#28 追跡者
――暦は九月下旬。
残暑も過ぎ去り、山間から吹き込んでくる風に秋の気配を感じ始めたころ。
少しばかりの靄に、わずかな冷気が混じる早朝。
朝日家の門から二つの人影が出てくる。
二人とも首にタオルをかけて、トレーナー姿にスポーツシューズ。これからランニングに出かけるところだ。
一人目は男性。ウルフマッシュの黒髪に、パッチリとした二重の瞳。
左目には泣きぼくろ、恐ろしく庇護欲をさそう顔立ちの美少年。
もし、道行く女性が見かければ、百人百中で襲い――愛の告白をすること間違いなし。神崎朝日だ。
その横に付き添う女性は、非常に小柄な体格で、身長164センチの朝日より二回り小さい。
赤みがかった天パのショートヘアに、八重歯が可愛らしい猫顔娘。
しかし、その中身は脅威の”不沈戦艦”SランクMaps大和梅である。
「よっし、梅ちゃん。今日は東のコースに行こっか?」
「おっ、やる気満々だな朝日。こないだは途中の坂でへばっちまったてのによ」
「もう! 今日こそは完走の予定なんだよね」
「へー、そっかよ。んじゃあ、期待してんぜ」
軽いかけあいをしながら、二人が駆け出す。
朝日の自宅から東回りに、ゲーテッドタウン内を約3.5キロメートル。時間にして三十分程度。
途中、小高い丘を一つ越えるアップダウン有りの多少ハードなランニングコースとなっている。
このところ深夜子と二人してゲームとおやつ三昧。
その怠惰にして甘美、危険な夜のカロリー摂取を続ける日々に体型の危機を感じた朝日。
六月下旬から、毎日の日課として朝のランニングを開始していた。
家に戻ったら、簡単な筋トレを梅に手伝って貰い。最後にシャワーを浴びてから、朝食の準備をするまでがワンセット。
出発して数分後。ハッハッと息を弾ませて走る朝日。
梅はまるで歩いているかのように涼しげな表情でついて行く。さすがの体力だ。
そして、梅にとっては朝日と二人きりの貴重な時間のはずだが、何やら表情はすぐれない。
走りながら、たまに横目でチラチラと何かをうかがう。
それから少し首をかしげて、釈然としない表情でチッと舌打ちをする。
そんな微妙な雰囲気の梅だったが、コース後半にはいつも通りにランニングを終え、朝日と楽しげに会話しながら筋トレを手伝うのだった。
◇◆◇
「五月。あとでちょっといいか?」
「あら? 大和さん珍しいですわね。ちょうど片付けも終わってますし、深夜子さんもごいっしょに」
「ん。五月、らじゃ」
朝食後。梅が五月に声をかけてきた。
それとなく雰囲気を察した五月が、深夜子にも声をかける。
これからお仕事ですよ感を出して、朝日はリビングに居残りしてもらう。
三人でMaps側リビングへと移動。恒例になったミーティングを開始する。
「視線を感じる……ですの?」
「ああ、ハッキリとはしねぇんだけどよ……」
梅の話では、ここ二日間。朝日とランニングをしている時に、どこからか視線を感じるとのことだった。
「それは……おかしい、ですわね……」
五月はなんとも言えない不気味さを感じた。
そういった感覚は、Mapsの中でも間違いなく上位グループに入るであろう梅。
そんな彼女が、確定できないと言うのだ。
さて、これはどうしたものか? 五月が思案を始めたところで――。
「うん。じゃあ、明日はあたしがこっそり見張る」
見張る? 横から深夜子が、あっけらかんとした声でさらりと言い放つ。
「まあ、そうだよな。頼むぜ深夜子、空振りになったら悪ぃんだけどよ」
「無問題。あたし得意分野」
得意分野? 何かあっさりと話が進んでません?
「ちょっ!? お、お二人とも、一体どういうことですの?」
さも当然、と言わんばかりの二人のやり取り。
置いてけぼりになりかけた五月は、焦って口を挟む。
「ああ、そういや五月は知らねぇんだったけか?」
すると今度は、頬杖をついている梅が軽い口調で説明をはじめた。
「深夜子の実家は古流武術の道場だぜ。こいつ色々できんだよ。なんつったっけ……ああ、先祖が御庭番とかいうヤツなんだってよ」
「ええっ、そ、そうなんですの!? ……実技三冠、とはお聞きしてましたが……そんなデータはひとつも……」
――五月が困惑するのも仕方なし。
『寝待流古武術道場』
確かに深夜子は、古くからある武術を継承する道場の長女。つまりは跡取りだ。
しなしながら、超ど田舎のマイナー古武術道場。知名度は知るひとぞ知るレベル。
さらに深夜子は、Maps養成学校時代。ほとんどの実技を持ち前の身体能力のみでクリアしていた。
教官たちにすら、あまり知られていない事実である。
梅は学生時代に、色々と深い付き合いがあったので知っているのだ。
「なので、あたしにお任せ」
まさに適材適所。
この手の案件には一切隙が無いチームと言える。
実際は圧倒的な実務力と情報処理能力を誇る五月がいることで機能しているのだが、知らぬは本人ばかり。
矢地の人選が見事だったと言う他ない。
◇◆◇
翌朝。
朝日と梅はいつも通りにランニングへと出発する。
事実がはっきりしないことから、五月の判断で深夜子の追跡調査の件は朝日に伏せてある。
――さて、ここで少し説明しておこう。
この朝日たちが住んでいるゲーテッドタウン。
男性福祉対応居住地区。通称『男地』は春日湊の南に位置している。
上空から見ると、卵の様な楕円形をしており、南は海、西は山になっていて、北と東にゲートが一箇所づつある。
そこから春日湊の街へと出入りをする造りだ。
もちろん、住民以外のゲート通り抜けには検問が必要となっている。
国家指定の男性特区内にある上、さらに外壁隔離された場所。
そもそも不審者などいるはずが無い。不法侵入などできるわけも無い。そう考えるのが普通であろう。
しかしながら、世の中に完璧なものなど存在しない。
安全だからこそ、ここには問題無いと大多数がそう思うからこそ、気がつかないこともあるのだ。
それでは視点を変えよう。
たった今、朝日たちが出発した自宅から、男地中央部に進むこと約1キロメートル。
数ヶ所ある公園のひとつで、ちょうど高台に位置し、男地全体をながめるのに非常に適した場所がある。
そこに居るのは二人組の女性。
共に身長170センチ程度、片方がわずかに高いくらいで体格も中肉中背。グレーの作業着に同色の作業帽をかぶっている。
少し背が高い方は明るい茶髪で、帽子からほとんど髪が出ないほどの短髪。
もう一人は黒髪、帽子からはみでる部分でおかっぱだとわかる。
ボブカットと呼ぶには少し野暮ったいイメージである。
腕と胸部分についているワッペンから、国指定の清掃業者であるのは間違いなく。
仮に男地の住人が通りがかっても、何一つ違和感を感じることも無いだろう。
ただし、その二人が今いる場所を除いては……。
――公園内には、ケヤキやクスノキなどの高木が所々に立っている。
その内の一本。高さ20メートルはあろう大木に登って、二人そろって丈夫そうな太い枝に腰をかけているのだ。
しかも、遠目には生い茂る葉っぱに隠れてかなり見えづらい。
通りがかった程度では、その存在に気づくこともない。
そして、一人が手に持っているのは双眼鏡。もう一人の首には、高機能そうな一眼レフカメラがぶら下がっている。
当然、彼女らは清掃員などではない。
職業は探偵。依頼を受けて、ある人物を調査中の二人だ。
そんな、あきらかな不審者たちではあるが、何やら緊張感の無いやり取りが聞こえてくる。
「ねー、南所長……やっぱこの仕事やめません? 悪い予感しかしないですよー」
やる気がなさそうな口調で訴えるのは、助手にして唯一の所員である『鈴木花子』だ。
少し背が低い黒髪おかっぱの方で、年齢は二十代前半に見える。
そのなんとも特徴が無い顔つきが特徴とでも言うべきか……決して悪くないが、決して美人でもない、無難な顔立ちである。
「花ちゃん、アホ言わんといてな! こないなおいしい仕事逃してどないすんねん! そもそも今月もタダでさえピンチや言うのに!」
少し甲高い声が言葉を返す。
南所長と呼ばれたこちらも、見た目は二十代前半で糸目にソバカス。美人と呼ぶには多少難はあるが、それなりにバランスの整った顔立ち。
彼女と花子、たった二人の探偵事務所の所長『西中島南』だ。
その口ぶりから、探偵業は順調ではないのが感じられる。
「わかってます。わかってますよー! でも……男性特区の指定清掃業者。その生きてるIDカードを手配できる依頼主って、普通にヤバくないですか? ああ、キナ臭い。キナ臭いですねー、これ!」
両手で顔をはさんだ花子が、芝居がかった口調で悲観的見解を述べる。
それを聞いた南は、その細目を見開き反論する。
「やっかましいわっ! あんな花ちゃん……ウチらが軍隊で斥候部隊やっとった時代に比べりゃ、こんなキナ臭い程度なんてかわいいもんやろ? それに報酬がごっつうええやん。調査も残り四日の我慢やさかい……な、あんじょう頼むで!」
こんな調子の南と花子だが……さて、この世界で人気がある職業は『男性と何かしら接点が持てる』仕事なのはご存知の通り。
そして、その就職競争に敗北した者たちはどうなるのか?
この二人が正にその一例。
身体を鍛えて男性警護業を目指すも見事脱落。
高収入につられて、ついつい軍に入隊。しかし、泣かず飛ばずで、昇進して内勤どころか、前線中の前線に配属される始末。
命あってのものダネと退役し、一念発起で起業した先輩後輩の二人なのだ。
ちなみに、配属された斥候部隊の経験を活かして、危険回避と逃げ足には自信を持っている。
そんな自負もあってか、高い報酬につられ、限りなくアウトな依頼に手を出して今に至るのである。
◇◆◇
「そりゃまあ、すんごい美少年ですから調査依頼がくるのも理解できますけど……写真撮るのはヤバいですよ。あたし男性警察のご厄介にはなりたくですぅー」
「はぁ!? 何言うてんねん。風景写真や、風景写真っ! そこにたまたま美少年が写っとるだけや! 花ちゃん人聞き悪いこと言わんといてや? ……はぁ、しっかし今日もまたあのMapsがついてるんか……たまらんでホンマ」
双眼鏡をのぞきながら南が愚痴る。
男地内は、数少ない男性の一人歩きが可能な区域。
しかし、ターゲットにはどんな時も必ず誰か一人は付き添っていた。
やりにくいことこの上なしだ。
「そう言えば……初日にビビりまくってましたけど、そんなヤバいんです? あの美少年についてるMapsたち」
「せやから言うたやろ? 普通はありえへんのやけど、ありゃ間違いなく三人ともSかAランクやで! あの子猫ちゃんかて、ウチらが気配を消して近づいても速攻で感知するレベルや。おかげで1キロ近く離れんとアカンわ……写真は取れんわ……かなわんで」
「確かに……行動調査は取れてますけど、写真は……全然ですもんねー」
そうぼやきつつ、花子が首にぶら下げている一眼レフカメラをなでる。
「そやで! それにな、もう二人おった内の拗らせた悪い目つきしとるねーちゃん。あれも相当にヤバいで――」
「ふーん……で、何を調べてるの?」
「えっ? そりゃあオマンマの種に決まっとるが……な……!?」
突然、さらりと何者かが会話に加わるも、その自然な流れに、つい話しに乗ってしまった。
気づくと同時に、南は顔から血の気が引いていくのを感じる。
とにかく、その存在が接近したことに――いや、今の今まで、自分たちの間近にいたことすら気づくことができなかった。
背中に嫌な汗を感じながら、ゆっくりと横を振り向く。
すると、そこにはたった今、自分が相当にヤバいと評した人物。
きれいに切れ揃えられたセミロングの黒髪。
まるで猛禽類かと思える鋭い目つきをした女性が、こちらをじっと見つめていた。
何故かはわからないが、ジャージ姿に防刃ジャケットと非常にシュールないでたちなのが、混乱に拍車をかける。
ともかく、ここで南の脳内認識作業は完了。横で青くなっている花子も同様であろう。
「「うぎゃあああああっ!?」」
二人そろって思わず悲鳴をあげてしまった。それほどの衝撃。
それでも南は、即座に下に向かって、太めの枝から枝へと飛び移る。
ある程度の高さまで降りたところで、一気に地面までジャンプ。
――着地。即、逃走。
同じく、飛び降りてきた花子といっしょに駆け出した。
走りながら南は戦慄する。
ありえない! 自分たちは、ただ木に登っていたのではない。
枝葉の影になるように、しっかりとカモフラージュしていたハズだ。
百歩譲って気づかれただけならまだいい。
何より恐ろしかったのは、一切の気配を感じることなく接近された事実!
軍の斥候部隊時代。
敵の接近に気づけないことは同時に死を意味した。
その時に培った危険察知能力が、まったく反応しなかったのだ。まさに異常事態である。
しかし、判断の遅れもまた同様だ。
自分たちには、もう一つの武器『逃げ足』がある。
あらかじめ決めておいた、数ヶ所の合流地点。
そのひとつのサインを花子へと送り、二手に分かれ、できるだけ道を使わずに全力疾走を続けた。
◇◆◇
十五分後。
公園から2キロほど離れた街道沿い。緑地として使われている雑木林に南は到着。
すぐに花子も木の影から姿をあらわす。
「ハァッ、ハァッ……どや、花ちゃん。そっちは撒けたか?」
「はっ、はい……たっ、多分……逃げ切った……いや、追いかけてくる……ようには見えなかったですけど……」
とりあえず周りを見渡す……よし、誰もいない。
それを確認してから、南は適当な石に腰をかけて、頭の整理をはじめた。
「どないしよ……いや、どの道いったん引き上げんとしゃあないな……」
「南所長……もう写真は買物とか外出時を狙うのがよくないです?」
「だから花ちゃんアホ言うなって、それじゃ写真の買取価格が全然かわんねんで?」
「うっ……ですよね……。このカメラだけで十万以上投資しちゃいましたもん――」
花子がカメラを手に持って、そう言いかけたその時!
背後からスッと二本の腕が、優しく抱き締めるように伸びてくる。
花子の手をそっと包むように、冷たい手が添えられた。
――とほぼ同時。サラリとした黒髪が花子の頬に触れ、耳元で吐息をふきかけるように、ソレが囁く。
「これ、カノンのハイパーショットWX80HGだよね。最近出た光学ズームが売りの新製品。あたしも買おうか迷った」
「ぴゃぎぃっ!?」
言葉にならない悲鳴!
花子は背中から手を突き刺され、心臓を鷲掴みにされたかの如き悪寒に襲われた。
またしても、またしても一切の気配を感じなかった。
接近はおろか、カメラを持った自分の手に触れられる瞬間まで、その存在を認識すらできなかった!
一方、その光景を目の当たりにした南。細い目を限界まで見開き、金魚のように口をパクパクとさせて固まっている。
「「はぎゃああああああっ!?」」
腰が抜けた南。涙を流して顔面蒼白、失神寸前の花子。
もはや逃げるどころではない精神状況の二人である。
「そっ、そそそそんなアホな? ……一度ならず二度まで……ウチらに気取られず近寄れるとかありえへんやろ……」
「えーと。なんで逃げたの?」
対する深夜子は、とりあえず会話になりそうな南に視線と質問を投げかけた。
ついでに左腕のMaps腕章を見せて、事情聴取であることもアピールする。
「に、逃げた? あっ、いや……そっ、そりゃあ、あないに突然話しかけれたら、だっ、誰だってビビりまっせ? ウチら二人とも小心者やさかいに……なっ、なっ、花ちゃん!」
「……え? ……あっ……はっ、はいっ!! はいそうです。もうっ、それはもうびっくりしちゃって身体が勝手に!」
「ふーん。で、何してたの?」
南と花子は、辛うじて口裏を合わせる。
今、逃げるのは無理と判断。誤魔化してやり過ごす方針にする。
話術は、探偵業に必須のスキル。起業に伴ってそれなりには勉強はしてきたのだ。
「い、いやー、そりゃもう、せっかくのええ景色ですやん? 風景写真の撮影をさせてもろうとったんですわ、ハハ、ハハハ……」
「そ、そう! そうですよ。ちょっと公園の掃除をしてたら、あまりに天気がよくて、みっ、見晴らしのよさについ。あはっ、アハハー」
勉強した割には、かなりお粗末な二人の演技力。これには深夜子も――。
「……へー、そうなんだ」
納得しちゃった!!
残念ながら対話、交渉は深夜子の最も苦手とする分野。これはある意味名勝負である。
しかし、じーっと、さらにじーっと、深夜子はただ黙って南と花子を見つめる。
こんな時に限っては、日頃はマイナスにしかならない目つきと口調が大いに役立つ。
まったく思考が読めない上、とにかくプレッシャーが尋常ではない。――が当然、深夜子は何も考えていないッ!!
それを知るよしもない南たちは、蛇ににらまれた蛙の如く顔中に油汗を滴らせる。
どう言い訳したものかと考えるが、あまりの恐怖につい小声で本音が漏れてしまう。
(ア、アカン……これはアカンで……確実に三桁は人を殺しとる目や……てか、なんで警護担当がこないなバケモン揃いになっとんねん?)
(死んだ。わたし死んだかと思いましたよ。やっぱこの仕事おりましょう! まだ死にたくありませんよー)
それでも南は必死に考える。
いくらMapsと言えど、自分たちを拘束できるほどのボロはまだ出していないハズだ。
そして、相手がMapsだからこそのポイント。
警護対象から遠く離れるのが難しい。これを利用しない手はないだろう。
ならば取るべき選択肢は一つ。街からの離脱、間違いない。
すぐ近くに移動用の自動車が止めてある。
このバケモノは、腕はともかく頭は多少弱めに思える。
とにかく車に乗り込み、一気に街から脱出さえすれば追っては来れまい。
南は花子にアイコンタクトで一芝居いれる指示を送る。
「あっ! ちょっと事務所から電話ですね。……はいもしもし、えっ? 早く次の清掃場所に移動しろ? そ、そうですよね、もう時間ですよねー」
「ちゅ、ちゅうわけでウチら、別のとこで清掃の仕事がありますんで、ほなこれで!」
「あれ? ちょっと、あたしの話。まだ――」
「「ご、ごきげんようー」」
強引に会話を切り上げて、逃げるように雑木林を抜け出る。
道路近くに止めてある車へ急ぎ、南と花子は我先にと乗り込む。
エンジンをかけたら、一息に発進!
良かった。これで逃げれる……それから、帰ったら、もうこの仕事……やめよう。
口には出さないが、同じことを考えている二人であった。
――車は林道沿いから、大通りへ。
脱出までもう少しだ。南たちは不安をぬぐうため、努めて明るく言葉をかわす。
「はぁ……いやー、とんでもないもんに出会うてもうたなぁ、花ちゃん。ま、帰ったらとりあえずこの仕事はキャンセルやな」
「ですよねー。もうしばらくこの手の依頼はこりご……り……?」
助手席に座る花子の視界。車のフロントガラスに映る自分の姿。
ぼんやりと見えるのは、おかっぱの黒髪に添えられた白い指先。
それが、自分の髪をかるく撫でているところだった。
(トリートメントはしてる?)
花子にだけ聞こえる囁き。
そして、猛禽類のような眼光が、死をもたらす眼光が、ぎろりとフロントガラスに映りこむ。
(あばばばばばばばば)
花子、失神。
「そやなー、なんか別の……なんかって、ん? あれ……花ちゃん? 花ちゃん!?」
ここで運転中の南は、花子の反応が無いことに気づく。
ふと助手席に目を向ければ、そこには白目をむいて口から泡を吹いている哀れな姿の花子!
「ぎひぃっ!?」
猛烈な悪寒に襲われながら、恐る恐る視線をバックミラーへと向け、後部座席を確認すると……。
「ねえ。まだ話終わってないよ」
まさにタクシーの運転手からよく聞く怪談話。
それをリアルで再現している深夜子がそこにいた。
「ほっげぎゃああああああああっ!?」
無論、パニックを起こした南は運転どころではなくなる。
車は歩道に乗り上げ、減速しながら、ガードレールへと激突して停止。
しかし、さすがは元軍隊経験者。さほどの怪我もせずに車から這い出てくる。
そして――。
「かっ、堪忍や! もう堪忍してーやっ! お、おかーちゃーん!」
「ちょっ、南所長!? わたしを置いてかないでーーーっ!!」
ほうほうのていで逃げだす二人。それをあえて見送る深夜子。
その手には、南たちから抜き取ったスマホや手帳などが数点。
実は論破して拘束するが面倒なので、これを狙っていたのである。
さらに、壊れた車の中からゴソゴソとある物を取りだして、満足気に笑みを浮かべる。
「ふひっ、カノンのハイパーショットWX80HG! 欲しかった。ま、悪いことに使われるよりいい……よね?」
――そのカメラ、欲しかったんですね。
いい訳がましいが、盗撮に使われるよりは良いだろう。
カメラをあれこれと触りつつ、ご機嫌で帰路につく深夜子だった。
「ふへへ。これでいっぱい朝日君、撮ろっ!!」
使用用途変わらずッ!!




