第6章 怨霊
いつの間にかカーネの戦闘服は消えていた。
いま彼女がまとっているのは、あの麻美が失踪時に来ていた中学の冬制服である。
バシッ!
鈍い音と共に髪飾りが砕け散り、解けた黒髪がバサっと腰まで降りた。
少女の目が真っ赤に充血したかと思うと、間もなくそのグリーン・アイは全ての闇を凝縮したような黒一色へと変化した。
「か、笠倉……」
司朗がうろたえたように一歩後ずさった。
恐怖に駆られて何かの攻撃を放とうとしたようだが、なんの効果もない。
ヴェルトロの魔力とも罪鬼の魔瘴気とも違う「何か」が、彼から全ての力を奪い去っていたのだ。
「お久しぶりですね……日下先輩」
はっとして顔を上げると、一瞬前まで数メートル先にいた笠倉麻美の顔が、今は息がかかるほどの目の前にあった。
「く、来るなぁーっ!」
必死の形相で生前習い覚えた空手の突きと蹴りを放つが、当っているはずなのに全く手応えがない。
「なにやってるんですかぁ? あたし、もうとっくに死んでるのに……」
からかうように、麻美がクスクス笑った。
「殺したんでしょ? 先輩たちが」
「僕じゃない! じかに殺ったのは、森川たちだ!」
「なら……返してください。先輩が切り取った、あたしの腕と足」
そういって差し出された長袖の制服は肘のあたりでダラリと垂れ下がり、ぐっしょり血に濡れていた。
「ひいぃっ!?」
「あたしを散々弄んだあと、もう身動きできなくなると、どこかへ運んで土の下に埋めましたよね? でも、実をいうと……あたしまだ生きてたんです。あのときは」
「そ、そんな馬鹿な! 確かに脈も止まって……うがっ!」
ふいに司朗は顔を歪め、胸と腹を押さえて地面にくずおれた。
「くっ、苦しい……身体の中で、何かが……」
慌てて学生服のボタンを外し――司朗は悲鳴を上げた。
己の胸板を内側から食い破り、ウジ、ミミズ、シデムシを始め、数知れぬ小さな蟲たちがドッと溢れ出ていたからだ。
「ぎゃあああああああっ!?」
「埋められたあと、息を吹き返したんです。それでまだ意識があるうちに……あたしのカラダ、その子たちに食べられちゃったんですよ? 痛かったです……寒かったです……怖かったです……そのときの気持ち、先輩にも分けてあげますね」
「うげえっ! あぎぃひいいぃいいいぃい!!」
もはや麻美の言葉など耳に入っていなかった。
脊髄から指先に至るまで、全身に張り巡らされた無数の神経。
その一本一本を体内の蟲たちにゆっくり、じわじわと蝕まれていく。
普通の人間ならばとうにショック死しているはずの凄まじい激痛を、既に亡者である司朗は際限なく味わうこととなった。
「ぼ、僕が悪かった! 謝るっ! だ、だから許して――」
顔の中から溢れてくる蛆に半ば塞がれた眼窩から涙を流しつつ、ぶざまな叫びを上げて麻美の足に縋りつく。
しかしその腕は虚しく宙を切り、スカートの下の何もない空間をすりぬけた。
「もう忘れたの? あたしの足も、あんたが切ったんじゃないの……あの鋸で。わざと局所麻酔だけかけて、その光景をあたしに見せつけながら!」
吐き捨てるようにいうと、怨霊はもはや興味をなくしたようにクルリと背を向けた。
滑るように移動して司朗から離れると、すうっと手足が再生して元の五体満足な少女の姿へと戻る。
そのまま、気絶して地面に倒れた裕太の方へとゆっくり歩み寄っていく。
姿こそかつての麻美に戻っていたが――。
その両眼に宿る冥い怨みの炎は、まだいささかも衰えていなかった。
◇
日下司朗は絶叫を絞り出しながら石畳の上を転げ回っていた。
もはや地獄に送り返すまでもない。たったいま、彼はまさに地獄そのものの苦痛にのたうちまわっていたのだから。
全身の痛覚を隈無く蟲たちに責めさいなまれ、それでも死ぬことさえできない己の姿を、どこか高く遠い場所から、まだ幼い頃の自分がニタニタと笑いながら見下ろしている。
そのさなか、視界の隅に見覚えがある黒衣の若者が映った。
すでに正気を保てる状態ではなかったが、わずかに残った理性で、それがヴェルトロの魔導師・オウマであることを思い出した。
「た……助けてっ! 早く再殺してくれぇ! こ、これじゃ地獄の方がまだマシ……うぎゃあああっ!」
「ふふん。このまま放置しとくっていうのも面白そうだけど……任務だからそうもいかないか。……ときに君、さっき悪魔がどうとかいってたけど、ひょっとして『本物』に会ったことがあるの?」
「あ、あるわけ……ないだろ……こ、こんなときに、いったい何を――」
「なんだ、やっぱりただの妄想だったか……折角だから、冥土の土産に会わせてあげよう」
オウマは司朗の頭のそばにしゃがみこみ、帽子の鍔に手を掛けると――。
ちらっと帽子を上げ、「素顔」を見せた。
「……!!」
瞬間、全身の激痛さえ忘れるほどの恐怖に司朗の顔面が硬直し、その頭髪が見る間に老人のごとく白く変色していく。
その後頭部にコツン、と固く冷たい銃口が当てられた。
「いったい現世の何が気にくわなかったのか知らないけど……喜んでいいわよ。もう二度と戻ってくることもないでしょうから」
冷ややかな宣告と共に、ラミアが魔銃のトリガーを引く。
銃声が轟き、頭半分を吹き飛ばされた罪鬼はばったり地面に這いつくばると、全身に湧いた蟲たちと共に消滅した。
本来なら地獄で五百年の刑期を償えば、また現世に生まれ変わることも出来たはずだが。
多数の亡者を扇動、集団脱獄して罪の上に罪を重ねた司郎の魂に、もはや慈悲が与えられることはない。
地獄に堕ちた後も、罪の報いとしてあの蟲たちに貪られ続けることだろう。
未来永劫に――。
「再殺完了……これで、今回逃亡した連中は一匹残らず始末したわ」
「残った問題はただ一つ、『彼女』ですわね……」
ヴェルトロたちは、憂鬱そうに境内の一角を見やった。
◇
「あ……ああ……」
弾き飛ばされたショックでわずかな時間気を失っていた裕太は、覚醒して身を起こそうとした途端、目の前に立った麻美の姿を見て再び尻餅をついた。
「ユウ君……」
その姿はカーネではなく、紛れもなく三年前にいなくなった笠倉麻美本人だ。
ただし見開かれた両眼には漆黒の怨念を湛え、右手にはあの魔剣・アリギエーレを握りしめている。
「……あ、あさみ……」
「あたし……いったよね?『助けて』って……何度も、何度も」
「ご……ごめん」
「あのね、『ごめん』で済んだら……警察も地獄もいらないんだよ?」
クスクス笑い声をあげながら、ゆっくりと大鉈のような魔剣を振り上げる。
ただし、その目は少しも笑っていなかったが。
「謝るよりも、命乞いした方が早いんじゃない? ユウ君は友だちだから……日下みたいには苦しめず、なるべく楽に殺してあげるね」
「……やれよ」
「え?」
「だから……殺してくれよ。いつかは、こんな日が来るんじゃないかと思ってた……君に殺されるなら……本望だよ」
麻美の眉が、ひくひくと痙攣した、
ギリっと折れるほど強く歯を食いしばる気配。
「ふざけるなぁああああああっ!!」
観念して目を閉じる裕太。
しかし覚悟した魔剣の刃の代わりに襲ってきたのは、学生靴による顔面への蹴りだった。
「……!?」
己の鼻骨が折れる鈍い音を聞きながら、わけもわからず後方に倒れる。
麻美は魔剣を地面に突き立てると、仰向けに倒れた少年に飛びかかり、馬乗りになって殴りつけてきた。
「奴らに手足を切られて、さんざん慰みものにされて――それでもあたしは生きたかった! 生きてうちに帰って、もう一度父さんや母さん、友だちに会いたかった――!!」
馬乗りになったまま左手で裕太の胸ぐらをつかみ、右の拳を何度も何度も振り下ろす。
少女の細腕とは思えない凄まじい腕力で。
「『殺してくれ』? よくそんなセリフが吐けるわね! あのとき、あたしがどれだけ生きたかったか……あんたに分かってたまるかぁーっ!」
鼻血が飛び散り、前歯が折れ、しだいに意識が薄れていく。
それでも、裕太は麻美の顔から目をそらすことができなかった。
怨霊と化した少女の目から、とめどもなく流れ落ちる血の涙に。
「麻美は……生きられるよ……」
「なんですって?」
「日下も森川たちも、みんな死んだ……ぼくが最後なんだろう? そうすれば、もう君の怨念は消える……生まれ変わって、もう一度やり直せるんだよ」
「……」
修羅のごとき形相が一転して無表情に変わり、麻美はゆっくり立ち上がった。
「いいわ……そこまでいうなら、お望み通りにしてあげる」
そのまますぐそばの地面に突き立てたアリギエーレの柄に手を掛けたとき、
周囲の森に木霊する一発の銃声。
麻美が振り向くと、そこには空に向けて発砲したラミアが立っていた。
「それだけやれば充分でしょ? もうそのへんで勘弁してあげなさい、カーネ」
「あたし、カーネじゃない……笠倉麻美よ。それに許せるわけないでしょ……こいつは、あたしを裏切った!」
「いいえ、カーネよ。今は魔剣から解放された麻美の怨念に支配されているけど……私にとってはこの一年、自らヴェルトロとして鍛えてきた教え子のカーネだわ」
「あたしをそんな名前で呼ぶなーっ!」
麻美の左腕が日下の肉体を蝕んだのと同じ無数の蟲の塊と化し、そのままラミア目がけて投げつけられる。
が、魔力でも防げないはずの蟲の群は、女隊長の身体に食らいつく寸前に空中でジュっと蒸発した。
「テレーズ……?」
「わたしが分かるということは……まだカーネとしての記憶も残っていますよね?」
一見愛くるしいビスク・ドールのような魔導師は、小さな両腕を一杯に広げ、ラミアをかばうようにして宙に浮いている。
「もうやめてください、麻美さん! 私たち、仲間じゃないですか……それに裕太さんを殺して、それで本当にご自分が救えると思っているのですか?」
「土地神の力を借りたか……そういや、彼女は優秀な巫女でもあるからなぁ」
背後の社をちらっと見やり、オウマがつぶやいた。
「テレーズ……あなたはあたしにずいぶん優しくしてくれたから、できることなら闘いたくないわ。これはあたしと裕太の問題だから……あんたたちヴェルトロは干渉しないで!」
「あなたが裕太さんを憎む気持ちは分かります。でも彼は……こうなることを承知のうえで、あなたを助けるために自らアリギエーレの封印を解いたのですよ? どうか、もういっぺん考え直してくださいませんか?」
「あれだって、要は自分が地獄に堕ちたくないからでしょ? あれしきで罪を償おうなんて……ムシがいいにもほどがあるわよ!」
「そう。確かにあの程度で全ての罪を帳消しにできるほど、地獄の裁きは甘くないわ……もっともそれを決めるのは冥府の裁判官だし、これからの彼の生き方にもよるけどね」
ラミアはテレーズを脇に退かせ、魔銃カロンの銃口を麻美に向けた。
「そして、もし亡者のあなたが現世の生者である裕太を殺すというなら……私は、ヴェルトロの掟に従いあなたを再殺する!」
「できるものならやってごらん! たとえ地獄に堕とされたって……そのときはもう一度『境界』をぶち壊して、全ての罪鬼や怨霊どもを現世へ解き放つまでよ!」
「強がりはおよしなさい。日下に復讐を遂げたいま、あなたの怨念は半分がた消えて、もうそんな力は残ってないはず……いまのあなたは、ただやり場をなくした怨みの残滓をぶつける相手が欲しいだけじゃないの?」
麻美は唇をかみしめ、それでも魔剣の柄をぎゅっと握りしめた。
「そうかもしれない……でも、それのどこが悪いっていうのよ? 裕太はあたしを裏切った……信じてたのに……助けにきてくれたと思ったのに……やっぱり、こいつだけは許せない!」
「そう。あくまで怨みを晴らすというなら……あなた自身は、どう償ってくれるのかしら? テレーズに対して」
「え……?」
「ラミア! それは――」
「いいから、いわせて」
テレーズを手で制すと、それまで殆ど感情を表に出すことのなかったヴェルトロの女はサングラスを外し、怒りも露わに金色の瞳で怨霊を睨みつけた。
「あなたの怨霊が冥界で暴れ回ったとき、一人の女魔導師が己の身を犠牲にして、あなたを封印した……彼女の名はテレーズ。私にとってかけがえのない親友だった――」
「嘘よ、そんな……だって、テレーズはそこに」
「魂だけは、仮の器である人形の中に収まってるけどね。それまで冥王に仕える高位の神官だった彼女は、肉体と魔力の半分をなくしたことでその地位も失い、今は一介のヴェルトロとして私に協力してくれてるわ」
「違う……あたし、そんなつもりじゃ……」
怨みの念に凝り固まっていた少女の霊が、初めて人間らしい狼狽をあらわにした。
「その魔剣アリギエーレは、テレーズの元の肉体をベースにあなたの怨念を封じ込めた武器……もしあくまで裕太を殺すというなら、あなたもテレーズに元通りの身体を返してくれるんでしょうね?」
「そ、そんなこといわれたって……」
「できるわけないわよね? あなたは魔法使いでも何でもないんだから……裕太だって同じよ。人は時に取り返しのつかない過ちを犯す……それでも、彼は無理を承知で償う道を捜してるのよ? 手探りでもがきながら……たぶん、これからも一生かけて」
「うっ……」
麻美は魔剣の柄から手を離し、放心したようにその場に立ちすくんだ。
「……」
少女の瞳に燃えさかっていた怨みの炎が、心なし弱まったかのように見えた。
が、次の瞬間――。
「やっぱりダメ! 許すなんてできっこないわ!!」
ほとんど悲鳴のような絶叫とともに、ひと時抑えられていたどす黒い怨念の波動が、堰を切ったように麻美の全身から放射された。
とっさにテレーズが土地神の結界で防がなければ、ヴェルトロたちはともかく、すぐ近くで失神して倒れている裕太の命はなかっただろう。
「日下たちが死んだくらいで、あたしの怨みは消えやしない……それに裕太だけじゃないわ! あんな鬼畜どもを育てた奴らの親や『扶桑会』のヤクザたち。いい加減な捜査であたしを見殺しにした警察の連中――みんな、みんな許さない……ひとり残らず、あたしが受けた同じ苦痛を味合わせながら呪い殺してやる!」
「これ以上の説得は無駄ね。身も心もすっかり怨念に囚われてる……」
諦めたようにかぶりを振り、魔銃のトリガーにかけた指先に力を込めるラミア。
その銃口の前に、今度は麻美をかばう形でテレーズが立ちふさがった。
「待ってください! 何とかして、もう一度彼女の怨念を魔剣に封じます!」
「正気でいってるの? あなたは、あのときにもう魔力の半分を使い果たしてるのよ!? 今度同じ真似をしてしくじったら、残りの魔力どころか魂まで消滅しかねない――あなたを喪うくらいなら、彼女を魂もろとも抹殺して、その怨念は私が全部背負うわ!」
「ありがとう、ラミア――」
人形の姿を借りた女魔導師は宙に浮いたまま反転し、警戒するように身構える麻美に向かって慎重に間合いを詰めた。
「でも、今度はわたし独りではありませんわ。カーネに……麻美さんの中にいる、カーネの魂に協力してもらいます」
「カーネの……」
一瞬、ラミアはためらうように切れ長の目を伏せ、やがてゆっくりとカロンの銃口を下ろした。
「いいんですか?」
やや距離を置いた場所から見守りながらオウマが尋ねる。
「もし、限界だと判断したら――その時点で撃つわよ」
「お任せします。隊長はラミア、あなたですから」
振り向きもせず、テレーズが答えた。
「でも……できれば信じてやってくださいね。わたしと……それに、あなたが育てたカーネの力を」
テレーズがささやくような小声で呪文を唱えると、地面に突き立ったアリギエーレの柄にはめられた例の紅玉が、不意に強い光を放った。
「――!?」
麻美の怨霊がそちらに気を取られた、その瞬間――テレーズの小さなドールボディがすかさずその懐に飛び込み、驚く少女の胸に両の掌を強く押し当てていた。




