第5章 地獄の門-1
物心ついたときから、少年はそのアパートで母親と二人暮らしだった。
父親はいない。
その代わり、月に一度か二度、アパートを訪れてくる「お父さん」はいた。
「お父さん」が来るときは、必ず前日に電話で報せが来るらしい。
直接受けずとも、少年には雰囲気で分かるのだ。
普段はシュミーズ一枚でだらしなくソファに寝転がり、お酒ばかり飲んでいる母親が、その時ばかりはよそ行きのドレスに着替え、ドレッサーの前でいそいそと化粧に励むのだから。
そして、なぜか少年までがブランドものの高級子ども服に着替えさせられる。
――別に、これから家族で出かけるわけでもないのに。
「いいかい? あのひとが来たら、きちんとご挨拶するんだよ」
「ねえお母さん……あのおじさん、ほんとにぼくの『お父さん』なの?」
おそるおそる尋ねると、一瞬母親は苦虫を噛み潰したような顔つきになったが、甲斐甲斐しく少年の襟元を直しながら、
「そんなこと、おまえが気にしなくたっていいんだよ。……とにかく『お父さん』って呼んどきゃ、あのひとは喜ぶんだから」
「うん……」
やがてドアのチャイムがなり、その男は現れる。
「よーう、ご無沙汰。元気にしとったかぁ?」
白のスーツに派手な柄のシャツ、男なのになぜか金のネックレスやらブレスレットやらをジャラジャラ身につけている。
頭を坊主のように剃り上げ、まるでTVアニメの殺し屋を思わせるいかつい風貌。
服装や顔だけではない。
少年は「その男」から近所で見かける他の大人たちとは明らかに異なる、口ではうまく言い表せぬ「近寄りがたい雰囲気」を感じ取っていた。
もっとも、母親はそんなこと気にもかけていなかったようだが。
「あ~らホントにお久しぶり。っていうか、近頃ちょっと冷たいんじゃなぁい?」
ちょっと拗ねたような、それでいて甘えたような素振りで、玄関先の男にしなだれかかっていく。
「媚態」という言葉を知ったのは、その後少年がもっと成長してからのことだ。
「すまん、すまん。バブルが弾けてからこっち、俺らのシノギも何かとしんどくってのう」
「大丈夫なの? 駅前にマンション買ってくれる約束、忘れちゃやーよ。子どもだってこれから大きくなるのに、いつまでもこんな安っぽいアパート暮らしはごめんだからね」
「安心せえや。地価が下がった分、駅前でも余った新築の物件がゴロゴロしとるしな。ま、そっちの方はいずれ適当なのを見繕って……」
そういいながら靴を脱ぎ、ずかずか上がり込んできた男の視線が少年の方に向けられた。
「おう、司朗。ちょっと見ねえうちに大きくなったなぁ。ちゃんといい子にしとるかあ?」
小指の先が欠けた大きな右手が、少年の小さな頭をゴシゴシ撫でる。
「ほれ、この前欲しがってたゲーム機。最新型だぞ」
大型家電店の袋に入った大きな箱が、ドンと床に置かれる。
怖そうな外見にもかかわらず、男は母親と少年に優しかった。
玩具だろうがゲームソフトだろうが、どんな高価な品でもおねだりすれば次に来たとき必ずお土産に買ってきてくれる。
ただしテレビのCMに出てくる父親たちのように、一緒に遊んでくれたことは一度もなかったが。
「あ、ありがと……お……お父さん」
「ワハハ。その代わりしっかり勉強せーよ。おまえには、俺なんぞと違ってカタギの世界でドーンと出世してもらわんとなあ」
もちろん当時の司朗に「カタギ」という言葉の意味など分からないが、その口ぶりから察するに男自身は「カタギ」ではないらしい。
母親から聞いた話では、このアパートの家賃も自分たちの生活費も、全てその男が面倒を見てくれているのだという。
その意味では、彼が自分の「保護者」であり、同時に「父親」と見なしても構わないのだろう。
それでも――なぜか男のことを「お父さん」と呼ぶとき、喉元を異物が通り過ぎるような違和感に、どうしても慣れることができなかった。
「お昼、もうできてるわよ。それともお風呂から入る?」
「ちぃと汗もかいたし、風呂から先にするかのう……もちろん一緒にな。ぐふふ」
それきり司朗の存在など忘れたかのように、男は嫌らしく相好を崩して母親の肩を抱く。
目の前で幼い司朗が見ていることなどお構いなしだ。
「アァン、もうせっかちなんだから……せっかくのお化粧が落ちちゃうじゃない」
「かまわん、かまわん。今日は久しぶりに夜まで時間がとれてな、楽しませてもらうぜ」
「うふふ。そういうことなら……ゆっくりしてってよ。ここはあんたの『家』なんだからさ」
媚びた微笑を浮かべて男の上着を脱がせてやりつつ、母親が一瞬意味ありげな視線を司朗に送った。
分かっている。いつものことだ。
「家族ごっこ」の時間はもうおしまい。
つまりこれから先の半日、自分の存在はこの家にとって「邪魔者」となる。
「……いい子だから、夜まで外で遊んどいで。お小遣い、あげるから」
男を先にバスルームに行かせ、母親はすばやく財布から出した五千円札を司朗の手に握らせる。どう考えても六つの子どもに持たせる金額ではない。
が、それももう慣れっこなので、司朗は無言でうなずき、渡された紙幣を折りたたんで半ズボンのポケットに突っ込んだ。
いくら小遣いを渡されて「外で遊べ」といわれても、駅前商店街から遠く離れたこのあたりにお金を使って遊ぶ場所などない。
小さな公園くらいならあるが、元々人見知りの激しい性格である司朗にとって、同年配の子どもたちと一緒になって遊ぶのは苦手だった。
一度だけ勇気を出して行ってみたことはある。
だがそのとき公園にいた母親たちは、司朗の顔を見るなり怯えたように我が子の手を引き、潮が引くように園内から立ち去ってしまったのだ。
自分が「お父さん」と呼んでいるあの男が暴力団の組長、そして母親はその愛人だなどということは、当時の司朗には知るよしもない。
(僕はいるだけでみんなから邪魔にされる、特別な子どもなんだ……)
ただその事実だけが、重い鉄塊のごとく幼い心の奥深くに横たわっていた。
だからその日の遊び場として選んだのは、アパートから歩いて十五分ほどにある小高い丘の、さらにその頂上にある名も知れぬ小さな神社。
夏も近い季節だった。
住宅地に残された数少ない自然の宝庫とあって、神社を取り巻く鎮守の森にはセミ、蝶、カブトムシから岩の下に蠢くミミズやシデムシ、地虫の類まで様々な虫たちが生きている。
家から持参した補虫網やスコップでそれらの虫をなるべく多く捕らえ、境内へと集める。
そしてそいつらを一匹ずつ、様々な方法で殺していくのが、司朗が外で遊ぶときの殆ど唯一の楽しみだった。
大きな昆虫なら足で踏みつけ、もがき苦しむ感覚をズックごしに楽しみながらゆっくりと踏みつぶしていく。
小さな地虫なら、やはり持参した虫眼鏡で太陽光を集中させ、じりじりと焼き殺していく。
ことにお気に入りだったのは、羽根や節足をもいで石畳に転がし、ただ生きているだけの塊となったそいつが戸惑うように地面を転げ回る様を見物することだった。
幼い子どもが虫や小動物を虐待するのはさほど珍しいことではない。
昔の子どもなどは蛙の肛門に爆竹を突っ込み破裂させるなど、もっと残酷な悪戯も平気でやっていたものだ。
それ自体は特に異常なことではなく、むしろ生き物を殺すことで逆説的に「命の重さ」を身を以て学ぶという、いわばある種の通過儀礼といっても良いだろう。
が、それにしても――。
六歳の司朗が虫を殺すことに注ぐ情熱は、あまりに常軌を逸していた。
なぜなら彼は他の子どもたちのように「殺される虫の反応」を面白がっているわけでなく、彼らの生命与奪の権利を握った「己の全能感」に酔いしれていたのだから。
そこでは彼だけが絶対の支配者であり、それ以外の生き物はただ彼の気まぐれで運命を決められる哀れな存在に過ぎなかった。
(人間も……こんな風に僕の自由にできたら、きっと楽しいだろうなぁ)
そこで石段の下から昇ってくる他人の足音を耳にし、慌てて手近の社の裏へと身を隠す。
「支配者」などといっても所詮は虫けら相手の話。
そのときの司朗は、まだ大人はもちろん同い年の子どもと口を利くのさえ怖れるほど内気で臆病な少年にすぎなかった。
社の陰からそっと顔を出すと、自分よりやや年下の男の子と女の子が二人、鳥居のすぐ脇にそびえ立つ大樹の下で何か話し合っている。
「見てみて、ユウくーん! あそこに、でっかいクワガタがいるよーっ!」
「ホントだ……おうちへもどって、虫取りアミ取ってこようか?」
「いらないわよ、そんなの。よーし、あたしがとってやる!」
「えーっ? あぶないよぉ、アサミ……」
(とれるもんか……)
司朗は自分の手元にある補虫網をちらりと見やった。
(出て行ってこいつを貸してやろうか? うまくいけば、それであの二人と友だちになれるかもしれない――)
そんな考えが頭をかすめる。
特にユウ君と呼ばれた男の子の方は自分と同じく気弱そうで、あの子となら何となくウマが合いそうな気がする。
だが司朗が逡巡しているわずかな間、いかにもおてんばそうな女の子の方がすかさず巨木に飛びついていた。
麦わら帽子に赤いワンピースを着た小さな身体が、小猿のような素早さでするするとよじ登っていく。
(まさか……)
「とったーっ!」
元気よく叫ぶなり、幼女は戦利品のクワガタを片手に掲げたまま、器用に大樹から滑り降りた。
「すっごーい……」
「こんなの楽勝よぉ。それよか、早く帰ってこの子のおうちを作ってあげましょ!」
「そうだね。お父さんに飼い方を教えてもらおうよ」
それで用は済んだ、とばかり二人は石段を駆け下りていった。
(……)
司朗は社の陰から出て、石段の上から遙か彼方へと去っていく二つの小さな人影をじっと見つめていた。
二人とも、自分の存在など気づきもしなかったろう。
無言で境内へと引き返し、生き残りの虫たちをヒステリックに踏み殺す。
それ以来、少年は二度とその神社に足を運ぶことはなかった。
◇
「あの、日下さん……?」
物思いを破ったのは、森川の声だった。
「……」
司朗は答えない。
いちおう同じ罪鬼としての「配下」といえ、今は森川の声など聞いても鬱陶しいばかりだった。
「えーと、その……待ち伏せするのはいいとして、ホントにここで良かったんですかぁ? 神社とか寺とかで闘うのは、俺たち罪鬼にとって不利なんじゃ……」
「うるさい奴だな。僕がここだと決めたから、ここなんだ。それとも何か? おまえ、僕の力が信用できないっていうのかい?」
「いえ、滅相もないっす……でも、肝心の磯狩が来てくれますかねえ? あの臆病者の……」
「来るさ。磯狩ひとりならともかく、今は心強い『用心棒』がついてるからな。それがこちらのつけ目だとも知らずに……」
「なるほど……いわれてみりゃ、そうっすね」
「君らだってせっかく現世に戻ってきたんだ。もう一度遊んでやりたいだろ? 彼女と」
返答の代わりに、闇の中で嗜虐と淫猥さを含んだ四つの笑い声が響いた。




