第2章 猟犬-4
裕太に対するいじめが始まったのは、中学二年の夏休みが終わって間もない頃。
きっかけは些細な――本当に些細で、他愛のない出来事だった。
「おっひさ~! ユウ君、元気してたぁ?」
昼休み。自分が所属する2Bの教室で、食べ終えた弁当箱を片付けていた裕太の前に、真っ黒に日焼けした麻美が現れた。
「なんだよ、いきなり……おまえC組だろ?」
慌てて周囲のクラスメートたちを見回し、裕太は声を落として注意した。
通常、同学年とはいえ他のクラスの生徒が堂々と教室に入って来るのは、あまり良い印象を与えないからだ。
だが麻美は全く動じなかった。
「まーまー。いーじゃない。堅いこといいっこナシ!」
幸い、他の級友たちも唐突な麻美の来訪に少し驚いているものの、特に怒ったり迷惑がっている様子はない。
それどころか、所々でまるで生アイドルでも目撃したような羨望のこもった囁きさえ聞こえてくる。
「彼女、C組の笠倉さんでしょ? こないだの学力テストで学年トップだった」
「うひゃあ、噂に聞いたとおり可愛いな~」
「でも合気道部の試合じゃ敵なしって話だぜ? 人は見かけじゃ判らねーなぁ」
中にはこっそり携帯で写真を撮っている男子連中さえいた。
(まぁ、麻美は学年じゃ人気者だからな……)
「ところで、何の用だよ?」
「冷たいわねー。夏休み中、ユウ君ち帰省してたじゃない? ずっと会えなかったから、こうして挨拶にきてあげたのに」
「そういやそうだったっけ……麻美んちもどこか行ってたのかい?」
「父さんは相変わらず仕事で忙しかったけど、母さんと二人でハワイに行ってたの。楽しかったわよー、ダイビング体験ツアーなんかもあって」
「そりゃ羨ましいな。ぼくなんか父さんの実家に帰ってたけど……向こうは何にもないド田舎だし、帰りは高速の渋滞に巻き込まれて散々だったよ」
「そんな不幸なユウ君のために、じゃ~ん! お土産をお届けにきました~」
そういいつつ渡された手提げ袋の中身を覗くと、ひと昔前はハワイ土産の定番だったマカデミアンナッツ・チョコレートの詰め合わせと、現地の民芸品と思しきアクセサリーだった。
(うわっ。コテコテ……)
その端麗な容姿と明朗活発な性格、加えて成績優秀・スポーツ万能というスーパーウーマンぶりから熱烈にアイドル視されている麻美だが、あいにく彼女自身のセンスにはややベタなところがある。
まあ、だからこそ同じく流行の最先端に疎い裕太でも、さして気を遣わず会話することができるわけだが。
「ホントはユウ君ちに直接届けたかったんだけどね、あいにく部活の方が秋の大会に向けて忙しくなりそうなんで……っと、いっけなーい、もう休み時間が終わっちゃう! それじゃ、おばさんたちにもよろしくいっといてね!」
礼をいう暇もあらばこそ。
来たときと同様、ドタバタと慌ただしく教室を走り出ていった。
(やれやれ。相変わらず、せっかちだなぁ……麻美のヤツ)
苦笑いしながら、もらった土産を鞄にしまおうとしたとき。
いきなり、強く背中を小突かれた。
驚いて振り向くと、同じクラスの熊井吾郎が背後にヌッと立っていた。
クラスメートとはいえ、今まで殆ど口をきいたことのない相手である。
着崩したダブダブのズボンに、整髪剤で逆立てた茶髪。いまどきこの程度で「不良」とはいわないだろうが、かなりそれっぽい雰囲気を漂わせた吾郎は、裕太にとって苦手なタイプだった。
「熊井君? ……な、何か用?」
「磯狩ぃ、おめえC組の笠倉とやけに仲いいじゃねーか。デキてんのかよ?」
「え……?」
唐突な質問に、裕太は動揺した。
幼稚園時代から家族同様につきあってきた麻美に対し、「彼女」だの「恋人」だのといった感覚がまるで欠落していたからだ。
「べ、別に、できてるだなんて……ただ、あいつとは家が隣だし、親同士も仲がいいから、子どもの頃からの顔なじみってだけで……」
ヒュウ、と口笛を吹き、ニキビだらけの吾郎の顔に下卑た笑いが浮かんだ。
「おうちがトナリぃ~? そりゃオイシイよなぁ。ひょっとして、もうヤっちまったか?」
(……!)
裕太の頭にカッと血が上った。
ただ冷やかされるだけならまだしも、心の奥でそっとしておきたい大事な何かを、無遠慮に汚された気分だった。
スチール製の椅子が後に倒れんばかりの勢いで立ち上がり、裕太は自分でも信じられない剣幕で吾郎を睨んだ。
「失礼だろ! き、君に、そんなこといわれる筋合いは――」
みなまで言い終える前に、いきなり周囲の風景が一変した。
目の前の吾郎の顔が天井に変わった、と思った次の瞬間には、激しい勢いで顔から床へ叩きつけられ、裕太の視界に映ったのは汚れた教室の床とスチール机の脚、それに上履きを履いたクラスメートたちの足下だった。
顎を殴られ、床に転倒した――そう悟った瞬間、脇腹に強烈な蹴りが入った。
「――うぐっ!」
「うぜーんだよ、このカス」
ボソっとした声でつぶやくと、吾郎はきびすを返し、麻美がくれた土産の袋をグシャリと踏みつぶしてそのまま自席へ戻っていった。
それで終わり。もはやケンカとすらいえない、一瞬で一方的な暴力であった。
(な……何なんだ? ぼくが何をしたっていうんだ……?)
ショックと痛みのため、立ち上がる気力さえない。
間もなくチャイムが鳴り、初老の数学教師がのそのそと教室に入ってきた。
「磯狩……おまえ、なに寝っ転がっとるんだ?」
「……あ、あの……これは」
「眠いなら顔洗って来い。授業始めるぞ」
状況が分かってないのか、分かっていながらあえて見て見ぬふりをしているのか。
それ以上にショックなのは、教室にいる誰一人、裕太をかばおうとも、吾郎の暴力を告発しようともしなかったことだ。
それどころか、教室内のあちこちから、裕太のぶざまな姿を嘲るような忍び笑いさえ聞こえてくる。
「きりーっつ! 礼!」
床に横たわる裕太を全く無視したまま、週番の生徒が号令をかける。
そのまま、何事もなかったかのように数学の授業が始まった。
「……」
ズキズキと痛む顎と脇腹を押さえ、裕太も辛うじて立ち上がり、席に着いた。
机の上にノートを広げたものの、あふれ出る悔し涙で目の前がぼやけ、授業の内容など殆ど耳に入ってこない。
成績は中の上、スポーツもほどほど。人気者の麻美には遠く及ばないものの、それなりに平穏だった裕太の学園生活は、その日をもって終わりを告げた。
翌日から彼を標的として、熊井吾郎を中心とした数名のグループによる執拗ないじめが始まったからである。
今にして思えば、吾郎も密かに麻美に憧れる一人であり、理不尽な言いがかりも子どもじみた嫉妬心のなせるわざだったのかもしれない。
だが、その後に待ち受けていたいじめという名の地獄に比べれば、最初のきっかけなどもはや些細な問題に過ぎなかった。
ちょうど肉食獣の群が手負いの獲物に襲いかかるように、級友たちのいじめは日に日にエスカレートしていく。
間もなく男女を問わずクラスの約半数は多かれ少なかれ裕太をいじめるグループに、そして残りの半数は、ただ己が新たないじめのターゲットにされることを怖れ、ひたすら知らぬふりを決め込むグループに二分された。
◇
「部活の友だちから聞いたんだけど……ユウ君、クラスでいじめられてるって本当?」
それがいつだったか、正確な日付は思い出せない。
たぶん秋が深まり、朝晩の冷え込みに早くも冬の気配が感じられはじめた、そんなある日の放課後。
ようやくその日のいじめから解放され、さんざん殴られて腫れ上がった顔を手洗い場の水道で冷やしていた裕太に、背後からかかる声があった。
「……」
のろのろ振り向くと、心配そうに眉をひそめた麻美が廊下に佇んでいる。
洗い場の窓から差し込む夕日が彼女の顔を赤く染め上げ、まるで知らない他人のように見えたことは、今でもはっきりと憶えている。
「やっぱり本当だったのね……バカね、何ですぐ先生にいわなかったの? いじめなんか人間として一番卑劣で野蛮な行為じゃない! もしユウ君が先生にいいつけたって、それは全然卑怯なことじゃないんだよ?」
「担任にはとっくに相談したよ……『クラスのみんなに聞いてみたが、誰も知らないといってたぞ?』っていわれて相手にもされなくて……その代わり翌日からいじめが倍になったよ」
裕太にとって殴られる蹴られるといった単純な暴力は、もはやいじめのうちにすら入らなかった。
その日の昼はチョークの粉をまぶした弁当を無理矢理食わされ、午後はズボンとパンツを脱いだ下半身素っ裸の格好で英語の授業を受けさせられた。
英語の受け持ちはまだ若い女性教師だったが、教壇から裕太の姿に気づいていたかどうかは分からない。
ただ授業が終わったあと、あたかも変質者を見るような目で裕太を睨みつけ、逃げるように教室を飛び出していったことから、たぶん気づいていたのだろう。
「みんな同じだよ。友だちも先生も……よってたかっていじめに加わるか、見て見ぬふりか……現に麻美だって、噂を聞いても今まで知らんぷりだったじゃないか?」
「ぶ、部活や生徒会の仕事が忙しくって……それに母さんが風邪こじらせて寝込んじゃったから、家のことも全部あたしがやらなくちゃならなくって……でも、本当にごめん! まさか、ユウ君がそこまで辛い目にあってるなんて、気づいてあげられなかった……!」
途中から涙声に変わり、麻美は裕太に向かって深々と頭を下げた。
「今からでも遅くないよ。一緒に職員室に行こう! 担任がダメなら、教頭先生か校長先生に直接掛け合って。それでもダメなら、管区の警察や法務局にいじめ相談の窓口が――」
「……よせよ」
「え?」
「これはぼくのクラスの問題なんだ……C組のおまえが余計な口を挟むなよ!」
たぶん、あの時の自分はおかしくなりかけていたのだろう――裕太はそう思う。
破綻寸前にまで追い詰められた精神が最後のはけ口を求め、たまたまそこにいた麻美に対して怒りの矛先を向けてしまったのだと。
「な、何いってるのよ? もうクラスがどうとか、そんな問題じゃないでしょ? あたしはただ、ユウ君の力になりたくて」
「だから、それが余計なお世話だっていってんだよ! だいたい、元々の原因を作ったのは誰だと思ってるんだ!?」
「え? 原因? ……いったい何の話?」
「もう忘れたのか? 夏休みのすぐあと……おまえが自慢たらしくハワイ土産なんか持ってくるから、あれ以来ぼくがクラス中からいじめの的にされてるんだよ!」
「……!」
「分かったろ? おまえ一人が騒ぎ立てたところで、何にも変わりゃしない……しわ寄せは全部ぼくに来るんだ! だから、もう二度とぼくに近づくな――この疫病神!」
血のような夕日の中で、麻美の顔がはっきりこわばった。
少女の頬をポロポロと涙が伝い、小さな拳が固く握りしめられている。
「分かったよ……それがユウ君の望みなら……あたしはもう、余計な手出しは一切しない……」
その言葉を聞いても裕太の胸には何の感慨も湧かず、麻美がいつその場から立ち去ったのかさえ気がつかなかった。
憶えているのは、ただ錆びた水道の蛇口から流れ続ける水音と、窓の外に広がる毒々しいほど赤く暗い夕刻の空。
「こんな世界……核戦争でも起きて滅びちまえ!」
思わず口に出して小さく叫んでいた。
(どいつもこいつも、みんな地獄に堕ちればいいんだ……どうせ、ぼくにとっては今の人生そのものが生き地獄なんだから!)
だが、その考えは甘かった。
それからわずかひと月ほど後、裕太は一人の悪魔にいざなわれ――見てしまったのだ。
自分が受けていたいじめなど比較にもならない、真の意味での「生き地獄」を。
◇
「あーっ!」
コーヒーを飲みながらぼんやり回想に耽っていた裕太を、だしぬけに上げられたカーネの大声が現実に引き戻した。
「ど、どうしたんだよ?」
「ユウタ、ユウタ! ちょっとこれ見て!」
「……?」
椅子から立ち上がり、ベッドの上でアルバムを広げたカーネの傍らへ歩み寄る。
「この写真なんだけどさ……誰だか分かる? こいつ」
そういって彼女が指さしたのは、二年生のときの体育祭を特集した写真集の一枚。
別に麻美が写っているわけではない。
少女の細い指先が置かれているのは、むさ苦しい男子生徒の群れしか写っていない騎馬戦の一カットであった。
「? その写真がどうかし……」
裕太は口をつぐんだ。
そこに、今まさに自分が回想しかけていた人物がいたのだから。
(な、何でこの人がこのアルバムに……?)
すぐに謎は解けた。
これは裕太の卒業アルバムだから、当然体育祭のページでも裕太の学年をメインとした構成になるはずである。
ただし最後の競技である男子騎馬戦だけは、学年ごとに赤組・白組が分かれた通常戦を一通り終えた後、あの中学独自の伝統として一年・二年の混成チームが三年生チームに挑む「特別戦」が行われる習わしとなっていた。
いわば、体育祭を終えてから生徒会や部活動を引退し、受験勉強に本腰を入れる先輩たちを激励するための「儀式」ともいえる。
だからその写真には、当時三年生で生徒会長を務めていた「あの男」が写っていたのだ。
おそらくカメラマン役の生徒に予め言い含めておいたのだろう。
偶然フレームに映り込んだように見せかけて、その実自分が一番目立つ位置で、ナポレオンのアルプス越えのごとくポーズをつけているあたりが、いかにも自己顕示欲の強い「あの男」らしい。
「日下……さん」
「やっぱりクサカ・シロウね!? ユウタはよく知ってるの?」
「ま、まあ一年先輩で、在学中は何かと目立つ人だったからね……といっても、卒業後に事故で死んじゃったけど」
「この中学に通ってたってことは……家もこのあたり?」
「ああ。駅前のマンションで、お母さんと二人暮らしだったって聞いてるから」
「そうか……それで、ヤツは土地カンのあるこの町に逃げてきたのね……!」
「あの、話が見えないんだけど……」
「驚かないでね、ユウタ。いま、あたしらが追ってる罪鬼どもの親玉は――この、クサカって男なんだから!」
「日下さんが、罪鬼に……?」
裕太は驚かなかった。
(確かに、あの人ならやりかねないな……地獄から脱走してくるくらいのことは)
そして、ふいに背筋も凍るような悪寒を覚えて全身が総毛立つ。
失踪した幼なじみ・麻美と瓜二つの容貌を持つ「ヴェルトロ」のカーネ。
罪鬼と化してあの世から舞い戻ってきた、かつての先輩・日下司朗。
そして麻美と司朗を結びつけるもの――三年前に自分が犯してしまった、もはや取り返しのつかぬ重大な「罪」。
今になって、再び司朗の存在が自分と関わってきたのは偶然なのか?
自分はヴェルトロと罪鬼たちの闘いに、本当にただ「巻き込まれた」だけなのか?
「このアルバム、しばらく借りるよ!」
「ああ、どうぞ……好きに使っていいよ」
「ラッキー! こんなところで手がかりがつかめるなんて――きっと地獄の神様のお導きよね!」
「何だか、嫌な導きだなあ……」
裕太のぼやきをよそに、ヴェルトロの少女はファイト満々でパシッ! と掌に拳を打ち付けた。
「よ~し。こーなったらあたしが真っ先にヤツの潜伏先を突き止めて、イザハドたちの鼻を明かしてやるんだから……そうと決まったらユウタ、あんたにもちょっくらつきあってもらうわよ!」
「ぼくも? おいおい『協力』ってのは、情報提供だけじゃなかったのかい?」
「だ~って、あたしの任務は今のところユウタの見張り役だもん。あんたが一緒じゃなきゃこの家からも離れられないし……そうだ! ここはひとつ協力者から、あたしの助手に格上げしてあげるから。光栄でしょ?」
「そういうのは、格上げとはいわないんじゃ……」
アルバムを小脇に抱え、元気良く立ち上がるカーネとは対照的に、裕太の内心では言いしれぬ不安が広がる一方であった。




