第28話 愛情の原点
――正直、忘れていた。
というか、あまりにも日常の「健=愛情爆撃マシン」な姿が当たり前になっていて、そのスタート地点を思い返す機会なんてなかった。
でも今日、たまたま駅前のカフェで取材をしていて、ふと目に飛び込んできた光景があった。
黒いスーツに身を包んだサラリーマンが、明らかに場違いなくらいの勢いで、紙袋を胸に抱え、全力で走っている。
あれは…忘れもしない。
私が健と初めて出会った日の、まさにそれと同じ姿だった。
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あれは4年前。私はまだ入社3年目の、雑誌編集部の下っ端。
当時はやたら「自分の時間を大事に」とか言って、恋愛は後回し、残業上等、休日は疲れて引きこもり。
そんな私が、珍しく休日に外へ出たのは、大学時代の友人に引っ張り出されたからだった。
「新しくできたカフェのパンケーキ、超映えるらしいよ!」
――いや、映えとか求めてないけど? と心で呟きつつ、私は渋々ついて行った。
店は満席。友人が予約をしてくれていたから座れたものの、そこからが地獄だった。
二人分のパンケーキが来た瞬間、友人が「トイレ行ってくる!」と言って席を立ち、戻ってこない。
何事かと思えば、LINEが飛んでくる。
『ごめん!急用できた!先に食べてて!』
え、どういうこと? 置き去り? このパンケーキどうすんの?
困惑していると、隣の席から声がかかった。
「あの…それ、一人じゃ食べきれないですよね?」
振り向くと、当時の健――まだ会社員だった彼が、スーツ姿で座っていた。
目の前にはアイスコーヒーだけ。多分、休憩がてら入っただけなんだろう。
だけどその目が、今の彼と同じくらい真っ直ぐだった。
「よければ、手伝いましょうか?」
…いや、初対面の男性とパンケーキシェアって、ハードル高すぎない?
「大丈夫です」とやんわり断ろうとしたその時、健が妙に慌てた顔をした。
「あ、違うんです。変な意味じゃなくて。ただ、そのパンケーキ、さっきまで僕が並んでたやつなんですよ」
話を聞けば、健は30分並んだ末、急な呼び出しで席を譲らざるを得なくなり、食べ損ねたらしい。
それで、私のテーブルに同じものが運ばれてきたのを見て、思わず声をかけた、と。
――今思えば、この時点で既に「偶然を見逃さない男」だったのかもしれない。
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そこから先は、割と自然だった。
「じゃあ一口だけ…」と渡したパンケーキを、健は妙に大事そうに食べた。
「美味しい…これ、絶対自分じゃ作れない味だ」
いや、普通は作らないから。
そして食べ終わるころ、健が突然、紙袋をごそごそと探り始めた。
「これ、よかったら…」と出てきたのは、小さなハンドタオル。
「会社でもらったノベルティなんですけど、さっき見てたらあなたがちょっと汗かいてたから…」
――この距離感の詰め方、速くない?
でも、当時の私は妙にそれがツボに入ってしまい、笑って受け取った。
後から聞いた話だが、このハンドタオル事件が、健の中で「渡した時に笑ってくれた=脈あり」という方程式になったらしい。
そんな単純計算でいいのか。
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その後、健からは一日おきくらいでLINEが来た。
「今日はパンケーキじゃなくてワッフルの店を見つけました」
「この間のハンドタオル、使ってます?」
「次はちゃんと並んで、僕がご馳走します」
押しが強いとか、重いとか、そういう感覚より先に、ただ純粋に笑えてしまった。
結果、二週間後には二人でパンケーキを食べに行き、その時もやっぱり健は全力で私の皿を守っていた。
(※何から守っていたのかは今も謎)
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――そして今。
その全力さは形を変えて、GPS付きの卵焼きや、社内に毛布を持ち込むという形で炸裂している。
だけど、思い返せば最初からそうだった。
偶然を見逃さず、私のちょっとした仕草を拾い上げ、それを全力で行動に変える。
帰宅後、健に何となく聞いてみた。
「ねぇ、私たちって、最初どうやって知り合ったんだっけ?」
すると健は、ちょっと驚いた顔をしてから、にやっと笑った。
「…あの日のこと、忘れたなんて言わないでね。あれは僕の人生のハイライトだから」
その後、彼は当時の情景を、細部まで(というか細部すぎるくらい)語り始めた。
私の髪の長さ、カフェのBGM、パンケーキの粉砂糖のかかり具合まで。
――いや、怖い。怖いけど、笑ってしまう。
健は最後に、真面目な顔でこう言った。
「結衣さんが笑ってくれた瞬間、僕は一生かけてこの人を笑わせたいって思ったんだ」
……はい、そういうことをサラッと言えるから、あなたは重いんです。
でも、その「重さ」の原点が、あの日のパンケーキだったと知ったら、なんだか許せてしまう自分がいる。
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寝る前、ふと思い立って、あの日もらったハンドタオルを探してみた。
引き出しの奥に、色あせた青いタオル。
――そうだ、捨てられなかったんだっけ。
健には内緒で、それを枕元に置いた。
だって、明日もどうせまた、全力すぎる愛情で笑わせられるのだから。




