ある→冷徹帝は棚ぼた帝
愛紗は秀聖殿で大きな瞳を潤ませていた。隣には執務中の皇帝、黎明が困ったように眉を寄せる。只人であれば、この表情は怒っているように見えただろう。
この三日でこれが困っているのだと愛紗は知った。必要以上に整っているばかりに、勘違いされやすいのだ。
「なんで……。お父さまはあたしのこと嫌いになっちゃったの?」
「愛紗、悪く思うな。私にも務めがある」
運命録による暗殺者の知らせは、三日続いた。そして、四日目の今日も諦めない暗殺者によって殺されると記されている。やはり、夜伽の際に殺されるのだ。
「あたしじゃだめ?」
幼子の愛紗は毎夜、皇帝であり養父でもある黎明の寝所で遊び倒し眠るだけ……なのだが、愛紗も黎明も、そして太監の如余までもが便宜上「夜伽」と呼んでいた。
「今日はすまない。明日はともに眠ろう」
大きな手が、優しく頭を撫でる。猫のときに撫でられる感覚とは違うのだが、気持ちがよくうっとりと目を細めてしまう。
しかし、愛紗としても引くわけにはいかない。長い人生に関わる問題だ。撫でてくれた手をしっかりとつかむ。
「や。今日も一緒に寝る」
側に控える如余は、困り果て手を右往左往させるばかり。
「すまない。今日だけは難しい」
押し問答は十度におよび、最後まで黎明は折れなかった。愛紗は秀聖殿から出され、十然の腕の中で頬を膨らませる。
「なによ。夜伽なんて相手は誰でも一緒じゃない」
「まあ、どの妃を選んでも一緒かもしれないが、姫さんを選ぶのは話が別じゃねーかな」
呑気に笑う十然をキッと睨む。しかし、十然は細い目を更に細めて笑うだけで、愛紗の睨みが威嚇にもなっていないことはよくわかる。
「それで、どうするんだ? このままだと陛下は危ういんだろ? 諦めて仙界に帰るか?」
「そんな軽い気持ちでこの試練に臨んでいるわけじゃないのよ。帰りたいなら一人で帰ったら?」
「酷いなぁ~。そうやって追い払おうとする。姫さん一人にはしておけねぇよ」
乱暴な手が愛紗の頭を撫でた。ぐしゃぐしゃになった頭を確認して、愛紗が叫び声を上げるまでがお決まりだ。
「で、どうする?」
「とりあえず……聞き込みから始めるわ!」
「聞き込みねぇ~。なぜまた?」
「鬼はすばしっこくて、攻撃を防ぐことはできるけど追いかけることはできないの」
術を使い終われば、猫になってしまう。子猫の足で追いかけられるわけもない。
「あの鬼は目的を達成するまで絶対にやめないと思うの。だから、捕まえないと」
「そのために犯人捜しか」
「そ。犯人がわかれば捕まえる方法も見つかるかも」
黎明の隣では思うように動けないというのも実情だった。万が一起きてしまえば、愛紗の正体が露見してしまうのだ。
「姫さんが動けるのはこの後宮内だけだが、どうする?」
「後宮内だけで充分よ!」
愛紗は小さな指で後宮の奥を指す。そこは妖怪よりも手強い魑魅魍魎が暮す場所――先帝の妃嬪が集まる宮があるのだ。
「あそこにいくのかよ……」
「嫌そうね?」
「あそこは女の園って感じがなぁ。ドロドロしている感じが家を思い出すというか……」
「ドロドロ? 服は綺麗だと思うよ?」
「……ああ、そうだな」
十然の投げやりな返事に首を傾げる。彼は二度大きなため息を吐き出した。「ほら、早く!」とせかせば、不承不承歩き出す。
広い後宮内、黎明の移動手段は徒歩か御輿だ。一介の妃嬪に御輿の使用は許されておらず、女官と宦官を伴って徒歩で移動する。皇帝、黎明の唯一の娘である愛紗もそれは変わらない。しかし、他の妃嬪と違うのは、大人に「抱っこ」してもらい移動が可能なことだ。
十然の腕の中で愛紗は呑気に大きなあくびをする。
「まあ、これはこれは、公主様。このような所にお越しになるとは……」
先帝の妃の一人が愛紗を迎え入れた。女のことは女がよく知っている。特に寵を競う必要のなくなった妃嬪の暇潰しといえば、噂話だろう。
黎明に気に入られれば、栄華の世界に返り咲くことも可能ではあるが、今のところその兆候はない。
彼女たちの暇つぶしなど、今は噂話しかないだろう。
噂話には嘘も多いが、その中には真実が隠されている。鬼に関する手がかりがあるはずだ。噂話を手に入れるには、ここが一番うってつけなのだ。
「今日はお父さまもお忙しくてお暇なの」
「それでわたくしのところまで来てくれたのですね。嬉しいわ」
先帝の妃は十然の腕から愛紗を引き抜くと、そのか細い腕の中へとおさめる。安定感がなくて不安ではあるが、これも話を聞くためだと笑顔を絶やさなかった。
「ちょうど美味しい菓子をいただいたの。一緒に食べましょう」
「あい」
うまい菓子にお茶。ここの妃は気前が良い。映貴妃などお茶の一つも出さなかったのだ。いい聞き込みができそうだと愛紗は笑った。
桃饅頭を頬張りながら、愛紗は妃の言葉に相づちを打つ。
「三年前はこんなことになるとは思えなかったわ。先帝が亡くなり、宮廷はまだ五つの第一皇子を推す派閥と、先帝の弟君――陛下を推す派閥で分かれたのよ」
「へぇ。でもお父さまはずっと遠くで暮していたでしょ?」
「それが良かったのだと皆、言っていたわ。先帝の他の兄弟は皇位争いで殺し合い誰一人残っていないもの。陛下は生まれてすぐ母親の生家がある高州に預けられたらしいわ。祝いの席にも一度も現れず、幻の皇子だった」
「へー。でも、なんで先帝の息子の第一皇子じゃなくてお父さまに軍配が上がったの?」
「軍配なんて言葉良く知っているわねぇ。それは……第一皇子の母親の位があまり高くなかったから、という説が一番有力よ。先帝の子は第一皇子の他は娘ばかり。どうにか生まれた皇子の母親は奴婢の出だったの」
なるほど。と、愛紗はぬるくなった茶を飲んだ。なぜ、田舎に住んでいた黎明が突然皇帝になってしまったのかずっと気になっていたのだが、そういういきさつがあったとは。
若くして亡くなった先帝には息子が一人。その息子はまだ幼くしかも母親が後ろ盾のない奴婢。それに対抗するために矢面に立たされたのが黎明といったところか。完全な棚からぼた餅。棚ぼた陛下である。
「早く陛下にも皇子が生まれるといいわね。また大勢の血が流れるのは嫌だもの」
先帝の妃は大きなため息を吐き出した。
「そうだ。陛下はどのような女性がお好みかしら? 映貴妃ってどんな方?」
「……なんで?」
「陛下はまだ妃がお一人でしょう? それにまだお若いわ。ここには先帝に一度も呼ばれずに終わった妃嬪も多いの。陛下をお慰めするくらいはできると思うのよ」
【登場人物メモ】
黎明
皇帝。冷徹帝と呼ばれている。幼少期〜皇帝になるまでは母の生家がある高州で育った。
二十五歳。妃は映貴妃一人だけ。子は養女の愛紗のみ。
口数が少なく、整った顔立ちゆえに誤解されることが多い。
猫を撫でるのがうまい(愛紗談)




