第5章 地獄の門-2
石段の途中でふと足を止め、市街地の方角を見やると、火災の炎が赤々と空を染めている。
同じ市内ではショッピングモールが罪鬼の群に襲われ、テレビで全国中継されるほどの騒ぎになっているというのに、頂上に神社を祀るこの小高い丘は、まるで別世界のように静かだ。
裕太は再び向き直り、闇の中の階段を一歩一歩、踏みしめるように上っていった。
カーネとは階段の登り口から行動を別にしていた。
近辺から自分を見守ってくれているとは思うが、普通の人間である裕太にはその気配すら分からない。
実をいえば、裕太自身もあの手紙がカーネのいうとおり罠だと踏んでいた。
日下司朗が自分の説得などに聞く耳持たないであろうことも。
今の司朗が罪鬼なのか、それともまだ人間なのかは分からない。
確かなのは、以前のように自分を何かの悪巧みに利用するつもりだろうということだ。
(今度は、昔のようにはいきませんよ。日下さん……)
裕太はパーカーのポケットに忍ばせた文房具のカッターを、自分の部屋にあった唯一の「武器」と呼べる貧弱な刃物を固く握りしめた。
むろん、万が一にも勝ち目はないだろう。
生前の日下は優男風の外見にもかかわらず実戦空手の有段者で、街で因縁をつけてきた高校生を瞬時に叩きのめしたとも聞くし、もし人外の怪物である罪鬼に化身しているとすればなおさらだ。
おそらく、傷一つ与えられないうちに、自分は殺されるだろう。
それで充分だ。
これは復讐でも、義憤でもない。
贖罪――三年前、あまりにも惨たらしい最期を遂げた麻美への、せめてもの償いのつもりだった。
(たぶんぼくは死ぬけど……あとは頼んだよ、カーネ)
顔を上げると、闇の中にぼんやりと鳥居のシルエットが浮かび上がっている。
あと十段ほどで境内までたどりつこうというとき、ふいに上の方から聞き覚えのある声が響いてきた。
「憂いの国に行かんとするものは、われをくぐれ」
(これは……!)
裕太がもう一歩石段を昇ったとき、再び声が告げた。
「永劫の呵責に遭わんとするものは、われをくぐれ」
さらに、もう一歩。
「破滅の人に伍せんとするものは、われをくぐれ」
もはや耐えきれず、次の一段を上るとき、裕太は思わず自分から叫んでいた。
「われを過ぎんとするものは……一切の望みを捨てよ!」
「嬉しいねぇ……磯狩君、君も『神曲』を読んでいたのか」
鳥居の向こう側に、詰め襟の学生服を着こんだ長身の影が佇んでいた。
遠方の火災の照り返しを受け、ノンフレームの眼鏡がオレンジ色に輝いている。
「僕もあの本は愛読書でねぇ。もっとも、まさか自分が本物の地獄を見てくることになろうとは思わなかったけど」
「日下さん……やっぱり、あなたは……」
ポケットの中のカッターを握り直し、そのまま石段を駆け上ろうとした矢先、鳥居の手前にさらに四つの人影が立っているのに気づいて立ち止まった。
「よーう、磯狩。久しぶりだなぁ」
「受験に失敗して、今はおうちでヒッキーだって? おまえらしいぜ」
「いっそ、オレたちの仲間になるか~? ケケケケッ」
「どうせ生きてたって、もう先は見えてるからなぁ」
「高田……森川……関根……小森」
あの日、司朗と共に麻美を監禁していた四人組。
その後やはり司朗と一緒に事故死したと聞いていたが、同じく罪鬼になっていたとは、まさに『腐れ縁』としかいいようがない。
これでは司朗に切りつけようにも、手前の四人に取り押さえられてしまう。
(こちらの考えなんか、お見通しってわけか……)
裕太は内心で舌打ちし、ポケットのカッターから手を離した。
「うちに手紙を出しましたね……いまさら、ぼくに何の用です?」
「つれないなあ……せっかくこうして現世に戻ってきたことだし、君にも一言お礼がいいたくてね」
「礼? ……偽証のことですか」
「ちょっと違うな……まずは、街の方を見てみたまえ」
やむなく背後を振り返ると、相変わらずショッピングモールの火災は続いている。
いや、さっきに比べてさらに火勢を増したようだ。
「あれも、日下さんの仕業なんですか? いったい何のために……」
「そんなことより、あれを見て何か思い出さないかい?」
「……?」
いわれてみれば――天高く炎を上げて燃えさかる市街地、正確にはその炎を映して真っ赤に染め上げられた夜空には、どことなく既視感を覚えるものがある。
(あれは、確か……)
「中学二年の秋。放課後の手洗い場……思い出したかい?」
「――あっ!」
裕太の記憶も鮮明に浮き上がった。
中学でいじめを受けていた真っ最中のこと。
放課後の手洗い場で、いじめの件について問いただしてきた麻美と、ついムキになって口論してしまったことを。
その直後、廊下の窓から見上げた夕焼けの空――。
「な、なんでそのことを……?」
「実をいえば、あのとき偶然、柱の影からあの現場を目撃してしまってねえ。いやあ、いじめられっ子の君と、学校でもアイドルなみの人気者だった笠倉さんがあんな関係というのも意外だったけど……それ以上に、僕が感銘を受けたのは笠倉さんが帰ったあとの君の姿さ」
昔を懐かしむような声で、司朗の影がいった。
「世界の全てを憎み、ひたすら破滅を望む少年。その願いを反映して、世の終わりを告げるかのように赤々とした黄昏……実に美しい光景だった。今でも目に焼き付いているよ。そしてあの瞬間から……僕の頭の中にひとつのプロットが組み上がった。あの情景をさらに美しく、ドラマチックな悲劇へと昇華させるためのシナリオがね」
「ま、まさか……」
「今まで隠してすまない。実は笠倉さんの一件、全部僕がお膳立てしたことなんだ。ちょうど森川君は、当時から僕の忠実な『同志』だったことだしね」
「いや~、日下さんから計画を持ちかけられたときは、自分も驚きましたけどね。ともかく笠倉の普段の通学路や行きつけの本屋を調べて、目の前でわざと万引きして……ま、あんなにあっさり食いついてくるとは思わなかったけどな。あの優等生気取りの女」
「後から話を聞かされてびっくりしましたよ~。ったく、森川さんも人が悪いっす」
「うへへ、まあ勘弁しろや。『敵を騙すにはまず味方から』っていうだろが?」
「そんな……そんな……」
司朗の企みとはいえ、全ての元凶は自分にあった。
あのとき、意地を張って麻美にあんな態度さえ取らなければ。
彼女の好意を素直に受け入れてさえいれば――。
全身が脱力し、ふらふらと石段の上にひざまずく。
そんな裕太にとどめを刺すかのように、司朗の声が耳に届いた。
「でも、君だって楽しんだだろ? 何しろお望み通り、世界を壊してあげたんだから……君たち二人の世界を」
「あ……あ……あ……」
この三年間、向精神薬やひきこもり生活で辛うじて保ってきた裕太の正気が、砂の城のごとく崩れ去っていった。
「あああぁああああぁあぁあ――っ!!」
両手で頭を抱え、髪を掻きむしり、声を限りに叫び続ける。
「あ~あ、壊れちゃったか。実のところ、君には少しばかり期待してたんだよ? ある意味で僕と同じ願望を抱えた人間としてね……でも、これじゃああんまりひ弱すぎる。残念ながら、僕らの『同志』に加えるわけにはいかないなぁ」
「じゃあ日下さん、こいつ喰っちまっていいっすよね?」
「ちょっと待った。その前に……」
悲鳴を上げ続ける裕太から視線を上げ、一見何もない夜空に向けて司朗が呼びかけた。
「そろそろ出てきたらどうだい、ヴェルトロのお嬢さん? そこにいるんだろう」
※本編中、ダンテ「神曲」からの引用は平川祐弘氏の翻訳(河出書房新社)を参考とさせて頂きました。




