ある→鬼ごっこ始めましょう
提灯の明かりが地面に愛紗の影を映し出す。
目の前の男はにやりと笑った。
「殺気? なんのことでしょうか?」
「誤魔化しても無駄なのよ。あなたは誰?」
「誰と申されましても。私は尚心ですよ。愛紗様が一番存じ上げておりましょう?」
「影のない人間はいないのよ」
愛紗は構えた。仙術を使えるのは一度きり。確実に仕留める強力な術でなければならない。
「良いのですか?」
「なにが?」
「術で攻撃すれば、この人間は肉の塊となりますよ?」
「……どういうこと?」
「私たちは人間界にいるためには人間の身体を借りる必要があります。されど、この肉体は人間。私たちの力で身体能力は少々向上しますが、肉体はもろいまま。仙術を真正面から浴びれば、私の命も危ういが人間の肉体など肉片が残っているかどうか……」
クツクツと笑う男の顔は提灯の明かりで赤に染まり、酷く歪んでいた。
――つまり、今攻撃すれば尚心は中の鬼と一緒に死ぬってことか。
「まさか、このようなところに仙がいるとは思いませんでした。かの者の命を奪う簡単な仕事だったのに、こんなに手こずるとは。嬉しい誤算です」
「鬼は殺戮を好むって聞いたわ。なんで、お父さまの命だけを狙うの? ただの人間よ」
「それは――……いや、それを答えることは私には許されておりませんから」
尚心は両手を広げた。両方の手のひらに炎が現れる。
「毎夜毎夜、邪魔ばかりしていただいたお礼をしなくては……ね」
尚心は、両手の炎を愛紗に向かって投げつける。愛紗は慌てて後ろに飛び退いた。小さな身体は均衡を保つことが難しい。
そのままコロンと地に転がる。
「わっ!」
「おや、仙の癖に鈍くさい。これではすぐに終わってしまいそうで残念です」
本心からくる言葉なのだろう。尚心はじわじわと愛紗に近づいた。足下までゆっくり歩いてきた尚心を見上げる。
「仙を殺したとあれば、地界で自慢ができる。なので、もう少し抵抗していただけますか? できれば少し傷つけてもらえると信憑性が高くなります」
「傷がつくのは人間の身体でしょ?」
「なに、人間が傷つけば私も傷つくようにできておりますから。まあ……仙がつけた傷ならば、千年もすれば消えてしまうでしょうが」
「よく回る口ね」
冥土の土産のつもりなのか。尚心はつらつらと語る。
――この様子だと、嘘はなさそう。だとしたらますます攻撃はできない。
「でも、なんで今日はいつもよりも大胆なの?」
「おや、愛紗様は何も知らないようだ」
尚心はカラカラと笑う。
「あたし、ぬくぬく生きてきたご令嬢なので。でももう死ぬんなら教えてくれてもいいでしょ?」
「そうですね。いいでしょう。今日が新月だからですよ」
「月の満ち欠けが重要なの?」
「月や太陽の力が大きい日は、力の制限が大きくなるのです。地界には太陽も月もありませんからね」
「なるほど……。仙界に鬼が現れないのは常に太陽か満月が空を支配しているからか」
「そのとおり。愛紗様はお利口様ですね」
「ま、あたしはできる女なので」
厚い雲がかかった昼間、黎明が襲われたことがある。あれは、太陽の力が弱まったからだったのか。妙に納得がいって、愛紗は何度も頷いた。
「さて、たくさん時間を稼いだみたいですが、対処法は見つかりましたか?」
「そう、ね……。ちょうど一個だけ打開策を見つけたところなの。知りたい?」
鬼を殺そうとすれば、尚心の肉体は確実に死ぬ。罪ななき者を殺めても良いという教えは仙界にはなかった。
修行とは言え、それは愛紗の望むところではない。ならば、尚心ごと捕えることだが、仙術が使えるのは一度きり、捕え朝まで拘束せねばならないのだ。子猫の姿では難しい。
――こんなとき、十然がいたら……!
十然は夜伽にはついてこないのだから仕方ない。
「仙の知はとても興味がございます。ぜひ、教えていただけますか?」
「もちろんよ。あたしと尚心の仲じゃない?」
まさか、尚心と出会ったときには既に鬼に乗っ取られているとは思いもしなかった。華やかな提灯にばかり気を取られて、上ばかり見ていたことが悔やまれる。
愛紗は起き上がると、膝についた土を払う。
「そんなの、逃げるに決まっているじゃないの!」
日が昇るまでの三刻、どうにか逃げて逃げて逃げまくるしかない。
愛紗は小さな身体を利用して、尚心の股の下をくぐった。
「おや、鬼ごっこですか」
「そうよ!」
愛紗は脱兎の如く駆け出す。火事場の馬鹿力とは言うが、まだ五つの幼い子にも眠っているものだろうか。提灯がぶら下がる通りを離れ、暗闇を進む。
人間の目はとても不便だ。真っ暗闇で何も見えない。ただ、この辺りは子猫のときにほっつき歩く場所でもあるので、感覚でわかる。
とにかく、尚心の興味を引きつつ、黎明から離すことだ。一刻もすれば愛紗がこないことに不審がり、十然の元を訪れるだろう。そうすれば、十然の援護も期待できる。
「おやおや、逃げ足は速いようですね」
カラカラと楽しそうな笑い声が近づいてくる。一歩二歩と聞こえる足音。
――絶対楽しんでる! 追い詰められている気がする!
頭を抱える暇はない。仙の姿ならちょちょいと術を使って懲らしめることができるのに。制限付きではそうもいかない。
ときどき投げられる火の玉をよけながら、愛紗は必死に逃げた。
逃げた先、視界に赤い提灯が広がる。庭園へと戻ってきたのだ。
「庭園で倒れている娘を見つけて嘆いているところを殺されれば、陛下も本望でしょう?」
「性格悪すぎ!」
わざわざ娘の死を見せつけて殺そうとは。
――どうしよう。絶対絶命だ。
じりじりと近寄る尚心から逃げる。
「いつも、あなたの仙術で邪魔をされていました。風を操るのが得意なようだ。風って、当たると痛いのですよ? どんなに痛いか教えて差し上げましょうか」
尚心が両手を合わせ、気を練る。愛紗と同じ技を使うつもりなのだろう。
「旋風ッ!」
愛紗が走り出したと同時に、突風が巻き起こった。愛紗の小さな身体が宙に浮く。鞠のように跳ね上がると、弧を描いて飛んでいく。
――仕方ない。一か八か仙術で対抗するしかない。
風に頬を傷つけられながら、愛紗は気を練ることに集中した。しかし、突如背中に受けた衝撃で、仙術を使うことは叶わない。
「愛紗」
地にたたきつけられるはずだった愛紗の身体は、黎明の腕の中。
赤い提灯の明かりが黎明の顔に影を作る。愛紗は呆然と見上げた。
「……お、父さま?」




