第十五話 争いの渦中へ
季節は変わり、晩夏。
すでに涼やかな風が巡り、農耕牧畜に勤しむ民は忙しなく働く時期だ。
例年と違うのは、都市から食糧の買い付けにやってくる商人たちが、なぜか揃って高値をつけることだ。しかも、できるだけ多く買いたい、と争奪戦にまで発展している。
食糧買い占めが起こるということは、商人は何かしらの異変を感じ取り、供給を絶やさず儲けようとしているわけだ。あたかも、大量の食糧が必要とされる事態を想定して、である。
ほとんどの場合、それは——大規模な軍事行動を予期して、そうなるものだ。
「近く、戦争が起きるらしい」との噂が風に乗り、ベルルーニ王国各地に伝わるのは早い。その知らせを聞いた貴族や資産家たちは自分たちの安全と食糧を確保できるよう金に糸目をつけず動くし、平民は食糧が不足するのではないかと不安に陥る。必死に治安の維持を図っても、誰かがこう言うだろう。
「商人どもが買い占めて、食い物の値段を釣り上げている! よそに売って儲けようって魂胆だ、貧乏な俺たちには飢え死ねと言っているようなもんだ! そうはさせるか! あの悪徳商人どもから食い物を奪え!」
果たして、それは誰が言い出したのか、そんなことを気に留める人間はいない。とにかく不安なのだ。食糧の不足という情報だけで、人間は起こりうる死の恐怖を容易に覚えてしまう。
一度広がってしまった噂は、まさしく燎原の火のごとく、際限なく増殖し、尾ひれを付けていく。恐怖は突拍子もない憶測を生み、より新鮮な空気を吹き込んでいくのだ。その先は、もはや誰も制御できない空想の巨人のような化け物が、人々や社会、果ては国まで急速に蝕んでいく。
王都北、グレンフツ伯爵領。緑豊かな穀倉地帯を持つ、別名『王都の食糧庫』と呼ばれる領地だ。
本来ならばグレンフツ伯爵領は穀物の収穫の最盛期を迎え、一年の大部分の収入と食糧のためにと農民たちが地平線まで続く畑で精を出している頃合いだ。道行く荷馬車には大量の小麦袋が積まれ、隊列を組んでひっきりなしに往復している——そのはずだった。
荷馬車の代わりに、農民たちが大挙して行進する。手に馴染んだ農具を手に、もっとも近い都市へと向かっていく。何も、誰もが汚れた服装をしているわけでもなく、痩せこけた顔をしているわけでもない。ただ、その表情には怒りと憎悪が溢れていた。
その行く手を、グレンフツ伯爵領兵たちが長槍を携え、待ち構える。別の街道には騎兵隊の姿も見え、いざとなれば収穫後の何もない麦畑を突っ切って攻撃も辞さない構えだ。
グレンフツ伯爵領では、昨今の不穏な世論に押され、税以外の小麦の強制徴集が行われたばかりだ。全国的に食糧不足になるのではないか、という都市部の市民たちの不安を払拭するために、農民たちから無理矢理まとめて小麦を納めさせ、雀の涙ほどの代金の支払いが約束されたのだが……あろうことか、その支払いの前に、例年どおり収穫期の税の徴収が行われたのだ。
ただでさえいつもより少なくなった蓄えからさらに差っ引かれ、約束の代金とやらも未だ払われていない。こうなると、農民たちは怒り心頭だ。
「どうなっているんだ? 領主は、村に来た商人に渡すよりもずっと安く買い付けておいて、その代金さえ払わないのか? そんな馬鹿な話があるか! 払われるまで小麦は渡さないのが筋だ! 取り返しに行くぞ!」
農民たちも世間の噂を知らないわけではない。だからこそ自分たちの現物の蓄えをわずかでも残しておきたかったのに、それも叶わないのだから憤懣やるかたない。
領主に訴えたところで、農民一人や二人、十人程度ならあしらわれて終わりだろう。ならば、百や二百、もっとであればいい。できるだけたくさんの、同じ境遇の怒れる農民を集め、これだけの数がお前たちの横暴に腹を立てているのだぞ、と見せつけるのだ。
農民たちにとって持っている農具は武器ではない、そのつもりもなかった。自分たちが農民であることを示す旗のようなもの、という示威的な考えだ。
しかし、伯爵領兵にはそうは通じなかった。農具であろうと金属の刃や鋭い先端があるのなら、それは武器と見做しうる。農民どもが反乱を起こそうとしている、と戦々恐々だ。
何せ、伯爵領兵の全数は騎士を中心に五百そこそこ、単純に農民たちのほうが数で圧倒している。戦いを知らない農民など騎兵で突撃すれば一蹴できるだろうとたかを括る老騎士もいたが、それは時代遅れの考えでしかない。
先代国王がベルルーニ王国を統一した際、最後に一掃したのは野盗と化した農民たちだった。戦乱で土地を追われ、各地を転々としながら盗賊稼業に身をやつした農民たちは、戦うことに慣れてしまっていた。どうすれば騎士を馬から落とせるかを熟知し、指揮官を狙って石飛礫を投げれば効果的だと知っている。森に罠を張り、騎士を追い込み、狩猟に慣れた民は獣を捌くように戦利品を騎士の亡骸から手早く奪っていく。
そんな野盗集団と戦ったことがあるかないかで、騎士たちの中でも戦い方の意見が分かれたのだ。
「もし、あの農民どもの中に、野盗たちの戦い方を知っている者が一人でもいれば……無策に突っ込むことはできない。それ以前に、領民と争うなど間違っているだろう!」
「はっ、腰抜けが! たかが農民どもに何を怯えているのやら! 我らが騎士であるのは、戦いを本分とするからこそだ! すなわち、反乱軍を討伐する!」
真っ向から対立した騎士たちが動けないとしても、農民たちは知ったことではない。日があるうちに収穫物を運び込んだ都市へ入り、未払いの金を受け取るか、収穫物を返してもらう。それだけのためにやってきた農民たちは進むごとにその数が膨れ上がり、とっくに千を超していた。
こうなると、都市側も慌てる。いくら伯爵領兵が守っているといっても、都市から出られなくなったならおしまいだ。交渉の余地はあるか、あるいは伯爵領兵たちが農民を襲撃しないようなだめられるか、都市にいる市長以下首脳陣は必死になって停止命令を出せる伯爵本人を探し、先走らないよう伯爵領兵の長の機嫌を取ろうとする。
何もかもが混乱の渦の中にあり、誰もが次の瞬間さえ予測できない。
そんなときだった。
グレンフツ伯爵とともに、噂の『赤銅色の髪の貴婦人』が現れたのだ。
亜麻色に近い河原毛の馬の鞍に横乗りで座り、特注製深緋の乗馬ドレスに身を包む。ウェーブのかかった長い赤銅色の髪が太陽を浴びると美しく輝き、夕日の燦々とした光に負けぬほど際立って見えることから『赤銅色の髪の貴婦人』と呼ばれるようになった彼女は、ベルルーニ王国各地で起きる争いの場に現れ、すっかり調停してしまう。
風の噂とはいえ、各地で激化する争いを治めようと奮闘する『赤銅色の髪の貴婦人』を、人々は次々と口の端に乗せていく。
「まさか、王妃プロティアは死んでいなかったのか? 民である我々が争うことをよしとせず、再び現れ、導いてくださるのか?」
「マナリア子爵領でも『赤銅色の髪の貴婦人』が現れたと聞く。最初は東のユーベル男爵領、ニスルカ伯爵領で農民たちの怒りを鎮め、領主たちを改心させたとか……」
「彼女が来てくれるなら、この不毛な諍いは終止符を打つだろう。頼む、誰かが死ぬ前に来てくれ……もう誰も止められないんだ!」
「王妃殿下だ! 王妃殿下が、いらしてくださった! 我々のために、この国を救ってくださる!」
『赤銅色の髪の貴婦人』は、困った顔のグレンフツ伯爵とともに、都市に通じる道を陣取る伯爵領兵たちのもとへやってきた。
緊張した空気を、グレンフツ伯爵に代わって『赤銅色の髪の貴婦人』が破った。
「皆様。グレンフツ伯爵閣下と協議の結果、農民たちと話し合うことと相なりました。干戈を交えるよりも、まずは言葉を交わすべきですわ」
その言葉に、老騎士が反駁する。
「ちょっと待った! 伯爵閣下ならいざ知らず、我々に命令しようとは貴殿は何者だ? それに、我々の眼前に迫る反乱軍と何を話すことがある?」
「いいえ、その認識は間違っています。彼らを反乱軍と見做すならば、それこそグレンフツ伯爵がそうだと判断する必要があるのです。現在、伯爵閣下は彼らを反乱軍とは見做していないにもかかわらず、なぜあなたがその判断を専横し、伯爵領兵の同輩をそそのかしているのでしょうか。あなたが真の騎士であるならば、主君の代わりにそのように判断しようなどとおこがましいことはなさらぬはずですわ」
おお、と伯爵領兵たちから感嘆の声が上がる。どちらが道理の通ったことを主張しているのかなどあまりにも明白で、戦意乏しい兵たちは『赤銅色の髪の貴婦人』の言い分に大きく頷いていた。
『赤銅色の髪の貴婦人』の声は高く、よく通る。その声は風に乗って農民たちにも届いていた。無論、麦畑の向こうにいる騎兵隊にも、である。
「皆様、戦う前に、もう一度話し合ってみてはいかがでしょうか。僭越ながら、私がその機会を設けさせていただき、互いの言い分を掬い取ってみせましょう。どうぞ、この」
秋風が吹く。
赤銅色の髪が宙を舞い、西日を反射して、一筋の赤みがかった光が彼女の背後に現れる。
一拍置いて、『赤銅色の髪の貴婦人』は馬上からより大きく、高らかに宣言した。
「——エレミアを、信じてくださいまし」
エレミアのターン!
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