暗雲と幸福と
『おめざめ ですか?』
「…………あぁ」
瞼を開けると、アイボリーの壁とダークブラウンのチェストが見えた。
どうやら俺は椅子に座ったまま眠っていたらしい。
ぼんやりとした思考。ずっと控えていたであろうロボットメイドの声に、かろうじて反応する。
夕刻、意外に早く邸に戻れると思った頃に、国境での魔獣騒ぎの報せが入った。新人兵の小競り合いから防壁の閉め忘れに繋がり、繁殖期で獰猛化している魔獣の侵入を許すなどとんでもないことだ。
ちょうどストレスが溜まっていたこともあり、俺はリンクスの制止を聞かずすぐに国境まで転移した。
感情のままに一帯を焼き払い、怯える長官や現場指揮官らに「追って処分を伝える」とだけ言った俺は再び王都へと飛んだ。
さすがに疲れた。
気分はすっきりしたが、体はそれに比例しない。
リンクスの小言を聞くより前に、俺は邸に戻って来た。
もうシュゼは眠っているだろうなと思っていたのに、俺を出迎えたのは明るい笑顔で、まるで記憶喪失なんて悪い夢だったのではと思うほどに幸せを感じられた。
今すぐ抱き締めたい。でも、俺の脳裏にシュゼの慌てた姿が浮かぶ。
魔法薬による眠りから覚めたとき、彼女にとって「遠い存在」の俺が水を飲ませると、動揺と怯えがその態度からは伝わってきた。
誰かの悪意によって記憶を奪われた彼女を、これ以上傷つけたくない。
俺だけは絶対にシュゼの味方なんだとわかって欲しい。
心から君を好きなんだと、わかってもらいたかった。
ただ、この二年間はあまりに幸せで……
今さら他人だと思われるのは想像以上に苦しかった。
この手に届く距離にいるのに、シュゼにとっての俺は魔法師団長様。
ふとしたときの所作や言葉にそれを思い知らされる。
どうすれば俺を見てくれる?
もどかしさは募る一方で、けれどそんな不安をシュゼに感じさせるわけにはいかない。
「シュゼ」
口から零れるのは、ただの言葉じゃない。
どうしようもない想いが籠った俺の一部だ。
なぜ俺だけを忘れた?
なぜ思い出してくれない?
君にとって俺は、取るに足らない存在だったのか?
シュゼがアウレアたちと笑い合う姿を見ていたら、まるで俺との思い出なんてなくても幸せになれるんだと見せつけられているみたいだった。
俺は、いらない。
彼女にとって、なくてもいい存在。
日を追うごとに不安が増幅する。
もうこんな日々は終わりにしたい。一刻も早く、シュゼに俺を思い出させたい。
でも、シュゼを傷つけたくない。
自分自身の思考に殺されそうだ。
目をぎゅっとつぶり、悪い考えから必死で抜け出そうと試みたそのときだった────
「グランジェーク様……?」
足元で声がする。
驚いて視線を下げると、椅子の肘置きにもたれかかって眠るシュゼがいた。
ふわりとした黒髪にそっと触れると、彼女は「んん」と小さな声を上げて顔を顰める。
座ったまま眠っていた俺のそばで、シュゼもまたうっかり眠ってしまったのだろう。
「シュゼ?」
返事はない。
床に座ったままこんなにぐっすり眠ってしまうなんて、彼女もまた疲れているんだなと思った。
シュゼを起こさないよう、俺は彼女の細い体をゆっくりと抱きかかえる。
「ん……」
子どもみたいに体を預けてくるシュゼは、俺の肩に頬を寄せて寝心地のいい場所を探す。ぎゅっと抱き締めると、その温かさに心が安らぐのを感じた。
あぁ、俺はまた間違えるところだった。
こうしてシュゼが生きていてくれることが幸せなのに。
目を閉じて幸福に浸ると、殺伐とした気分が鎮まっていく。
ずっとこうしていたいが、シュゼをベッドに寝かせた方がいい。
俺は名残惜しい気持ちを抑え、寝室のベッドに彼女の体をそっと寝かせた。
仰向けに寝かせた彼女の体に、柔らかな毛布をかける。
そのとき、ふと彼女が目を開けた。
「グランジェーク様?」
甘えるような声。
うつろな目は、寝ぼけているように見える。
その姿が可愛くて、俺は自然に笑みを浮かべて言った。
「まだ夜中だ。ゆっくり眠って」
「……はい」
再び目を閉じた彼女は、静かに寝息を立てる。
俺はその柔らかな黒髪を指で梳かすようにして頭を撫で、シュゼの寝顔を眺めていた。





