最終話 『さようなら、私の小さな騎士様』
国王アルトリウスの死が伝わる前日の夜、エレミアはトロイア子爵邸の一室で、机に向かっていた。決裁しなければならない書類だけでなく、手紙の返信や私的なメモもあり、今書いているものはまさに、きわめて私的なものだ。上質な便箋に流麗な筆記体で書き連ねられた文章は、エレミアの今の気持ちをすっかり納めている。
最後の一文を書いた瞬間、部屋の扉がノックされた。
エレミアは深夜の来訪者に驚くこともなく、すんなりと許しを出す。
「どうぞ」
エレミアはまだ寝間着に着替えておらず、赤銅色の長くなった髪も緩い三つ編みにして結んである。持っていた羽ペンをスタンドに立て、暖かな光を放つランプを手に、来訪者のもとへ向かう。
そして——現れたのは、旅装姿のユリウスだった。灰色がかった金髪は伸び、青灰色の目は成長に従って大人びていた。何よりも、目線の高さが以前と違う。エレミアよりわずかに低い程度まで背丈が伸び、エレミアを少しだけ見上げるだけでいいくらいになっている。
ユリウスの腰にあった長剣がないことには、エレミアもこの時点では気付いていなかった。
室内に足を踏み入れ、ユリウスは扉を静かに閉めた。もう夜も更けた、廊下で声がしては誰かが起きてしまう。
エレミアは、変わらず気遣いのできる少年を微笑ましく見ていた。
「ユリウス。久しぶりね」
「ええ、お久しぶりです。さっそくですが」
「待ってちょうだい。手紙の件よりも、先に話したいことがあるの」
そう言って、エレミアは一人がけのソファへ座るよう、ユリウスへ促す。自分は机の横にある椅子を引っ張ってきて、ユリウスの顔がしっかり見えるほうへ向けて、それから深く腰を下ろした。
「長旅で疲れたでしょう。それに、背も少し高くなったわ。私なんてすぐに追い抜かれるでしょうね」
ユリウスは嬉しそうに、はにかむ。エレミアに会えて嬉しいのだという気持ちが、ストレートに伝わってきた。
それだけに、エレミアはどうしても、言わなくてはならないことがある。
ランプを手にしたまま、エレミアはキッパリと、己の運命の方向を告げた。
「ねえ、ユリウス。私は死ぬべきよ」
「いいえ。死なせません」
「どうして?」
「あなたを殺そうとする人間を、先に殺してきましたから」
有無を言わせまいと、ユリウスは先手を取る。
「僕は、国王殺しについてのちに公表するつもりです。そうして、僕が王位を継承しないことが確定したら、あなたと結婚します。『約束』どおり、これからも騎士としてずっとあなたを守るのです」
ユリウスは、堂々と、己が持つであろう権力を捨てる算段を付けて、エレミアを追い詰めにかかった。王位に就けないならば人目を気にすることなく、エレミアと一緒になれる……婚約から随分と早く話が飛躍したものだ、とエレミアは思わず笑ってしまった。
「ここまで本当に、大変だったわね。あなたの行動力にはいつも驚かされるわ」
「そんなことはありません。僕が今持っているものは、旧王族の権力でも権威でもなく、この身体だけです。生まれつき王子であった父であれば違いますが、僕は生まれはともかく他国の平民として育ちましたから」
「それでも、まだ十二歳にもなっていないでしょう?」
「フィンダリアでは、もう成人扱いです。一人前に剣を振れるようになれば」
「そうなのね」
「結婚だってできます。あなたを養うために、働くことだって」
ユリウスは必死だった。もう結婚できる大人なのだと精一杯強調して、ついにはソファから立ち上がって、エレミアの前にやってくる。
床に片膝を突き、ユリウスはエレミアの右手をそろりと取った。エレミアを見上げ、真っ直ぐに要求を伝える。
「僕と結婚してください、エレミア。あなたを守りたいのです」
ランプの火が、両者の瞳に映っていた。
ユリウスは夜目が利く。エレミアの顔はしっかりと見えている、ただ彼女は表情ひとつ変えない。
そのまま、エレミアは目を伏せた。
「ごめんなさい。私は、あなたのことが好きじゃないの」
少しの間、二人はじっと動かなかった。
ユリウスは思案していた。何を言うべきか、どう説得すべきか、ただそれだけを考え、ようやく口を開きかけた。
「なら——」
「私はね、ずっと死にたかった。カリシア子爵夫人になってからは死んでしまえば楽になると思ってばかり、だからマークが何をしようと見逃していた。いつか殺されるかもしれないと思っていても、ひどいことばかりされても、私にはどうすることもできない。逃げ出すことだってできない、かと言って自ら命を絶つこともできなかった」
エレミアの声が、いつの間にか震えていた。死を語る恐怖によるものか、当時のつらい記憶を思い出したせいか、ユリウスには判断がつかない。
「あなたの手を取って逃げて、マークやテニアたちが殺されて、今はあちこちで『赤銅色の髪の貴婦人』だなんて持て囃されて、それで、私はどうなるのかしら。私は誰かと添い遂げたら、一生死にたいのに死ねない気持ちを引きずっていかなくてはならなくなる」
だから、とエレミアは言いかけた。
その言葉を、ユリウスが引き継ぐ。
「だから、死ぬのですか?」
「悪いかしら」
「悪いです、もちろん」
ユリウスは即座に断言した。語勢を強め、エレミアには反論の余地がない事柄を選んで、突きつける。
「あなたは、この国の束ね方を変えると言っていた。その素案もできていて、これをあなたの名で広めないおつもりですか? あなたが考えたことだ、あなたが責任をもってやるべきだ。改革を、その旗頭になるべきだ! あなたがどんな気持ちであれ、一度やると決めたことは、ちゃんとやってください!」
さすがにその話題は予想していなかったのか、エレミアは目をぱちくりさせて、動揺を隠せない。
「……それは、まあ、確かに、そうだと思うわ」
「ええ、そうです」
「じゃあ」
「僕はあなたを見張ります。勝手に死なないように、結婚して指輪を嵌めて、僕から離れないように縛りつけます」
ユリウスは、捕まえた右手をしっかりと握り、離さない。
好きではないから、と言われたなら、結婚すべき理由を他に——死なないように見張るためだ、と理由づけたユリウスの強引さに、騎士らしさもロマンスも何もない。
ユリウスは分かっていた、エレミアは嘘を吐いているのだ。ユリウスを遠ざけるために、今までの自分をいくらでも偽って、感情さえも偽った。その証拠に、今のエレミアは目が泳いでいる。
あとひと押しを、とユリウスは逸る気持ちを抑えて、言葉を足していく。
「あなたが死ぬときは、僕も一緒に死にますから。一人で死ぬより、二人で死んだほうが寂しくないでしょう? これは『約束』です。あなたが僕の面倒を見ると父に約束したこと、僕が父の代わりにあなたを助け、守るのだと約束したことと同じです。絶対に、あの大叔父のように、独り寂しく死ぬのは認めませんから」
真剣そのもののユリウスだったが、我ながらおかしなことを言っている、という自覚はあった。
だが、そもそも結婚は死が二人を分かつまでのことだ。その先が必要ないなら、一緒に死ねばいい。まだ青さを存分に残した少年らしい、一途で熱烈な思いから来るそれは、エレミアにとってもおかしかったようだ。
エレミアは、ランプを床に置いた。片膝を突いたままのユリウスへと、背を丸めて顔を近づける。
ゆっくりと、空いている左手がユリウスの背へ回された。
ユリウスは許しを得たと思い、手を離して、椅子に座ったままのエレミアを抱きしめる。耳元でエレミアの呆れた声を聞きながら、腕にしっかり力を込める。
「ひょっとしてあなた、束縛したいタイプとか、執着の強い人、なのかしら?」
「今頃お気付きですか?」
「全然気付かなかったわ」
「騎士なんてそんなものです。叶わぬ想いを抱えながら、死ぬまで戦うのですから」
エレミアのしょうがないとばかりの柔らかな笑いが、耳に心地いい。
ふと、ユリウスは机の上の紙に書かれている文字が目に入った。先ほどまで書いていたのだろう、まだインクが乾いていない。
あとで回収しよう。そう思いながら、体を起こしたユリウスはエレミアへ答えを求める。
「さて、エレミア。僕はこれほどにあなたを欲している、プロポーズまでした。あなたは、どういう返事を聞かせてくれますか?」
再び見つめたエレミアの赤茶色の瞳は、妖艶さを醸す潤いを湛え、ユリウスへと向けられている。
二人は遅くまで語り合い、今までとは異なる関係を受け入れたのだった。
☆
時代も場所も大きく変わり、とある新聞社の待合室。
打ち合わせもできるよう、一人がけのソファが二つと丸テーブルがひとつ、というセットがいくつも並ぶ待合室には、ボサボサの赤毛に丸眼鏡の中年男性がポツンと座っていた。丸テーブルの上には原稿と打ち合わせ用の資料、それにスマホが載っている。
そこへ、まるまる太った青年がやってきた。スーツジャケットはとっくにボタンが閉まらず、シャツがはちきれんばかりの腹はさておき、無駄に顔のパーツが整っているため、各所で『色んな意味で残念なイケメン』とあだ名されていることを彼は知らない。
太った青年は赤毛の男性の前のソファにどかりと座り、こう言った。
「よう、気鋭の歴史学者様。『赤銅色の髪の貴婦人』エレミア、ものすごい反響だな。あんたの書いた本にしちゃあだいぶセンセーショナルで驚いたが、もちろん事実なんだろう?」
歴史学者、と呼ばれた赤毛丸眼鏡の中年男性は、生真面目に答える。自分の編集担当が出版後も執筆内容を事実かどうか疑っている、という部分は気にならなかったようだ。
「ユリウス・ヤルンヴィト。ベルルーニ共和国初代東方総督、その影に隠れた『赤銅色の髪の貴婦人』エレミア。新たな物的証拠が見つかり、これまで伝説上の人物としてしか語られなかった彼女が、実在の人物だと確定した。東方地域は特に尚武の気風が強いところだから、千年前の女性の名前が残るだけでもすごいことだよ。これで、ベルルーニ王国から共和国への移行期、彼女の署名入り書状の多くがが本物だったってことまで判明した」
淡々と語る歴史学者の話を、編集担当はあっさり遮る。
「あー、そうじゃない。歴史が書き変わる瞬間に立ち会えるのはみんな嬉しいもんだ、巷では首相から小学生までその話題で持ちきりだぞ」
「変わるわけじゃない。歴史的事象の順序は何も変わらないし、ただ彼女が本当に移行期に活躍した人物だってことが明らかになっただけで」
「いいから、うるさいな! で、次の研究は何だ? 引き続き彼女のことか?」
大袈裟な手振りでさらに歴史学者の話を遮り、編集担当はさっそく次回作の構想を聞きたいようだ。
歴史学者は少し考えたのち、編集担当の意向を汲んでこれからの予定を答えた。
「ユリウスと彼女の子孫、ヤルンヴィト卿に会いに行く。若いころ、彼女の残した遺書がトロイアの文書館で見つかったからね」
「ほう、それはまた」
「そのとき、彼女はユリウス・ヤルンヴィトと結婚するつもりはなかったようだ。だから遺書を残し、死のうとした。だけど」
歴史学者はソファの足元に置いていたリュックから、クリアファイルに挟まれた一枚の便箋のコピーを取り出し、丸テーブルの上へ置いた。編集担当は前のめりになって、便箋に書かれた文章を素早く読み、ついに最後の一文で「おお!」と感嘆の声を上げた。
「締めの言葉が『さようなら、私の小さな騎士様』、か! まったく、ロマンス小説真っ青な恋愛模様だな。よし、これでもう一冊書けるな! 今年中に頼むぞ!」
「先に取材費を頼みたいんだが」
歴史学者と編集担当は、騒ぎ放題に騒いで、『赤銅色の髪の貴婦人』エレミアを題材とした本でまたしても世を騒がせてやろうと計画を練っていた。
そのことを、もし千年前のエレミアが知れば——赤面して、処分しておけばよかった、と嘆くことだろうが、同時にこうも思ったことだろう。
「『さようなら、私の小さな騎士様』……そんな言葉を、一度も使わずに済んだことは、きっと幸運だったのでしょうね」
(了)
本作はこれでおしまいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
たくさん応援いただき本当に嬉しかったです。




