ちぃ→消えた映貴妃
日が昇れば、黎明が起きる。遅くまで執務を行い、朝早く起きる。彼はこんなに短い睡眠時間で倒れないのか、愛紗は心配になった。
けっして、親子の情が湧いてきたわけではない。愛紗は彼を爺様になるまで生かすという使命があるのだ。
愛紗は毎朝、黎明の優しい手で目を覚ます。柔らかで心地よい手つき。頭を撫で、首をさすられれば、仙としての誇りなどぽいっと捨てて腹を見せてしまう。
ただ、猫のフリをしているだけ。彼に正体が露見すれば、ややこしいことになるから、愛らしい猫のフリをしているのだ。これは仕方のないことなのだと言い聞かせる。
「へぇ~。これが愛紗様の猫ねぇ~」
黎明の横から映貴妃が顔を出す。愛紗は思わずその顔をジッと見つめた。
刺客が現れたとき、彼はいなかったのに今はいる。つまり、刺客が来る前に寝所を出て、刺客が消えてから戻ってきたということだ。
「名前は?」
「わからない」
「毎朝遊びにくるんだろ?」
「愛紗が代わりに置いていくんだ。名前は聞いたことがない」
「子猫をね~。当の本人は自分の部屋で眠っていると? おまえ、嫌われているんじゃないか?」
黎明の撫でる手が止まる。手を叩いて見たが反応はなく、甘噛みしても微動だにしない。
「……嫌っている相手と夜一緒に寝ようと思うか?」
「好きなのに、朝消えるか? もしかして、いびきがうるさいとか?」
「いびきをしていたか?」
「いや。でも、いつも夜遅くまで仕事をしているから、ぐっすり寝ちゃうだろ? 気づいていない可能性もある」
映貴妃の言葉に、黎明は「いびきか……」と真剣な面持ちだった。愛紗が違うと教えることはできないだろう。今は子猫で、言葉が話せない。そして、愛紗はこの話を知り得ないからだ。
不憫に思い、慰めてやろうと身体を押しつける。けっして、撫でてほしいからと催促しているわけではない。
「ああ、すまない。おまえのことを蔑ろにするつもりはなかったんだ」
黎明は、慣れた手つきで子猫を撫でる。時折愛おしそうに目を細める姿に、映貴妃はただ苦笑を漏らした。
「そんなに気になるなら、愛紗様に聞いてみたらどうだ?」
「なにを?」
「なぜ朝いないか。気になるんだろう?」
「気にはなるが、もし『いびきがうるさいからだ』と言われたらどうする?」
「おまえは相変わらず繊細過ぎだ。臣下が見たら驚愕するだろうなぁ」
映貴妃は笑いながらも、器用に襦裙を着ていく。くるくると髪を結びあっという間に準備を終わらせた。
男である以上、女官に着替えを手伝わせるわけにはいかないのだろう。関心しながらも、愛紗は黎明の容赦ない撫でに翻弄されていた。
いつもよりも執拗に撫でられるのは、考えごとがはかどっているせいか。
「みゃあ!」
「ああ……すまない。遊びすぎたな」
黎明が子猫の頭を一撫でする。優しい手つきに戻ったが、心はどこかに行ってしまったようだ。
程なくして、太監が黎明を呼びに現れた。彼の足下からこっそりと顔を出すと、尚心ではなく如余だ。寝所の管理は尚心の仕事だったはずだが、朝儀からは如余がつく。ちょうど入れ替えのときなのだろう。
「そろそろ朝儀のお時間でございます」
黎明は如余の言葉に頷くと、寝所をあとにする。先ほどまでの面持ちはいつの間にか消えていて、いつもと変わらない。
けっして朝儀に出た臣下は、彼が「いびきがうるさいかもしれない」という悩みを抱えていることなど知るよしもないだろう。
映貴妃とともに寝所に残された愛紗は、彼を見上げた。
――もし、今朝の暗殺者がこの人なら、腕に傷があるはず。
今は衣が幾重にも重なり、隠れている。どうやって引き剥がすか。それが問題だ。
愛紗が頭を悩ませていると、彼の手がずいっと伸びてきた。ぐりぐりと頭を撫でられる。
黎明とは違うが、ゴツゴツとした男の手だ。乱暴な手に愛紗は爪を立て抗議する。
「いたっ! 黎明とはえらい違いね」
いつの間にか女性に戻った彼は、子猫を見下ろすと眉を潜める。そして、一本の線ができた手の甲を見た。
「私はこの後宮で一番偉い貴妃なのよ? 私を傷つけたらどうなるかわかる?」
彼の口角は三日月のように上がっていたが、目は笑っていない。その顔があまりにも怖くて、愛紗は一歩、二歩と後ろに下がった。
しかし、何歩も後ろに逃げれば、いつか終わりは来るもので。昨日隠れていた木箱に尻が当たる。
「もう逃げられないわよ」
「みゃ……」
「うりうりの刑よ!」
映貴妃の両手が子猫を襲う。少し乱暴で予測不可能な手が頭や脇腹を撫で回していく。
「みゃっ!」
「観念なさい。黎明には好きに触らせて、私にはだめなんて許さないんだから」
右に逃げれば左から、前に逃げて追ってくる。背を撫で、腹をこねくり回され愛紗は叫んだ。
どのくらい格闘していたかわからない。女官がおずおずと声をかけるまで続いたのだ。
ひどい目にあった。子猫の姿でふらふらと庭園を横切る。気持ちのいい朝日が愛紗を包んでいたが今はそれどころではない。
映貴妃の乱暴な手つきを思い出し、愛紗は小さな身体を丸くする。
――絶対、映貴妃が暗殺者だ! 鬼に操られているんだ!
そうでなければ、あんな非情な真似ができるはずがない。
とぼとぼと雛典宮まで辿り着けば、門の前で十然が子猫の愛紗を見つけ、抱き上げた。
「お。姫さん、おかえり。うまくいったか?」
「みゃあ~」
「そうかそうか。一時はどうなるかと思ったがよかったよかった」
うんうんと頷いているが、愛紗の悲壮は気持ちは一切通じていなかった。黎明の訃報が届かない限り、十然にとっては「うまくいった」の類いに入るのだろう。
十然はまっすぐ愛紗の部屋へと連れて行く。すでに五日目。これが日常になっていた。彼は慣れた手つきで木箱から運命録の欠片を取り出すと、子猫の前へと差し出す。
どうせ、また「夜伽の際、寝所にて暗殺」なのだろう。もう五日間、変わらないのだから。
「みゃ……?」
「お。今日は違うな」
愛紗と十然はまじまじと運命録の欠片を見た。
「ええと……。『滞りなく執務を執り行う』だそうだ」
「みゃあ?」
「つまり、今日は暗殺されずに平和に暮したってことだろう?」
愛紗は呆然と運命録を見る。確かに、十然の言うとおり、「滞りなく執務を執り行う」と書かれている。命が危ぶまれるような言葉は一切なく、よくあるつまらない一日を示唆しているようだった。
「よかったな。今日はゆっくり眠れる」
十然の手が愛紗の頭を撫でる。少しずつ慣れてきたのか、手つきは優しい。黎明の撫でには適わないが。
――なんで? まだ捕まえてもいないのに。
何が原因なのかわからない。しかし、運命録が間違うことはけっしてないのだ。
「みゃあ~?」
――でも、まぁ……いっか! 今日の夜はゆっくりしちゃおう!
子猫は大きなあくびをする。黎明に会いに行く前の平和に一日に期待をよせ、人間に戻るまでの時間を睡眠にあてることにしたのだ。
第二話 おしまい
お読みいただきありがとうございます。
明日から三話続けて幕間そのにをお届けします。
暗殺者が現れない久しぶりの夜。愛紗は黎明と"夜伽"をするつもりはなかったものの、黎明は違ったようで……
みたいな話です。




