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第7章 鎮魂-2

 ふと気づくと、カーネにしつこくまとわりついていた他の怨霊たちの気配がない。

 といっても消えてしまったわけでなく、沼の岸辺付近まで後退して輪を描き、心なしか怯えたような様子で彼女ら二人を遠巻きに見守っているようだ。

 同じ霊団を形成しているとはいえ、やはりこの閉鎖世界の「核」であり「女王」でもある麻美の霊は別格、ということらしい。


(アサミを見つけたわ! これからどうすればいいの?)

「テレーズと話してるの? 彼女……ここには来ていないのね」

「あたしの心が読めるの!? なら知ってるでしょ、テレーズはいま現世で――」

「『あれ』はあたしじゃない……あたしの怨念の一部が、霊団から分離して勝手に暴走してるだけ……」


 殺された当時の姿を留める十四歳の少女。だがその表情と声は、まるで老婆のごとく疲れ切っていた。


「……あなた、名前は?」

「カ、カーネよ」

「カーネ……?」


 数秒、麻美はいぶかしげに考え込んでいたが、やがて何か思い当たるフシがあるのか、クスリと笑った。


「なるほど、うまく名付けたものね……あたしの魂をひな形に創り出された、もう一人のあたし、か……」

「な、何がおかしーのよ!?」


 それを聞いたカーネは「麻美の魂を救う」という本来の目的も忘れ、ムキになって怒鳴っていた。


「生まれはどうだろうと――あたしはあたし。ヴェルトロの戦士として、ラミア教官に育てられたカーネよ!」

「気に障ったならごめんなさい。でも、もうすぐそんなこと悩む必要もなくなるから……それでヴェルトロさん、例の『剣』は持ってきてくれたんでしょうね?」

「え? こ、これのコト?」


 カーネは水中で杖代わりに使っていたアリギエーレの刀身を引っ張り出した。


「よかった。なら……早いとこ、その剣であたしを殺して」

「……え?」


 一瞬、カーネは己の耳を疑った。


「聞こえなかったの? 斬ってくれって頼んでるのよ……そのために、この一年あなたは修行してきたんじゃないの?」

(ちょ、ちょっと……どういうことよ、テレーズ? 教官からは、そんなの一言も……)

『申し訳ありません、カーネ』


 それまで沈黙を守ってきたテレーズの意思が、すまなそうに詫びた。


『ラミアは何も知りません。これは冥王陛下とわたし、それに麻美さんの三人だけで交わした約束ですから……』

「ってことはアサミ……あなた、もう正気に戻ってるのね!?」


 カーネは愕然とした。


「なら……わざわざ斬られる必要なんてないじゃない!? 一緒に冥界へ戻ろうよ! 辛い記憶は全部浄化して、それで現世に生まれ変わって一から……」

「あたしひとりなら、それもできたかもしれない……」


 麻美の霊は、哀しげにうつむいた。


「でも『彼ら』が許してくれない……世界中で、一日にどれだけの人があたしと同じようにやり場のない怨みを残して死んでると思う? そんな怨霊たちが毎日のようにこの霊団に加わって、急速に力を強めてる……この三年、懸命に抑えてきたけど……それも、もうすぐ限界。このまま放っておいたら……いずれあたしを含むこの霊団じたいが凶暴な魔獣と化して、現世と冥界の両方を滅ぼすでしょうね」

「それじゃ……!」


 笠倉麻美が死後、冥界で怨霊と化したのは確かだろう。

 だがテレーズが我が身をなげうって彼女の霊を説得し、魔剣アリギエーレの中に封印した後――麻美自身は、むしろ己を核として集まった無数の怨霊たちを抑える側に回っていたのだ。


 まさに「人柱」となって。


「今ならまだ間に合う……あたしの魂が消滅すれば……この霊団も解体し、彼らは無害な浮游霊となって元通り幽明の狭間に散って行くはずよ」

「そんな、そんな……『救う』って……こういうことだったの?」

『わたしからもお願いします、カーネ。……辛いでしょうけど』

「……」


 微かに震える手で、カーネは魔剣を構え直し、その刃を沼からのぞいた麻美の首筋にあてがう。

 が――。


「……イヤよ! お断りだわっ!!」

 そう叫ぶなり、再び剣を下ろした。

『カーネ?』

「何で、罪鬼でも怨霊でもない彼女の魂を斬らなきゃならないの!? あたし、こんなことのためにヴェルトロになったんじゃない!」


 目の前の少女をきっと睨み付け、


「あんたもあんたよ、アサミ。何も悪いことしてないのに、あんな酷い殺され方して……そのうえ無関係な連中の怨念まで背負い込んで、自分ひとり消えようなんて――あんた、本当にそれで満足なの!?」

「もう、いいの。疲れちゃったから……」


 消え入るような声で、麻美がつぶやく。


「あたしを殺した日下と、その手下どもは元通り地獄へ堕ちた……なのに、あたしの中の怨念は衰えるどころか、自分の意志でも抑え切れないほど膨れ上がっていくの。さっきあなたの仲間が止めてくれなかったら、危うくユウ君まで殺しちゃうところだった……」

「……好きだったのね? ユウタのことが」

「……」


 幼さを残す両の頬を微かに赤らめ、少女の霊が恥じらうように睫毛を伏せる。

 カーネはたまらない気持ちになり、泥水をかき分け麻美の元へ駆け寄ると、力一杯彼女の身体を抱き締めていた。


 麻美が首から下を沼に沈めている理由は分かっている――今や、自分と彼女は、同じ記憶を共有する「一心同体」ともいうべき存在なのだから。


「もうこれ以上無理しなくていいよ! 怨みたければ怨めばいい。憎みたければ、好きなだけ憎めばいいじゃない。でも、それは現世の連中じゃなく――全部あたしにぶつけなよ。あたしにとりついていいからさ」

「カーネ、あなた……自分のいってる意味が分かってるの?」

「あはは。だって、もう同じことじゃない。たったいま、あたしはこの沼であんたの最期を体験した……つまりあんたの怨念だってまるごと背負ちゃったんだからさ」

「ひとつだけ、教えて……」

「なに?」

「あたし、なにか間違ってたのかな……ユウ君がいじめられるきっかけを作ったこと……本屋で森川たちの万引きを止めさせようとお節介を焼いたこと……これって、やっぱりあたしの罪なんだと思う?」

「違う! あんたは、全然悪いことなんかしちゃいない!」


 カーネは思わず叫んでいた。


「――それでも、現世には理屈や善悪の通用しない酷いことが、うんざりするほど溢れかえってるよ……だって神様はただ高い所から見守るだけで、なんにもしてくれないもの。だから、最後の帳尻を合わせるために……必要なのよ。地獄が……そして、あたしらみたいな『猟犬』が」


 涙を流しながら自らの鏡像のような麻美の顔に頬を寄せ、痛ましく傷つけられた少女の裸身を労るように抱き上げた。


「これからは、あたしが一緒にいてあげる……あんたの魂が怨念から解放されて自由になれる日まで……つきあったげるわよ。たとえ何百年、何千年かかっても」

「……ありがとう……」


 麻美の口から小さく言葉がもれると共に、、今までトリモチのごとくカーネの下半身にからみついていた沼の泥水が清浄な清水へと変わり、急に身の動きが楽になった。

 同時に、沼から湧き上がっていた魔瘴気が、霧が晴れるように薄れていく。


「ようやく分かったわ……今まであたしを閉じこめていたこの『沼』が何なのか。これは、あたしの怨みでも憎しみでもない……『孤独』だったのね」


 カーネは振り返り、沼の周囲を取り巻く怨霊たちの群を睨みつけた。


「そうと決まれば……問題はこの怨霊どもね。要するに、こいつらが邪魔してあんたをこの沼に縛りつけてるんでしょ?」

「ちょっと待って! 彼らは日下とは違うわ。一人一人は、何の罪もない――」

「分かってるわよ。ラミア教官から、対怨霊戦のレクチャーも受けてるもの。通常レベルの怨霊なら、罪鬼と同じく再殺することでそのまま冥界に送ってやれるはず……後のことは、冥王庁のお役人がいいようにとりはからってくれるわよ」

「でも、これだけの数を相手に……」

「どうなの、テレーズ? いけそう?」

『無謀です! あなたひとりの力では、とても無理ですわ!』


 魔剣を通して、呆れたようなテレーズの声が伝わる。


『でも……麻美さんにも協力してもらって、アリギエーレの力を最大限引き出せれば、あるいは……』

「……ってことだけど。どう? 力を貸してもらえる?」


 クスクス――突然、腕の中の麻美が忍び笑いをもらした。


「何なのよ?」

「ごめんなさい。あなたを見てたら、何だか生きてた頃の自分を思い出しちゃって」

「ふーん? ま、そんなモノかもね――さっき言われたとおり、あたしは『もう一人のあんた』なんだから」

「ウフフ……あたしたち、結構いいコンビになれるかもね」


 ふいに麻美の姿が薄れ、完全に消えたかと思うと、カーネの手にあるアリギエーレの柄にはめこまれた紅玉が再び力強く光り輝いた。


「準備OKってとこね……なら、いくわよ!」


 その頃になって、自分たちの「女王」が連れ去られようとしていることに感づいたのであろう。

 無数の怨霊たちが、人語にならぬ怨嗟の叫びを上げつつ、四方八方から一斉に押し寄せてくる。


「さー、どっからでもかかって来なさいよっ!!」


 冥界の高位神官・テレーズの肉体と笠倉麻美の強大な怨念が一体となって誕生した最凶の魔剣・アリギエーレを振りかざし、カーネもまた負けじと喊声を上げて怨霊たちの大群へと斬りこんで行った。


 罪鬼と違い、怨霊たちの多くは生前の姿をそのまま留めていた。

 彼らとて好きこのんで怨霊になったわけではない。

 かつての麻美がそうだったように、自らの人生を断ち切った運命の不条理を受け入れることが出来ない故の不幸な魂。

 数知れぬ男の、女の、老人の、そして子どもの姿を象った怨霊たちをアリギエーレの斬撃で再殺しながら――。


 いつしかカーネは泣いていた。


 伝わってくるのだ。

 手にした魔剣を通し、彼ら一人一人の恨みの念が。やり場のない哀しみが。

 今にして、ようやく理解できたような気がする。

 ヴェルトロに課せられた使命とは何なのか。

「冥界の猟犬」という生き方を選ぶことが何を意味するのか。


 ふぉぉぉん……ふぉぉぉん……


 際限なく押し寄せる怨霊たちが、洞穴を吹き抜けるような声で哭き叫ぶ。

 カーネの全身にまとわりつき、あるいは爪を立て、あるいは噛み付いてくる。

 そのたびに氷の刃が肉を裂き、骨にまで食い込むような痛み。

 カーネは魔剣を逆手に持ち替え、怨霊たちの手や首を十数体、躊躇いなくまとめて断ち切った。

 顔を歪め、頬を涙で濡らしながら――。

 それでもヴェルトロの少女は、怨霊の大群を相手に魔剣を振るい、闘い続けた。



 凄まじい戦闘から、いったいどれほどの時間が過ぎたのだろうか?

 ふと我に返ると、カーネは魔剣を握りしめたまま、見覚えのある神社の境内に座り込んでいた。

 周囲は未だ夜明け前の深い闇と静寂に包まれている。

 ずいぶん長い間闘い続けていたような気もするが、現世ではほんのわずかな時間しか経過していなかったようだ。

 顔を上げると、すぐ目の前に宙に浮いたテレーズ、そしてその後ろから見守るラミアとオウマの姿があった。


「……終わった……の?」

「お帰りなさい、カーネ……本当に……よくやってくれました」


 硝子のドールアイを心なしか潤ませ、まだ夢から醒めやらぬようにボウっとしているカーネの頭を、小さな母親のようにテレーズが抱き締める。

 傍らに立っていたオウマが、帽子を押さえたまま愉快そうに笑った。


「いやあ、まいりましたねぇ……いくら解放されたアリギエーレの力が強大といっても、あれだけの規模の霊団をたった一人で壊滅させるとは……さすがは隊長の教え子だ」

「魔剣の力だけじゃないわ……この子だから、できたのよ」


 使命を全うした愛弟子の少女を感慨深い面持ちで見やりつつ、ラミアは魔銃カロンのセーフティをロックし、ショルダーホルスターに収めた。


「あ、そうだ……ユウタは!?」


 慌てて立ち上がると、カーネはテレーズを肩に乗せたまま、背後に倒れた少年の元に駆け寄った。


「大丈夫。命に別状ありませんわ……ケガの方は、わたしが治癒させますから」

「……よかった」


 カーネでもあり麻美でもある少女は、安堵の溜息をもらしつつ、気絶した少年の頬を愛しげに撫でた。



 意識が戻ったとき、そこは自室のベッドの上だった。


(……生きてる?)


 裕太は自分の顔に手をやり、呆けたようにつぶやいた。


「目が覚めた? ユウタ」


 驚いて身を起こすと、すぐ傍らに、にっこり笑ってのぞき込む少女の顔があった。


「き、君は……麻美? それともカーネ?」


 ベッドの端に腰掛けた少女が着ているのは、麻美と同じ中学の制服。

 だが、その瞳はエメラルドにも似たグリーン・アイだった。


「うーん、何て説明したらいいかなぁ……? 麻美の記憶を受け継いだカーネ……ちょっと違うかな?」


 小首をかしげつつ考え込む。


「ユウタのおかげでようやくあたしは麻美と融合できたけど、まだ完全に同化したわけじゃないの。結局、記憶だけこの身体に残して、麻美自身の魂はまたアリギエーレの中に戻っていったよ……『ユウ君によろしく』だってさ」

「そうだったのか……」


 裕太は起き上がると、カーネと並んでベッドに座り直した。

 ふと気になって携帯で日付を確認すると、あれからまだ一晩しか経っていない。

 神社で麻美の怨霊に殺されかけたものの、結局ヴェルトロたちに助けられ、そのまま自宅まで送り届けられたらしい。

 そういえば、あのとき殴られたケガもきれいさっぱり消えている。


「こうもいってたよ。『怖い思いをさせてごめん』って……」


 それを聞いたとたん鼻の奥がツンとし、裕太はたまらず泣き始めた。


「何で……何であいつが謝るんだよ? 本当に怖くて痛い目に……辛い思いをしたのはあいつなのに!」


 麻美が死んだということだけは、司朗から聞かされて知っていた。

 だがいつ、どのように死んだのか、遺体はどのように処分されたのか――怖ろしくて、とてもそこまで聞き出す勇気はなかったのだ。


「泣かないで、ユウタ……アサミはユウタのこと、もう許してるよ。あたしには分かる。だって魂は別でも、あたしたち二人の心は繋がってるもん」


 カーネは制服の胸元からペンダントのサイズに縮めたアリギエーレを取り出し、裕太に見せてから愛おしそうに抱き締めた。


「あたし、自分が何のために生まれてきたのか、ようやく分かった……ただ罪鬼と闘う猟犬でも、アサミの身代わりでもなく……彼女の魂が本当に怨みの念から解き放たれる日まで、寂しくないようずっとそばにいてあげること……たとえこの先、どれだけ時間がかかっても」

「強いんだな……カーネは」


 ゆうべ自分が気絶したあと、いったい何があったのかは知らない。

 ただ、初対面のときは勝ち気で世間知らずだったヴェルトロの少女が、たった一晩で自分などより遙かに成長していることだけは、裕太にもおぼろげに感じ取れた。


「でも……たとえ麻美に許してもらったって、ぼくの犯した罪は消えやしない……あのオウマって人に言われたとおり、いつか死んだら地獄へ堕ちるんだ……日下たちみたいに」

「確かに、いま死んじゃったらね……」


 カーネはそっと手を伸ばし、裕太の左手首の傷跡に触れた。

 昔、自ら命を絶とうと何度もカッターで切りつけながら果たせなかった、滑稽な悪あがきの痕跡。


「でも、ユウタにはまだ時間があるじゃない? これからの生き方しだいで、きっと償う方法が見つかるよ。それは、とても辛くて苦しい道かもしれないけど……」

「……」

「だから、これだけは約束して……もう二度と、自分で命を粗末にするようなことだけはしないって」


 少年の左手を抱くように、カーネが身を寄せてきた。


(香水もつけてないのに……いい香りだな。麻美もこんな風だった……)


 そんなことを、ぼんやり思う。


「もし最後まで精一杯生きてくれたら……いつかユウタが冥界で審判を受けるとき、あたしと麻美も必ず立ち会ってあげる。もちろん、弁護側の証人としてだよ?」

「はは……そのときは、よろしく頼むよ」

「それと……ごめんね。罪鬼どもは全部地獄へ送り返したから……やっぱり消さなきゃならないんだ。ユウタの記憶」

「ああ、そうじゃないかと思ってたよ……でなきゃあ、部外者のぼくにここまで秘密は明かせないものな」


 唐突に、カーネが抱きついてきたかと思うと、二人はそのままベッドの上に倒れ込んでいた。


「これでお別れだけど……あたし忘れないよ。ユウタのこと、絶対忘れないからね!」

「また、会えるじゃないか……何十年先になるか分からないけどさ」


 この三年間、自分にとって無縁だったもの。

 心からの安らぎを感じながら、裕太はカーネの背中に腕を回し、彼女の柔らかな唇を受け入れていた。



「裕太ぁ、もう起きてるの? あー、ダメじゃない。布団にも入らないでうたたねしちゃ……風邪ひくわよ?」


 母親の声で目を覚まし、裕太は目を擦りながら起き上がった。

 Tシャツにジーンズという普段着だ。


「うーん……今、何時?」

「もう朝の九時よ。ゆうべはまたゲームで徹夜?」

「そ、そうだったかな? ……急に眠くなって、そのまま寝ちゃったんだと思うけど」

「呑気ねえ。ニュース見なかったの? 昨日の晩、駅の近くにあるショッピングモールが大火事になって、町中大騒ぎだったんだから」

「へえ」

「建物の被害が大きかった割に、ケガ人は不思議なくらい少なかったそうだけど……あら、誰かお友だちが来てたの?」


 そういわれて、初めて気がついた。

 学習机の上に、中学時代の卒業アルバムと、マグカップが二つ置いてある。


「いや、誰も来てないけど……母さんが出したんじゃないの?」

「知らないわよ。……なによ、これ麻美ちゃんのカップじゃない」


 裕太はハッとして机の上を凝視した。

 一方のカップは裕太専用の黒いカップ。

 そしてもう一方は、可愛らしい子犬のキャラクターがプリントされたピンク色。

 母親の言葉通り、子ども時代の麻美が大のお気に入りにしていたカップだった。


 子犬の下には、キャラの名前なのか「CANE」とロゴマークが入っている。


「ちゃんと洗って、台所に片付けておいてね。母さん、これからパートに行ってくるから」

 そういって部屋を出かかった母親が、ドアのところで立ち止まり、ふとつぶやいた。

「そういえば……今日が十七歳のお誕生日なのよね……麻美ちゃんの」

「……」


 パタパタと階段を降りていく足音を聞きながら、裕太は子犬のマグカップを手に取りじっと見つめていた。

 ずっと長い間見ていた悪夢から、いまようやく目が覚めたような気がする。

 自分が何をすべきだったのか。

 そしてこれから、どう生きるべきなのか。


(きっと償う方法が見つかるよ――)


 いつか、誰かにいわれた言葉が胸の裡にリフレインする。


 それが誰かは忘れてしまったが。


 机の上の携帯を取り上げ、所轄の警察署へと電話した。

 それは担当の刑事から「また何か思い出したら、いつでも連絡してください」と教わり、何度もかけようとしながら未だに果たしていない番号でもあった。


「もしもし……磯狩と申します。三年前の笠倉麻美さん失踪の件で、ぜひお話ししたいことが……はい、はい……では、後ほどそちらにうかがいますので」


 携帯を切ったあとで、どっと疲れを覚えて机の上に頭を垂れた。

 実際、自分の偽証が法律でどれほどの罪に問われるかは知らない。

 しかし愛娘を喪ったうえ人生そのものを狂わされた麻美の両親、そして三年前の事件を今更のように蒸し返される関係者全員の怨みを一身に背負うであろうことは、まず間違いないだろう。

 そして自らの両親にまで及ぼす迷惑を思い、裕太の目から涙が溢れ出た。


「ごめん、ごめんよ父さん、母さん……でも麻美、ぼくはもう逃げない。必ず、償ってみせるから……!」


 子犬のカップを両手で握りしめ、少年は声を上げて泣き始めた。

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