第9話 血と鏡
鑑識が作業を終え、部屋に「KEEP OUT」のテープが張り巡らされてようやくこの「騒然」は一段落した。しかし渦中の和彦の心が本当の意味で一段落することはなかった。
それでもいつも通り勝手に現場を歩き回ってみる。
「あの・・・岩城様」
振り向くと、倉屋宗太郎と小杉が並んで立っていた。倉屋小次郎は凄惨な現場に腰を抜かしたのか、さっさとどこかへ退散していってしまった。
「この度は本当に申し訳ありません」
2人して改めて頭を下げる。話しているのはもちろん宗太郎の方だ。小杉はまだ涙が乾いていない。
和彦は今度は控えめなKAZUスマイルを作って肩をすくめた。
「こちらのホテルの手落ちだとは思ってませんから。むしろ犯人は、結婚に嫉妬した僕のファンかもしれません。もしそうなら、逆に僕がこちらにご迷惑をかけたことになります。こちらこそすみませんでした」
「とんでもありません。仮に岩城様のファンの方のした事だとしても、我々にはそれを防ぐ義務があります。このホテル内で起きた事件・事故の責任は全て我々にあります」
ここまではっきりと言い切る責任者も珍しい。和彦は、そして部屋を観察するためというより勝手に動き回る和彦を監視するために残った武上は、宗太郎に感心した。
「いえ、我々ではありません。私の責任です」
小杉がようやく喉を詰まらせながら口を開いた。その目は真っ直ぐ和彦を見ている。
「一生に一度のおめでたい事のお手伝いをさせて頂いているウエディングプランナーの私が、お式を台無しにしてしまうようなことをしてしまい、申し訳ありません」
もう一度頭を下げた小杉の背中に宗太郎が手を置く。
「岩城様、小杉の責任ではありません。ここの責任者は私ですから私の責任です。申し訳ありません」
「宗太郎さん・・・」
小杉が涙目で宗太郎を見上げた。
そう言や小杉は宗太郎に惚れてるんだったな。
和彦は咳払いをした。
「もう『申し訳ありません』は結構ですから。それより、もう少しホテルの中や外を見て回ってもいいですか?」
「もちろんです。お気がお済みになるまでどこを見て頂いても結構です」
「じゃあ遠慮なく」
和彦は宗太郎と小杉が部屋を出て行くのを見送ると、まだ血で湿ったフィッティングルームにかがみこんだ。寿々菜もその隣に尻を浮かせて座る。
武上も含めて3人とも靴を履いていて、その上からビニール製の靴カバーをつけているが、その全てを通り抜けて血の生暖かさが伝わってくるような気がした。
「さっきのお2人、良い方達ですね」
「だろ?だからこのホテルで結婚式をしようと思ったんだ・・・ってあいつが決めたんだけど」
「そうなんですか・・・」
寿々菜は胸苦しさを覚えた。
和彦と栄子は2人でどんな時間を重ねてきたのだろう。そしてこれから先、再び2人の時間が重なることはあるのだろうか。
「和彦さ、」
「さっき寿々菜が違和感を感じるって言ってたのは、この鏡だよな?」
和彦が寿々菜の言葉を遮って顔を上げ、鏡を見た。
そこには血がべっとりとついたままになっている。
「あ、はい」
「本当ですか、寿々菜さん?」
これには武上も食いついた。寿々菜の「違和感」は証拠にはならないが、いつも事件解決の糸口に繋がるのだ。
「はい。でも、やっぱりどうして違和感があるのかは分からないんですけど」
「充分ですよ」
武上も鏡に近づいた。大きいということと、血が流れるように付いているということ以外、特に変わったところはないように思える。
寿々菜は栄子になったつもりで鏡の前に立った。
「栄子さんはここでウエディングドレスを試着してたんですよね?」
「ああ。でも小杉の話によると、フィッティングルームに持ち込んだドレスはそこの壁に掛けてあるやつだけらしいから、まだ試着はしてなかったんだろうな。もしくは、試着を終えた後だったか」
「試着はまだだったと思います」
「どうして?」
「え、だってこんな綺麗なドレス、一回着たらなかなか脱ぎたくなくなっちゃうじゃないですか。きっと何分間も着たまま鏡で自分の姿を見てると思います。小杉さんが15分ほどで戻ってきたということを考えると、着る前だったんじゃないでしょうか」
「ふーん。そんなもんかね」
仕事で常に「早着替え」を強いられている和彦にその気持ちは分からない。ついでに普通の男である武上にも分からないのが、「寿々菜さんがそう言うのなら、きっとそうなのだろう」となんとも刑事らしくないことを考えた。
「でも確かに、1人でこのドレスを試着しようと思ったら着て脱ぐだけでも時間がかかるでしょうから、寿々菜さんの言う通り着る前だったんでしょうね」
「わかんねーぞ。ドレス姿のところを刺されたのかもしれない」
「それで犯人がドレスを脱がせて壁に掛けたのか?そんなことはしないだろ。もし栄子さんを連れ去るのにドレスが邪魔なら脱がせて床に放っておくはずだ。それにドレスは血で汚れてるが、破れてはいない」
武上は言ってしまってから和彦の様子が気になったが、和彦は無理をしているのか表情を動かさない。
「つーことは、小杉が出て行ってすぐに犯人はここに入ってきたってことか」
「・・・そういうことになるだろうな」
寿々菜は2人のやり取りを聞いた後、気を取り直して再び想像を始めた。
「ドレスに着替えようと思ってここに立って鏡を見る・・・栄子さんは犯人を見たんでしょうか?」
「フィッティングルームの扉は鏡とは反対側にあるから、犯人が入ってきた時に鏡に映った犯人を見たかもしれないな」
「着替えようとしたら扉が開いて、誰かが入ってきたのが鏡に映る・・・」
寿々菜はパッと後ろを振り返った。
「当然、栄子さんはこうやって振り返りますよね」
「だろうな」
「いや、振り返るとは限りませんよ」
武上が補足する。
「フィッティングルームに入ってきても不思議じゃない人物だとしたら、栄子さんは鏡の方を向いたままかもしれません」
「振り返ったとしたら胸を、振り返らなかったとしたら背中を刺した、ってことだな」
「まあ・・・そう、かもな」
武上は言葉を濁したが、和彦は何か思うところがあるらしく、寿々菜の横に立った。
「どちらにしろ、犯人は扉を開いてフィッティングルームに入った。鏡は扉の真向かいにある」
「・・・そうか。そして栄子さんは犯人と鏡の間に立っていた。犯人が栄子さんを刺しても、鏡に血は付かないはずだ」
「え、でも」
寿々菜は鏡を指差した。
「血が飛び散って付くことはあるんじゃないですか?」
「鏡に付いてる血の量を見てみろ。飛び散ったなんてレベルじゃないだろ」
「じゃあ・・・刺された栄子さんがよろけて鏡にぶつかって、その時血が付いたとか・・・」
「それなら、鏡に付いた血の跡は擦れたようになっているはずです。当然その後栄子さんは床に崩れたでしょうからね。だけどこの血の跡はどちらでもない。まるで・・・」
「まるで?」
武上は一呼吸置いて寿々菜と和彦を見て言った。
「まるで、バケツで血をかけたみたいだ」
寿々菜は背中に寒いものが走ったような気がして、身震いをした。




