い→愛紗の可愛い舎弟たち
ここ最近、黎明は穏やかな気持ちで政務に励んでいた。いつもなら緊張気味の太監たちの顔も心なしか穏やかだ。
「そろそろ休憩にいたしましょう」
隣に立つ太監の如余が言う。黎明が皇帝になって二年、常に隣に立ち黎明を支えてくれた太監の一人だ。彼は穏やかな笑みを浮かべる。
黎明は如余の言葉に頷き、筆を置く。ほぼ同時に立ち上がった。
この二年、黎明の“休憩”と言えば、息をつきお茶を飲む程度のことだ。しかし、それがここ数日で変わった。
「雛典宮へ行く」
皆が頭を下げる。
休憩と言えば、茶一杯の時間だった。それが、娘との時間に変わったのはほんの数日前からだ。
黎明は自分の足で雛典宮へと向かう。歩いたほうが御輿に乗るよりも早い。その後ろには太監たちがぞろぞろとついて回る。
後宮ではよくある光景となった。
秀聖殿から雛典宮はあまり近くない。映貴妃の住まう蓮華宮の倍はある。庭園を通り抜け、今は使われていない宮を通り過ぎる。
「陛下、建物は使われないとすぐに傷みます。そろそろここら辺の主も探されては?」
「そんなに建物が心配ならおまえが寝起きするがいい」
黎明は如余の言葉をあっさりと流す。今に始まったことではない。この二年ずっと言われ続けていることだ。黎明の妃は映貴妃たった一人。子も養女である愛紗一人だ。皇帝という尊い身分でありながら、黎明の年で子が一人もいないなど考えられないのだろう。
如余の小さなため息が耳元をかすめる。黎明は素知らぬふりをしてまっすぐと前を向いた。秀聖殿から雛典宮への道のりには、真っ赤な提灯がぶら下がったままだ。
ここ最近、夜伽の時間は全て愛紗に費やしているため、取り払う必要がないと考えたのだろう。
雛典宮に辿り着くと、愛紗の世話を任せられている十然が門の前で頭を下げた。
「愛紗は?」
「庭のほうにおられます」
「わかった。他の者はここで待て」
黎明は一人、愛紗がいるという庭へと足を踏み入れた。後宮には大きい庭園の他、各宮殿に小さな庭が造られていることが多い。
雛典宮はもともと小さないながら、宮殿と同じ広さの庭が併設されていた。大人が散歩するには小さすぎるが、幼い愛紗であれば十分な広さがあるのだろう。
黎明は庭に入ると、ぐるりとあたりを見回した。
愛紗はここ最近、穏やかな日々をすごしている。朝に黎明が狙われて以来、鬼は姿を隠した。運命録に記録される未来は常に「政務を滞りなく終わらせる」の一言。つまらない毎日を示している。
しかし、それが愛紗にとっては長期休暇を示すので、まったくつまらないとは思わない。
穏やかな日常へと戻ると、今まで見えてこなかったものが突如見えてくるものだ。愛紗は最近、昼の暇な時間を庭で過ごすことが増えた。
なぜなら庭には愛紗を慕う者たちが集まるからだ。
「にゃ~」
「なぁ~」
「はいはい。そんなに慌てなくてもたくさんあるのよ」
愛紗はたくさんの皿を並べる。その皿に群がるのは後宮で寝起きする猫たちだ。
妃嬪や女官に媚びを売りながら生きる彼らは食に貪欲だ。たまたま雛典宮に遊びに来た猫の一匹に餌を与えて以来、一匹、二匹と増えていった。
猫の情報網は侮れない。
「にゃ~」
茶色の猫が挨拶代わりに愛紗にすり寄る。この数日でわかったことだが、この茶色で他より一回り大きい猫はこの後宮を牛耳っているようだ。猫の世界の皇帝である。
「あたしに媚びなんて売らなくてもご飯くらいあげるのよ」
「にゃあ」
「そりゃあ、あたしは猫族の首領の娘だもん。人間界の猫はもれなく舎弟みたいなものなの」
「にゃあ~」
ぐりぐりと小さな手で頭を撫で回す。愛紗は撫でられるのは慣れていたが、撫でるほうは全然慣れていない。力加減もよくわからない。ちょっと苦しそうに顔をしかめた猫を見て、「難しいのね」呟いた。
「最近、たくさん人が来るようになったでしょ。このままだといけないと思うの」
「なぁ?」
白と灰色の虎柄の猫が小さく鳴いた。それに合わせて他の猫もにゃあにゃあと思い思いに発言する。
「違うの。追い出すとか人数制限するつもりはないのよ。落ち着いて……」
「にゃ~」
愛紗は持ってきていた、布の切れ端と愛紗の手には不似合いな硯を猫たちの前に置く。
数匹の猫が見守る中、愛紗は筆を握りしめ、猫の前に立った。
「数が増えるとよくわからなくなるでしょ。だから、今日は名前をつけます」




