今日から君と共に毎日同じことをしよう」
「……は?」
こんな野蛮な場所、と怒られるかと思っていた。しかし、黎明は弓を取る。
「だめか? 弓なら五つのときから習っている。迷惑はかけない」
「いや……父がなんというか」
「ならば、私からお願いしておこう」
黎明が気難しい父をどんな言葉で説き伏せたのかはわからない。次の日から二人には師範までつけられた。
一つ、誤算だったのは、黎明とともに座学まで学ぶことになったことである。
「俺は戦場に出て手柄を立てたいんです。こんな勉強なんか……」
「玖楼は武勲をあげたいのか?」
「それは、俺がヒョロヒョロだと言いたいんですか?」
兄たちはがっしりとしていて体格がいい。事実とはいえ、それと比べられたみたいで悔しかった。
「いや、身体の大きさと武勲は関係ないだろう? 一度に十人薙ぎ倒す力がなくても、それと同じ功績をあげればいい」
「同じ功績?」
「才ある将とは、犠牲を最小限に留めた上で、勝つことだ。強いことではない。どんなに強くても一万の兵を、身一つで守ることはできないだろう。そして、一人では相手の一万の兵を倒すこともできない」
「たしかに」
「技ばかり磨いても、君は一万の兵の中に入り目の前の敵を倒すことしかできない。しかし、こうやって多くのことを学べば、一万の兵に勝利の道を指し示すことができる。君が一万の兵の中に混じり、その中で武勲をあげたいというなら止めはしない」
黎明の言葉は目から鱗だった。強くなればいいと思っていた。兄のように硬く大きくなれないのであれば、それを補うよう技を磨けばいい。そう信じて必死だった。
「殿下と一緒に学べば、一万の兵を動かせるようになれますか?」
「それはやってみなければわからない。だが、無駄なことなど一つもない」
黎明はそれだけ言うと、筆を持った。高州の片田舎に追いやられるということは、早々に皇位争いから外されたのであろう。
生母の実家は高州でも有数の豪族だったが、黎明の処遇に肩を落とし、映家に世話を丸投げする始末。
それでも、無駄なことはないと言える黎明が玖楼には大きく見えた。




