すぅ→夜伽の時間
術を使ってから三刻すれば、猫の姿から人間の姿に戻る。五歳の子どもが入るのにちょうどいい木箱を見つけ、愛紗はその中に入った。
これなら、すぐ近くで見張ることができる。映貴妃が黎明を殺す前に対処できるだろう。
愛紗は小さな身体をくねらせ、背中に巻かれた荷物から抜け出す。十然の手によって固く縛られた風呂敷を爪でひっかいた。
「みゃっ」
格闘すること半刻。中から出て来た大きな饅頭につい声を上げてしまう。子どものときに見るよりも大きくみえるそれは、三刻以上ここに留まるための食料だった。
作ってもらったばかりなので、まだわずかに温かい。手で優しく押すとふわふわとしている。今すぐにでも食べたいが、これは非常食。
すぐに平らげては残りの待ち時間が辛くなる。愛紗は猫の手で器用に風呂敷の中に丸めると、小さく丸くなる。
今日は朝から忙しかった。黎明と映貴妃がここに来るのは夜が更けたころだ。まだ時間がある。少しくらい寝ても構わないだろう。
真っ白な指先をペロリと舐め、頭をかく。子どもの身体もだが、子猫の身体もすぐに眠くなるのだ。大きなあくびを一つすると、愛紗はしばし、現実から離れていった。
人の声で目が覚める。はじめは何を言っているかわからなかったけれど、次第にそれが鮮明になっていった。
「おい、寝るな」
聞き慣れているが聞き慣れていない声。その声の持ち主はもっと穏やかな言葉を選ぶ人のはずだ。とても棘のある言葉遣いに、愛紗は何度も目を瞬かせた。
――木箱は失敗だったわ。外の様子が見えない。
真っ暗な闇の中。愛紗は前足で頭を抱えた。会話だけで外の様子を想像する羽目になるとは。
時間もどのくらい経ったかもわからない。ただ、わかることは、愛紗がいまだ猫のままだということだけ。つまり、まだ三刻は経っていないということだ。
「もう無理。寝ないと肌が荒れるわ」
「四日分もたまっているんだ。無理とは言わせない」
はあ……。と大きなため息が聞こえた。一人は映貴妃で、もう一人は黎明だろう。寝所なのだから、他には考えられない。
四日分。それは、愛紗が黎明を独占した期間だった。いつもよりも乱暴な物言いから、黎明が映貴妃に心を許しているのがわかる。
「いや。もう無理。身体が持たない」
「私はまだやれる」
「今は黎明の話は聞いてない。私が疲れたと……」
はあ……。ともう一度大きなため息を吐き出す音が聞こえ、そのあと、金属が動く音がした。
――危ない!
慌てて猫の身体で木箱の蓋を押し上げる。と、同時に身体が猫から人間へと変化した。――ちょうど三刻たったのだ。
子どもの身体と言え、子猫から人。木箱は傾いた。突然大きく前に倒れる木箱に、愛紗はなすすべもない。均衡を保てず、倒れていく様を身体で感じ、痛みを予見して強く目をつむる。
バタンッという大きな音と共に衝撃はやってくる。
「あたっ」
木箱の蓋で額を打った。痛みに目からはうっすらと涙が溢れる。赤く染まったであろう額をさすり、蓋を押し上げると、四つの瞳がまっすぐに向けられていることを知る。
黎明と映貴妃だ。寝台……ではなくその側にある机を囲み、墨のついた筆を持っている。愛紗の知っている夜伽とは違う。
転生歴も百回の大台にのると、大抵のことは知っていると思っていたのだが、机を囲み筆を持つ夜伽がこの世に存在していたとは。
「愛紗……?」
いささか薄着になった黎明が呆然としながらも、愛紗の名を呼んだ。机を挟んで向かいに座る映貴妃など、髪を乱し……いや、そんな艶めかしいものではない。長い髪を適当に括り、前髪も乱暴に後ろへと追いやっている。女官が見たら、乱心したと叫び出すだろう。
そんな姿で何度も目を瞬かせている。
彼女はほとんど下着姿と言っていいようなかっこうだ。胸から下を隠す白い襦裙は着ているものの、肩は羽織を掛けたのみ。
しかし、そのようなあられもないかっこうよりも、気になる部分があるのだ。愛紗はジッと映貴妃の胸元を睨む。
「つるぺた……」
つい、愛紗は口に出した。あったものがないというのは衝撃だ。前回会ったときは、首元まで隠れるような衣でもわかるほどの大きな胸があった。しかし、今は下着姿であるというのに、押し上げていた胸が消えている。
それは板のようだ。幼い愛紗とさして変わらない。
「おい、黎明。娘は来ないんじゃなかったのか?」
映貴妃は女とは思えない。いや、後宮の最高位に君臨する女性とは思えない低い声を出した。言葉も乱暴で、愛紗の思う妃像とは随分と違う。
これではまるで男。
「というか、男?」
愛紗首を傾げる。つい、考えていたことが口から出てしまう。それが失言であると気づき、慌てて小さな両手で口を塞いだが、ときすでに遅し。高貴な女性に向かって男だと言ったのはまずかった。
笑顔の映貴妃に乱暴に抱き抱えられてしまっている。
近くで見ると、うっすらとひげが出ているように思う。濃くはない。まじまじと見ないとわからないほどだ。しかし、これはまさしく――。
「愛紗様、なぜこのようなところに隠れていたのか、教えていただけますか?」
映貴妃は取り繕ったようににこりと笑う。その笑顔を見たとき、絶体絶命だと、愛紗はさとったのだ。




