第3章 鬼畜-2
それから小一時間ばかり。
ケガの痛みとゴミ溜めのような悪臭、そして益々強まる尿意に耐えつつ、麻美は汚れた畳に転がったまま、ただ暗がりの中で待つことしかできなかった。
玄関のドアが開く音。階段を上ってくる複数の足音。
ふいに隣室の気配が慌ただしくなり、麻美はハッと顔を上げた。
「す、すんません。わざわざこんな所まで――」
「詳しい話は後だ。とりあえず、本人に会わせてもらえるかな?」
(この声、どこかで……?)
間もなく古ぼけた襖が軋みを上げて開かれ、いきなり差し込んだ明かりのまぶしさに、麻美は思わず目を閉じた。
「なるほどね……これが君らの抱えた『厄介事』というわけか」
おそるおそる瞼を開くと、隣室の照明を背負った黒い人影がこちらを見下ろしている。
森川が慌てて部屋の電灯を点け、ようやく人影の姿がはっきり確かめられた。
そこに立っていたのは、学生服の上にダッフルコートを羽織った長身の中学生だった。
校則通りきちんと散髪された頭髪、生真面目そうな金属フレームの眼鏡。
およそ非行や犯罪などといった行為とは縁遠い、眉目秀麗という表現がぴたりとくる優等生風の少年。
(日下先輩……?)
思いもかけぬ人物の登場に驚く一方で、麻美の心中には「やっぱり……」という思いもあった。
表向きは品行方正な生徒会長。
だがその裏で広域暴力団「扶桑会」組長の息子として、この地域一帯の不良グループや暴走族に隠然とした影響力を及ぼす、いわば「影の番長」といっていい存在。
以前に警官の父からその話を聞いたときは正直半信半疑だったが、学校でも名うてのワルである森川のへりくだった態度、何より司朗自身が森川の呼び出しに応じたことがその事実を証明している。
塾帰りか何かの途中に携帯で呼び出されたのか、司朗は片手に提げた大きなボストンバッグを床に置くと、改めて麻美の姿をしげしげと見やった。
「ずいぶんグッタリしているようだけど……彼女に何かしたのか? まさかもうレイプしたわけじゃあるまいね?」
「と、とんでもないっす! ちぃとばかりヤキ入れただけで、それ以上のことは何も……」
「なるほど……だとしても、えらいことをしでかしたものだねえ。よりによって同じ中学の女子生徒を拉致監禁、暴行傷害……しかも相手は県警幹部の娘ときた。君たち、こんなことしてタダですむと思ってるのかい?」
「その……ですから、そこを日下さんのお力で、何とか……」
「そういわれてもねえ……」
やけに芝居がかった仕草で、司朗は髪を掻き上げた。
「確かに、君らも知ってのとおり僕の父は暴力団の組長だ。けど僕自身は、あくまで組とは無関係の一中学生に過ぎないんだよ? 将来組を継ぐなんて根も葉もない噂も流れているようだけど……正直、迷惑だね。実のところ父は僕がカタギの職業……医者か弁護士になることを望んでいるし、僕だってそのつもりで勉強しているんだから」
「そ、そんなご謙遜を……日下さんの名前を出せば、この界隈の族やチンピラ連中は残らず震え上がるって、もっぱらの評判じゃないっすか?」
「それだって単なる噂だよ。そんなことより、少しは僕の迷惑も考えてほしいものだね。夜中にいきなり呼び出されて、何事かと思えばこんな犯罪行為の手助けをしてくれだなんて……非常識にもほどがあるんじゃないかい?」
「すっ、すんません!」
他の仲間に対する傲慢な態度とはうって変わり、背後の森川が深々と頭を下げた。
「自分、日下さんのことは日頃から尊敬してるっす! 日下さんが組を継ごうと継ぐまいと……これから先、カラダ張って一生尽くしますから!」
(バッカじゃない? 安っぽいヤクザ映画じゃあるまいし)
とはいえ、司朗自身がこの件とは無関係なこと、むしろ突然森川たちに泣きつかれてひどく迷惑がっているらしいことは、自分にとって有利な材料だと麻美は思った。
それに人としての善悪は別として、少なくとも司朗は森川たちのように一時の感情に任せて考え無しに暴走するタイプではない。
これ以上自分を監禁し続けたところで何の得にもならないことはよく分かっているだろうから、彼との交渉次第では思いの外早く解放してもらえるかもしれない。
麻美自身が最も嫌いな「優等生の仮面を被って陰で悪事を働く」タイプの男に借りを作ってしまうのは少々面白くなかったが、この際贅沢もいっていられないだろう。
「重ねて訊くけど、これは本当に出来心でやったことで、たとえば彼女を人質にして親から金を脅し取ろうとか、そういう営利誘拐が目的じゃないんだね?」
「違いますよ! 本当にその場の成り行きでこうなっちまっただけで、誘拐だなんて大それたことはちっとも……」
「分かったよ。何はともあれ……こうして関わってしまった以上、知らんぷりもできないなぁ。君らも笠倉さんも、僕にとっては同じ中学の学友というわけだし」
「あ、ありがてえ……さすが日下さん! 恩に着ます!」
「ちょっと君らは外して、しばらく彼女と二人きりにさせてくれないかな? 何とか事を穏便にすませられないか、話し合ってみたいから」
「そ……それはまあ、ご自由にどうぞ」
森川たちを隣室に下がらせ再び襖を閉めると、日下司朗は床に転がされた麻美の頭のそばへ片膝をついてしゃがみこんだ。
「やれやれ……とんだ災難に巻き込まれたものだねぇ、笠倉さん」
眼鏡の奥で、切れ長の一重まぶたが優しげに細まる。
「……」
「でも、それは僕だって同じだよ。ただでさえ『ヤクザの息子』というだけであらぬ評判を立てられ、日頃から迷惑しているっていうのに……こんな事件に関わったことが世間に知れたら、それこそ警察にマークされて来年の受験にも支障を来しかねないからね」
司朗の言葉には、麻美にも少なからず共感できる部分があった。
彼女自身も誠実で勤勉な警察官である父親のことは心から尊敬しているが、その一方で「警官の娘」ということから、時折クラスの友人たちから微妙に距離を置かれているような疎外感を覚えたことも、一度や二度ではない。
どんな家に生まれようと、それを子ども自身が選ぶことはできないというのに。
(もしかしたら……あたし、誤解してたのかもしれない。日下先輩のこと)
「さて、本題に入ろう。もちろん今すぐにでも自由の身にしてあげたいところだけど、そのためにはまず、君自身の協力が必要だ。今から猿ぐつわを外すけど、隣の部屋にいる連中を刺激しないよう、くれぐれも悲鳴を上げたり騒ぎ立てたりしないこと……約束してくれるね?」
麻美は同意を示すため、大きく頷いた。
「よし、いい子だ」
司朗の腕が首の後ろに回され、堅く縛られた猿ぐつわの結び目を器用に解く。
「どうだい? 気分は」
「あの、本当にありがとうございます……助かっても、あたし日下先輩のことは絶対に内緒にしますから」
「……」
だが、麻美の感謝に対して司朗はなぜかこれといった反応を示さず、無表情のままじっと彼女を見つめていた。
「あの……先輩?」
わずかの間をおいて、少年は再び口を開いた。
「君は……自分を特別な人間だと思ったことはあるかい?」
「え?」
質問の意味がよく分からない。
「さっき森川君たちにもいったように……僕は任侠の世界なんかこれっぽっちも興味はないし、将来父の後を継ぐ気もない。それでも地元の不良連中や暴力団に人脈を広げているのは……役に立つからだよ。僕に与えられた、僕にしかできない崇高な『使命』を果たす日のために。その意味で……僕は、自分を紛れもなく特別な人間だと思っている」
(ハア? なに寝ぼけたこといってんの、こいつ? こっちはそれどころじゃないんだから、さっさとこのテープを解いてってば!)
麻美は内心で毒づいたが、とにかくこの場で唯一の味方となりそうな司朗の機嫌を損ねては元も子もない。
「と、特別かどうかは知りませんが……少なくとも日下先輩は、森川たちなんかと違ってずっと頭も良くて良識のある方だと思いますけど」
「うーん。分からないかなぁ?」
微苦笑を浮かべつつ、司朗は右手をコートのポケットに入れた。
「質問を変えよう……たとえば、この世に悪魔は存在すると思うかい?」
「悪魔って……聖書とか西洋の昔話に出てくるアレですか? でも、あんなの昔の人の作り話じゃ……」
「いいや、僕は実在すると思うね。もちろん漫画や映画に出てくるような、あんな戯画化された怪物じゃないよ? おそらく人間の目には見えない霊的な存在だろう。だが『彼ら』は善悪を超越して人の心を意のままに操り、時には選ばれたごく一部の人間を代行者として世界を破滅へと導いていく……実に素晴らしいと思わないかい?」
「あの、仰る意味がよく分からないんですけど……」
「そんなはずはないよ。だって、君がいま置かれている状況がまさにそうじゃないか? 確かにこの件に関して、僕は一切関与していない。にもかかわらず、いまこうしてこの場に呼び出され、君の身柄をどうするかについて委ねられた……これは、果たして偶然だろうかねえ? 自らは指一本動かしていないというのに、僕は今、君という一人の人間の命を手中に収めているんだよ?」
(……!)
そのとき、麻美はようやく理解した。
目の前のこの少年に、自分を救出する意志など毛頭ない。
いや、むしろこの機会を利用して――。
なりふり構わず大声で悲鳴をあげようとしたその瞬間、顔面に何かガス状のものを吹き付けられ、麻美は激しく咳き込みながら涙を流した。
護身用の小型催涙スプレー。おそらく司朗がポケットに忍ばせておいたものだろう。
声も上げられずにもがき苦しむ麻美に再び猿ぐつわをはめると、司朗は感慨深げにゆっくり立ち上がった。
「いつかこんな日が来ると信じていたよ……この退屈で淀みきった世界を破壊するため、僕に『行動せよ』と命じる悪魔からのメッセージが伝えられる時が。その最初の生け贄が、よりによって君になるとは思わなかったけどね」
(イカレてる……こいつ、絶対まともじゃない!)
救いの神と思われた相手が、実は森川たちなどより遙かに危険な異常者であると知った衝撃と絶望に、目の前が真っ暗になる。
「残念だよ、笠倉さん。こんなことさえなければ、君は僕の後を継いでさぞ有能な生徒会長になれたろうにねえ」
しゃあしゃあとした顔でいうと、司朗は声を上げて隣室で待っている森川たちを呼んだ。
襖が開き、ぞろぞろと入ってきた四人が、部屋に残った催涙ガスの異臭に顔をしかめる。
「うぇっ……何なんすか、この臭い……あ、いや、それよか話はついたんすか? この女と」
「うーん。いちおう説得はしてみたんだけどねえ……」
わざとらしくかぶりをふる司朗。
「どうやら、彼女に君らを許すつもりは全くないようだ。自由の身になりしだい、警察に訴えるといきまいてる」
「げっ……」
森川たち四人の顔から、見る間に血の気が引いた。
「むろん君らはまだ未成年だから、刑務所に送られることはないだろう。ただし彼女の父親が警察幹部ということを忘れちゃいけないな。そうそう、親父さんに頼んで全員少年院送りにして、ついでに君らの名を公安のブラックリストに載せてやるともいってたな……そうなると大変だねえ。君らは一生警察の監視下に置かれ、将来社会に出てもまともな就職さえできない立場になる……」
(デタラメいわないでよ! 戦前の特高警察じゃあるまいし、そんなことできるわけないでしょ?)
「そ、そんなぁ……何とかしてくださいよ~、日下さん……後生です!」
四人の不良たちは半ベソをかき、土下座せんばかりの有様で司朗に縋った。
「なあに。簡単なことさ」
端正ではあるがどこか爬虫類めいた司朗の顔に、満面の笑みが広がった。
「このまま、彼女を家に帰さなければいい」
あまりにさらりとした言い方に、麻美も、そして森川ら不良たちでさえ一瞬固まった。
「ええっ? でも、やっぱこのままじゃ……」
「念のため確認しておくけど、彼女を運ぶとき、誰かに目撃されなかったろうね?」
「それは大丈夫っす……あそこからこの家まで、めったに人が通らない裏道を使いましたから」
「なら問題ない。警察が本気で動くのは、はっきり事件か事故と判断されたときだけだからね。何の証拠もなければ、女の子が一人消えたところで家出人、もしくは単なる失踪者として事務的に処理されるだけさ。現に、国内だけでも年に十万人以上の人間がそうやって姿を消しているんだから」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! この女どうするんすか? まさか、この先ずっとここに置いておくわけじゃないっしょ?」
慌てて異論を唱えたのは、家の住人である関根だった。
「まさか一日中見張ってるわけにもいかねえし……だいいち、食事やトイレは……」
「食事? そんなもの適当に残飯でも食わせておけばいい。トイレなら、ドラッグストアに行けば介護用のオムツが売ってるよ。要するに……」
不良たちの顔を見回し、司朗がいった。
「彼女を人質だと……いや、人間と思わなければいい。君らのペット、何ならオモチャとして飽きるまで飼い殺しにすればいいのさ」
(嘘よ……これは夢、きっと悪い夢だわ……お願い神様、早くあたしの目を覚まして!)
堅く目を閉ざし懸命に願う麻美の耳に、嬉々とした少年たちの声が飛び込んだ。
「すげえ……すげえよ、日下さん! さすが、俺たちとは頭のデキが違う!」
「人間の女を『飼う』だなんて……今まで考えもしなかったぜ!」
「で、でも……ここってただの民家でしょ? 地下室や牢屋もないのに、本当にこいつを閉じこめておけるんすかあ? それに……やっぱサツだって、親から届けが出ればこの辺を捜索するんじゃないかと……」
「君、二年の高田君だっけ? 悪いけどちょっと頼まれて、近所のドラッグストアから黒いポリ袋……そうだな、一番大きなサイズをなるたけ大量に買ってきてくれるかな? お金は後で立て替えるから」
「へ? そんなの、いったい何に……」
「高田ぁ! つべこべいわず、日下さんのいうとおりにしろ! グズグズしてるとヤキいれっぞ!」
催涙ガスの効果が薄れ、麻美が辛うじて目を開くと、ちょうど森川にどやされた高田が泡を食ったように部屋の外へ飛び出していくところだった。
「さてと……今の後輩君の疑問についてだけど、まず警察のことはご心配なく。これについては、僕に考えがあるからね。それと、彼女が逃げ出せないようにする『対策』については……」
足下のボストンバッグを開き、中から取りだした大量の包帯や脱脂綿、それに注射器や薬剤アンプルのセットなどを楽しげに畳に並べ始めた。
(な……なに? こいつ、いったい何をする気なの?)
どう考えても、森川から電話を受けての短い時間で用意できるような品々ではない。
確かに日下司朗は単なる「キレやすい若者」ではなかった。
それがいつからかは知らないが、今回の件とは関係なく、じっくりと時間をかけて準備を整えていたのだ。
いつの日か、己の病的な妄想を「実現」できるチャンスを夢見て。
司朗の顔はいつもどおり穏やかな微笑を湛えているが、よくよく見ればその目は興奮に血走り、蛇のごとく真っ赤な舌先がしきりに口の端をなめている。
(……ひっ!?)
最後に取り出された糸鋸を見た瞬間、恐怖に耐えかねついに麻美は失禁してしまった。
生暖かい感触が、下腹部から内股へとじんわりと広がっていく。
だが、もはや恥ずかしいなどと感じていられる余裕さえなかった。
「おや、漏らしちゃったかい? 困ったねえ……高田君に、紙オムツも買ってくるよう頼んでおけばよかったな?」
司朗が口を開いてニタリと笑う。
虫歯ひとつない、並びの良い真っ白な歯列が、麻美の目にはあたかも禍々しい鮫の鋸歯のごとく映った。
「必要な道具や薬品類は、全部用意してきた。あと足りない物は……ここは関根君の家だったよね? すまないけど、この家にある古新聞をありったけ集めてきてくれないか」
「うっす……おい小森、物置に行くからおまえも手伝えや」
(た、助けて……お父さん、お母さん……ユウ君っ!)
友だちは男女を問わず他にも大勢いるはずなのに、なぜか最後に麻美の脳裏に浮かんだのは、お世辞にも頼りになるとは言い難い幼なじみの少年の顔だった。
(いやぁああああああああ!)
必死に畳の上を転げ回って抵抗するところを森川に押え付けられ、二の腕に注射針らしきものがチクリと突き刺さる感触。
そして少女の意識は、底知れぬ絶望の淵へと沈み込んでいった。




