りょ→夜の胡遊は一味違う
愛紗は呆然と男を見上げた。
――雰囲気が全然違う。というか、別人。
隠すように伸びていた長い前髪。今は左右に流され、黄金の瞳が満月のように浮かんでいる。それだけで雰囲気が変わるというもの。
隠れていた顔の半分が露わになると、なかなかの美男子である。さすがは黎明の兄弟というべきだろうか。おどおどとした調子は鳴りを潜め、自信に満ちた笑みを携える。
「今朝方会ったばかりじゃないか。それとも忘れてしまった? 叔父さまの顔」
ずいっと近づけられた顔に思わず仰け反る。
「子猫ちゃんにはもう一度会いたいと思っていたんだ。まさか、自分から来てくれるとは思わなかったけどね」
胡遊はニコニコと嬉しそうに笑う。
「鬼退治に来たのよ」
「鬼の見分け方を知っているなんて、賢い子だ」
「褒めても助けてなんてあげないんだからっ」
霊力を練る。たった一度の仙術で勝てる見込みはなかったが、尻尾を巻いて逃げるなど猫族の恥というもの。
「切り裂けっ! 鎌鼬っ!」
愛紗は叫んだ。同時に、無数の風の刃が胡遊に向かって飛ぶ。手加減をすれば、今朝の二の舞だ。
容赦のない鎌鼬が胡遊の頬をかすめた。腕や足を傷つける。
「ええっ! なんでっ!?」
愛紗は思わず叫んだ。至近距離からの攻撃だというのに、服の端を傷つけ、皮膚に僅かな傷しか残せてはいない。
愛紗は叫び声と共に子猫へと変化した。体勢を整える暇もなく首根っこを掴まれてしまう。
子猫は四本の足をバタつかせた。
「みゃあ~っ!」
「いいや、僕にかすり傷をつけるなんて凄いことだよ? 怪我をするのは生まれて初めてだ。普通の人間だったら、僕には指一本触れることはできないからね」
――人間じゃないもんっ。
胡遊が愛紗の心を読めるはずもなく、黎明に似た手で子猫の頭を撫でる。黎明よりもやや乱暴ではあったが、悪くない。
――はっ! 敵に撫でられて喜ぶなんて一生の不覚!
本能には勝てない。しかし、悔しくはあるのだ。思わず、胡遊の手を殴る。子猫の小さな手では彼に傷一つつけられない。それが悔しくて、何度も何度も殴った。
「いやあ、二十二年生きて猫になる人間に出会ったのは初めてだ。不思議だなぁ」
子猫からの攻撃など痛くもかゆくもないのだろう。楽しそうに笑うと空いた手で、子猫の腹を乱暴にかき回した。
「陛下に呼ばれて渋々来たんだが、ここに来て本当によかった。当分は楽しめそうだ」
「みゃあ~!」
「君はどっちが本物? 人間? それとも化け猫なんだろうか。なんのために陛下の娘をやっているんだい?」
「シャーッ!」
「猫になると人間の言葉が話せないのか。不便だなぁ。生憎、僕は猫語は分からないんだ。時間はたっぷりあるし、遊ぼうか」
胡遊の口角が不気味な弧を描いた。
三刻のあいだ、胡遊はただただ愛紗をこねくり回す。逃げることも許さないが殺すこともない。人間に戻ったころには、愛紗はすっかり疲れていしまっていた。
「へぇ……。猫になるのはあの変な風を起こしてから三刻程度か。興味深いなぁ」
「うるしゃい。殺すなら一思いにやってよね!」
殺されれば、黎明を守ることはできない。つまり、修行の終了を意味するのだが、負けは負け。致し方ない。上仙になるという夢を諦めねばならないが、愛紗の不徳の致すところだ。
愛紗は大の字になって床に転がった。人間の身体が傷ついても、仙界にある本物は傷つかない。しかし、痛みは感じるのだ。できれば痛みは一瞬がいい。
「そんな、殺すなんて勿体ない。そんなことはしないさ。君みたいな不思議な人間、僕は大好物だからね」
胡遊は目を細めて笑った。彼は冷えた手で愛紗の頭を撫でる。
――この鬼、仙界の者を知らないのね。
愛紗も人間界に来るまで、鬼の存在は伝説程度にしか知らなかった。ならば、逆もまた然り。胡遊に取憑いている鬼が仙界の者を知らなくてもおかしくはない。
「また、風を起こさないの? あれ、また見たいなぁ」
「や。あれ疲れるもん」
渾身の一撃が効かないのだから、お手上げだ。しかし、胡遊が愛紗を殺す気がないのであれば、やりようもある。側にいれば自ずと弱点も見えてくるというもの。
――隙を見て絶対にやっつけてやるんだから。
愛紗は床の上で丸くなる。三刻のあいだこねくり回されて、疲労困憊なのだ。もう朝日が昇っている。徹夜で遊び倒された幼子の身体は限界を迎えていた。
敵の縄張りで眠るなど……。と、考えながらも、愛紗は重い瞼に抵抗できなかった。
胡遊の腕の中、小さな寝息を立てて眠る愛紗を黎明は見下ろした。
黎明の命を受け、朝儀の前から始まった愛紗の大捜索。宦官たちは後宮内を必死に探した。騒ぎを聞きつけた胡遊が慌てて、手を上げたのだ。
「このようなところにいたとは」
「すぐに陛下に知らせようと思ったのですが……」
「いや、愛紗が無事ならば構わない。夜分に迷惑をかけたな」
黎明は愛おしそうに愛紗の頭を撫でた。
「陛下もそのような顔をなさるのですね」
「変な顔をしていたか?」
「変ではありません。陛下は昔から何事にも無関心であらせられた。よい変化だと思っております」
頭を撫でた手が頬に滑る。柔らかい頬を二、三つつくと愛紗は小さく眉根を寄せた。その様子が面白く、黎明と胡遊は顔を見合わせて笑った。
「この子は私に生きる意味を与えてくれた。ただ、それだけだ」




