ある→愛紗、猫になる
十然は走った。愛紗を腕に抱いて。
「なんでっ! 俺がっ!」
「十然っ! もっと早く!」
十然の苦労など知らない愛紗は、馬の尻にむち打つように、十然の腕を叩く。
――夜明けと同時に抜け出せば良かった……!
後悔先に立たず。頭を抱えている暇はないと、十然の腕の中で前髪を揺らしながら考える。
――朝儀には大臣とかたくさん人がくるのに、どうしてそんなところに?
今までは誰にも見られない寝所だった。それが今回、大勢の前で襲撃されるのだ。
――何度やってもうまくいかなかったから、捨て身の作戦とか……?
昨日一日で怪我を癒やし、今も影から黎明を狙っているのかもしれない。
朝儀の場は、秀聖殿の奥にある。
「十然はここで待ってて!」
十然の腕からぴょんと抜け出ると、愛紗は彼の返事も聞かずに秀聖殿の中へと入る。
朝儀会場の入り口では尚心が立っていた。
「おや? 愛紗様」
「尚心だ。風邪は大丈夫?」
「はい。もうすっかり。陛下にご用ですか? まだ朝ぎ――……」
愛紗は尚心の忠告など耳にも入れず、会場の扉を少し押し上げた。
「愛紗様!?」
囁くような声で尚心が愛紗に声をかける。しかし、愛紗には聞いている暇はない。わずかにできた隙間から、愛紗は猫のようにするっと会場へと入っていったのだ。
朝儀を見るのはなにも初めてではなかった。一度だけ、猫の姿で見学したことがある。よくわからない単語が飛び交い、退屈に感じた記憶だけが残っていた。
愛紗は誰かに気づかれる前に、柱の裏に身を隠す。そこから会場の様子をこっそりと覗った。
黎明は会場の一番奥、皇帝の座る席にいる。難しい顔をして書に目を通していた。愛紗の前ではあまりしない顔だ。
愛紗はそっと息を吐き出す。まだ襲撃にはあっていないことが何よりの朗報だった。
黎明の隣には太監の如余が。他、数名の太監も側に控えている状況だ。どこから狙うのか。愛紗はあたりを見回した。隠れる場所といえば、柱や天井の裏ではあるのだが、相手は鬼。今までの経験上どこから現れてもおかしくはなかった。
――もしかしたら、この人たちの中にいるのかも。
何人もの大臣や官吏が列を成し、黎明のほうをまっすぐに向いている。背中を見ていてもどれが黎明を狙っている鬼なのかわからない。
今から一人一人、袖をめくり先日愛紗がつけた傷を確かめていくわけにもいかないだろう。その前に襲われるのは間違いない。
――たしか、鬼に取り憑かれた人間は影がないって言ってた!
愛紗は足下に視線を移す。
――ええ……、みんな、影が……ない。
全員鬼なのではと、言いようのない不安が襲ったが、愛紗は視線を自身の足下まで戻して目を瞬かせる。
――あたしの影もいない。
今日は厚い雲に覆われた日。あいにくの天気は、誰の影も映し出さなかった。愛紗は頭を抱える。これでは、誰が鬼かわからないではないか。
愛紗が大きなため息を吐き出そうとしたそのときだ。
――殺気!
強い殺気は愛紗を通り越し、まっすぐ黎明に注がれている。あたりを見渡したが、怪しい者は見当たらない。
愛紗は手段を選んでいる暇がなかった。手を交差させ、霊力を練り上げていく。とにかく今は黎明を守ること。それだけだ。
名も知らない大臣が必死に黎明に訴えているとき、殺気がより一層強くなった。
殺気の矢が黎明に向けられて打たれたとき、愛紗は術を展開する。風を起こし、会場を包みこんだのだ。
風は嵐に変わる。
突如吹いた風に、黎明の冕冠から垂れ下がる玉飾りは激しく揺れる。髪を乱し、書は空を舞い、筆は転げ落ちる。
大臣や官吏たちの裾も袖も音を立て暴れ回った。皆が嵐に目を強く閉じる。
黎明に向けられた矢は嵐が攫い、塵へと化したのだが会場にいる者は誰も知らない。
ゆっくりと風がやむ。
息をつく暇もなく、愛紗は子猫へと変化した。
――鬼は会場にはいなかった。
矢は愛紗よりも背後から打たれた。隠れて好機をうかがっていたのだろう。
嵐がやみ、会場は騒然となる。黎明の言葉によって朝儀は早めに終いとなったようだ。ぞろぞろと会場を後にする大臣たちは、皆そろって不思議な嵐に首を傾げる。
会場に背を向ける黎明を見つけ、愛紗は慌てて追いかけた。朝儀は終わった。ゆえに運命録の示す「朝儀の席にて襲撃される」は無事に回避できただろう。しかし、運命が変わったその先のことは、運命録しかわからない。
――運命録を持ってくるんだった……!
愛紗は頭を抱えたい気持ちを振り払い、黎明を追う。鬼の正体はつかめないままだし、今日の襲撃が終わったかはわからない。しかも、愛紗は当分仙術を使って守ることができないのだ。
とりあえず、近くにいて怪しい者に目を配ったほうがいいだろう。
「陛下、朝餉のご準備は整っております」
「ああ」
「せっかく愛紗様が朝まで残られていたのでしたら、次からは愛紗様の分もご用意いたしますか?」
「ああ、そうだな。腹を空かせた子を放り出すのはかわいそうだ。そうしてくれ」
如余は恭しく黎明に礼をとる。皇帝の朝食はさぞかしうまいのだろう。愛紗は想像して口の中にたまった唾液を飲み込む。
――違う違う。今は警護!
子どもなら存在に気づいたらすぐ返されてしまうかもしれないが、猫ならば側に置いてくれるだろう。仙術が使えない今、すぐ側にいたほうが守りやすい。
愛紗は子猫の姿で黎明の足下に駆け寄り、小さな身体を足にこすりつけた。
「……紗紗?」
「みゃあ!」
「おや、愛紗様からお名前をお聞きに?」
「いや、名はないと言うのでつけた」
「そうでございましたか。では後宮の者に布令を出しておきましょう」
「みゃ?」
「安心しなさい。皆がおまえをいじめないように名を広めるだけだ」
黎明は足下の子猫を抱き上げると、猫なで声で言った。ただの子猫の名前ごときで布令を出すことに愛紗は目を丸めたが、黎明は猫の心知らず。優しい手つきで撫でるのだった。
「紗紗、今日は休みではないのか?」
「みゃ~?」
「愛紗が言っていた。帰らなくていいのか?」
「みゃっ!」
愛紗はここにいるのだという意志を込めて黎明にしがみつく。黎明と如余は目を合わせた。
「いかがいたしましょうか?」
「そうだな……。紗紗がいなくなって愛紗が探しているかもしれない。愛紗のもとへ連れて行こう。雛典宮に向かう」
「みゃっ!?」
――まって! それは絶対だめ!
今、愛紗はここにいる。行ってもいないのだ。
「安心しなさい。すぐに愛紗のもとへ連れて行ってやる」
黎明は優しく子猫の頭を撫でた。何度鳴いても彼の意志は変わらない。子猫を抱き太監を引き連れて、雛典宮へと向かったのだ。




