二幕 山田絢
愛用しているクツに履き替えて、俺はどっちの道で帰るか、数秒間だけ悩んだが、末にでる結論はなぜか決まっていた。
「今日は…………特別な……気がする……」
あくまでも推測でしかない俺の当たらない勘。
気分なのかもしれない。そういうことにする。
そういえば、遠回りで帰るのは、神様が転入してきた日、以来でもあったりする。
時間もあまっているので、俺は右に曲がって、川原を通りすぎて、家までの帰路をつくことにした。
川原の土手を通るころ、頭がかゆくなった。
俺の左半身には、焼きつくような夕日がまだまだこれからだ、とでも言いそうなくらいにテカテカとしている。
右半身を見ると、どうやら野球をしている子供たちが見受けられた。
「元気だな…………あれ?」
草をクッションにして、座っている人に見覚えがあった。
「あれは……」
観戦している人はロングの黒髪に横顔でもすぐにわかった。それもそうだ一ヶ月ぐらい一緒に部活をやっていたんだ。
山田絢――。絢さんが座っていた。
一週間ぶりに見る絢さん。
俺は絢さんの真上を気づかぬふりをして、歩いていこうとした。熱心そうに見ているし、邪魔したら悪いかなと思う。
すると絢さんが立ち止まっている俺に気づいて、こっちに手招きをする。
俺は、一瞬、考えたが、坂を下りて、絢さんのところに向かう。
「あれ、春島くんは帰り道こっちだったかしら?」
あれ? 今、春島くんって……まあいいか。
「たまに、気分転換でこっちから帰るんだ。時間はかかるけど景色がキレイだからな。それより、絢さんはここでなにやってんの? 観戦?」
絢さんは少し、微笑んだ顔で不機嫌さを作って、
「……私はこの子たちの監督をやっているのよ」
「へえー、野球好きだったんだ」
絢さんは立ちあがって、腕を組む。そして、嘆息をした。
「……好きではないですよ。この子に無理に頼まれたから、やっているだけですから」
不機嫌な絢さん。俺はどうやら嫌われているのかもしれない。
「遊園地の時に、一緒に行けなかったのも、これ?」
「そう。初試合があったから、もちろん勝てるはずもなく負けたけど。…………楽しいものよ、こういうのも」
「そっか」
一生懸命にやる子供たち。見たかぎりでは、二十人ほどメンバーがいる。すごいな。
「そうだわ」と大きな声をだして、絢さんがいきなり手をパン、と叩く。
「春島くんも、混ざる? 野球」
「え? でも俺……やったことない」
「いいですから、これ、ただの合同練習ですので」
それから、俺の了承もなしに「ちょっと集まってください!」と、呼び集めて「今からこのお兄さんを助っ人にいれますね」と言っても、イヤな顔一つしない小学生たち……。その中に一人、見知ってる男の子がいることに気づいた。
「絢さん、あの子って、恵介?」と俺は尋ねた。
「ええ、そうですよ」
絢さんが答える。そこに、
「おひさしぶりです。お兄さん」
恵介が帽子を脱いで、キレイに頭を下げる。
初めてあった公園での出来事。舌打ちばかりしていた少年とは、思えない風貌に変わっていた。
ぼさぼさにしていた髪は丸坊主に、子供とは思えなかったするどい目つきも、純粋な目に変わって、言葉使いも礼儀正しくなっていた。
「おう……」と驚き、絢さんに「絢さんが矯正したのか?」と聞いた。
「野球したいから教えてほしいと頼んだのは彼です。多分、神様のおかげなのではないですか? さーて、長話している暇もありませんので、さっさと試合再開しましょうか」
絢さんが手を叩き、子供たちをばらつかせる。神様のおかげ……か。
さてさて、俺は予備のグローブを貸してもらって、一塁手ことファーストについた。
ベンチに座っている絢さんが「気楽でいいですよー」と助言してくる。
とはいえ、ルールは知らないわけではないが、中学の授業でやったことがある程度。位置によってグローブの形は異なって、俺のつけているグローブは縦長い。
審判が再開のコールを促す。みんなが「さあこい!」と気合をいれる。
最終回の五回表、どうやら、スコアボードを見るかぎり、こっちのチームが一点差で負けているらしい。
マウンドに登っている小柄なピッチャー、背丈は神様より小さいかぐらい。横顔しか見えないが、とても凛々しい顔をしている。
セットポジションに入って、左足を振り上げて、右腕を振り落とし、左足で踏ん張って、キャッチャーミットに叩きこんだ。
子供の審判が「ストライーク!」と判定する。
迫力、臨場感、テレビの前、傍観者では決して味わえない感覚。
カウントは二アウト、二ストライク。
俺はこっちに飛んでくるな! と祈った。捕れる自信なんてないからだ。
俺からして第二球目を投げた。
野球素人の俺でもわかる、キレイなフォーム。疲れを感じさせない、汗は今始めた俺とは違って、額から頬に伝って、流れていて、ユニフォームが汗でにじんでいる。
白球がバッターの手元を通りすぎようとする。
とたん、渾身の力だろう、金属音が響くと、ボールは俺の頭上のほうに飛ぶ。どうやら俺の役目みたいだ。
慣れないグローブで捕球を試みる。凡フライを打ったバッターは一塁を蹴って、二塁まで進む。
俺はボールの行方を推測して、そこにグローブをかまえ、捕球の体勢に入り、落ちてくるのをまった。
ゆっくり降下してくるボールに手に汗握った。
――だが、しょせんド素人、そううまくはいかなかった。
ボールはグローブの先端ではじき、後ろに落球してしまった。心の中で「しまった……」とやってしまった感があふれでる。
しかし、俺の背後でパシッと、キャッチする音がする。
「あれ?」と振り返るとピッチャーの子がいた。
「お兄さん、背高いから助かったよ。ほらっ、逆転、逆転」
俺の背中をポンと叩いて、ベンチに戻っていった。子供独自のキレイな声だった。
五回裏の最後の攻撃。この回で逆転できなければ、こっちの負け。俺までバッターは回るらしいので、素振りをしながら、まちかまえることにした。
一アウト。二アウト。残り一つでゲームセットまできた。
ランナーはいない。ホームランなんて打てないけど、打っても同点。
サイズのヘルメットがあるはずもなく、ピッチャーにはバッターの内側に投げることが禁止された。
右打席に入る。バットを短く握る。初心者にはこれでいい。
審判が「プレイ!」と合図する。次のバッターはガヤの通りであれば「山田くん」らしい。さっきから「山田まで回せばいいぞ!」と声が飛んでくる。
どんな形でもいいから、塁にでることを自分に覚えさせた。欲張る必要なんてない。
肩の力を抜く。真子ちゃんに習った通りにスイング時にだけ力をこめればいい、力む必要だってない。
ピッチャーが投げてくる。バッティングセンターと同じ感覚でタイミングをあわせて、スイングする――
「ストライーク!」と審判の声だけが、俺に虚しく轟く。
バットに当たらず、空を切った。
仕切りなおして、バットを肩にかかえた。ピッチャーと視線がぶつかる。子供さながらの、大人顔負けの迫力のある眼をしている。
さらにバットを短く持った。
スピードは九〇キロ前後。バッティングマシンよりスピードが遅いはずなのに、全然違う。
俺は二球目も空振った。
「曲がった……」
――カーブ。今度こそ、とらえたと確信していたが、バットの下へと落ちていった。
三球目。ストレート? カーブ? ……悩んでもしょうがない。
俺は短く持っていたバットをギリギリにまで長く持つことにした。
「よし……」
キャッチャーが「あと一球だよー、最後まで気抜くなー」と喝をいれる。
勝負の一球――
ピッチャーが投じる外側に来るボールに、フルスイングで食らいついた。
心の中で「もらった!」と喜んだ。
振り切ったバットに感触が――――なかった。
唖然とした俺に絢さんが、
「走れ――――っ! 桜太くーん!」
その叫び声に俺は、キャッチャーのほうを見るとキャッチャーが、後ろにいったこぼれ球を取りに走っていった。
ルール上これは、振り逃げ、通称ワイルドピッチ。
第三ストライクが暴投した場合、バッターは塁に走ってもいいのだ。
俺は一塁に全力疾走した。
ガヤが興奮する。俺に「走れー!」と応援する。
俺は頭から塁に突っこんだ。ベースの感触がする。
グローブの音がそのあとに鳴った。
判定は「セーフ」。どうやら俺は、塁にでることができたようだ。
次は九番バッターの山田くんが右打席に入った。
服についた土を払い落しているとファーストの男の子――恵介が話しかけてきた。
「さすがです。お兄さん」
「ありがとう」
「ぼく、今のバッターに憧れて、野球を始めたんです」
「そうなのか」
「すごいんです。きっと……大物になります。ぼく、今度こそ絶対に――諦めません」
「俺も、応援するよ」
「ありがとうございます」
初球。山田くんは打った。キーンと俺とは、比べ物にならないくらいの大きな金属音がこだまする。
俺が走りだした時――
「ぼく、彼女のこと――」
恵介が呟く。しかし、最後のほうの言葉が俺には遠すぎて、途切れる。
俺は力のかぎりに、全力でダイヤモンドベースを駆け回った。
ボールの行方は、左の方向へと飛んでいったようだ。
足がたいして速くはないが、やっぱり小学生用に設計されているため、ホームベースまで走るのにそんなにかからなかった。
これで同点。負けは回避された。ホームを踏んで、振り返ると山田くんが三塁を蹴って、バックホームまで帰って、サヨナラをねらうようだ。
中継がキャッチャーにボールを送球して、ようやく、ボールが帰ってくる。
絶妙なタイミング。そこに、
「アス! 突っこめ――!」
絢さんがホームに駆け寄り、手を口横にあてて、叫ぶ。
キャッチして、すぐにキャッチャーはブロックし、タッチアウトをねらう。
砂ぼこりで見えない、運命の判定は――
「ア、アウ……」
キャッチャーの足元からボールがこぼれ、でてくる。
「セーフ、セーフ! ゲームセット!」
「絢さん。なんか……熱くなってたな、俺」
「ふふ、それでいいんじゃないですか?」
「そ、そう?」
絢さんの顔がさっきまでの不機嫌な雰囲気も消えて、なんか嬉しそうにしていた。
「神様がいなくなって、一週間、春島くん……いえ、桜太くん。今日のあなたは、かぎりなく、自分の力で運命を変えたのでは、ないんですか?」
「運命を……変えた? ……なんのことだよ」
「ええ、私、神様にこう言われていました『もし桜太がなにか大きな喜びを感じたのなら、それは変わった。ということじゃ』と、あとこれもどうぞ」
絢さんはカバンから、真子ちゃんと同じ種類のCDケースを俺にさしだす。
「これって……」
「真子さんにも渡されたはずです。そうこれは神様から預かったのよ、遊園地に行く前日にね、もちろん中身は見ていませんから」
「CD……」
渡されたCDケースをじっと見る。
これにいったい、なにが収録されているのだろうと、そわそわした。
「もし、桜太くんが三振、あるいは凡打でアウト……いいえ、ヒット、ホームランを打ったとしても、CDは渡さないつもりでいました」
「な、なんで……」
「重要なことでしたから、桜太くんが『振り逃げで塁にでた』これは私が発したきっかけにもなりましたし、なにより私の妹のかせになり、結果として勝ちに至ったと私は考えています」
「そ、そっか」と納得したあとにさっきの恵介の途切れた一言が頭によぎった。
「ぼく、彼女のことが――」
山田。彼女? 妹? え? まさか……。
「お姉ちゃん。整備と片づけ、終わりました」
山田くん(?)が報告しにきた。
「あ、紹介するわね。私の妹の山田愛日です。ふふ、可愛いでしょ?」
絢さんがほっぺたをスリスリとなすりつける。妹さんは、そんなに嫌がっている様子でもない。
「あら? まさかこの子のこと、男だと思ってました?」
俺の反応を見てか、そんな質問をしてくる。
「え? いや、その……ごめんなさい」
ごまかすのも失礼だし、謝った。
「いいのよ、アスは他の子に比べて、おっぱいはふくらんでないし、くびれもない、顔だって……」
「お姉ちゃん……あたし、そろそろへこむよ……」
絢さんの妹は顔をガクッとさせた。
「あら、ごめんなさい、でもすごい私好みの身体をしてるのよ~」
絢さんの言動すべてが変質者みたいになり、息を荒げる。
俺は「ははは……」とどうりで神様が好きなわけだと納得。
「お兄さん」
妹さんが俺に話しかける。
「なに?」
「今日はありがとう、また一緒に野球しないか?」
「……いいのか?」
「私はかまいませんよ」
「そっか。うん……俺でいいなら、またやろう、野球」
俺はズボンで汗を拭いて、手を差しだした。
妹さんも応じるように一瞬だけ、左手をだしかけて、俺の手を見て、右手に代える。
「左のほうがよかった?」
「べつにかまわないよ、ただあたしの右手、すごい汚いからさ」
妹さんは右の手のひらを俺に見せてくれた。
「俺はカッコいいと思うよ、俺の両手なんかピカピカだし、逆に恥ずかしいぐらいだ。だから、すげえ羨ましい。じゃあ握手、しようか」
「うん。約束だからね」
「おう」
右手から伝わる感触は、血豆とすり傷などで、ガサガサで俺の手とは、程遠いぐらいに努力している人の手触りだった。
「なんかプロ野球選手と握手してる感覚だ」
「ははは、そう?」
「キミなら、きっと大物になれるよ、俺が保証する」
同じようなセリフを真子ちゃんにも言った気がする。でもすごい人はすごい人で、それに変わりない。
「そう? ありがとう。あと、あたしのことはアスでいいよ」
「そ、それじゃ……アスちゃん……」
「ははは、それでいっか。じゃ、またね、お兄さん」
アスちゃんは、みんなの元に駆けていった。
「えっと、それじゃ、私も行きますね。明日、部室で会えたら、会いましょう」
絢さんは俺に笑いかけてから、みんなが集まっているところに向かった。
「うん、また明日」
さよならの挨拶を交わして、俺は再び、家への帰路についた。
よごれた顔と服が今日は、なんだか誇らしく思えた。




