第二十六話 世界よりも優先すべきもの
神は完全に近い『象徴』である。
生まれながらに神として完成していて、奇跡を振るえば大抵のことは叶う神に『未熟な期間』は存在しない。ゆえに成長することもなく、ただただ神として存在し続けるのが当たり前だった。
そんな神が二柱も揃っておろおろしていた。人間の赤ん坊。そう、生物の中でも珍しい『生物として不完全なまま体外へと産み出される』人間の赤ん坊を前にして、どうしていいかわからなかった。
体温調整もできないし、首はすわっていないから簡単に折れるし、排泄ひとつとっても自分で処理できない。何か訴えがあれば泣き声一つで伝えようとする始末。
放っておけばすぐに死ぬ。生物の『未熟な期間』の中でも守られることを前提とした存在、それが人間の赤ん坊である。
いかに神であろうとも、いいやなまじ完全に近い神だからこそどう接するのが正しいのかわからなかった。
正しさの消失。
まさに未知の領域を前に女神は半ば泣きながら、それでも人間が住まう世界に送り返そうとは思わなかった。
一なる光を手にした女神は最も完全に近い。邪神を取り込んでいないので真なる完全ではないにしても、赤ん坊が元の世界でどういった扱いを受けていたかくらいは簡単に知ることができる。
邪魔だから、この赤ん坊はただそれだけの理由で捨てられたのだ。元の世界に送り返したところで野垂れ死ぬのは目に見えている。
だから、そう、だからだ。
決して女神に対して無邪気に笑いかけてくれる赤ん坊に執着しているわけではない。……ないったらないのである。
『おむつは替えたし、魔力は食べさせたし、お昼寝だってたっぷりしたわ。邪神っ。これなんで泣いているんですわ!?』
『なんでって、えっと、ええっと、とりあえず抱っこでありますーっ!! ……あ、泣き止んだ』
『……、むう』
『こら金色女神っ。二の腕を握り潰そうとするなであります! マーブルちゃんを抱けなくなるじゃないでありますよ!!』
『ずるいですわっ。そんな、笑いかけてもらって、私様がマーブルちゃんを抱っこするのですわあ!!』
『だーめーでーあーりーまーすーっ!! 女神はさっき散々抱っこしていたでありますよねっ。たまにはわらわにも抱っこさせるでありますう!!』
神とは完全であると同時に平等でもあらなければならない。そういうものだと、正しい神とは完全にして平等だと大勢が認識しているのだから。
その当たり前はとっくに崩壊していた。
個人への執着、感情の上下。『好き』という感情を抱いた時点でもう完全なる神様になど至ることはできない。
神という『象徴』は『堕ちた』。
ここにあるのは人間と同じく感情に振り回される生命体だけである。
ーーー☆ーーー
赤黒い靄は槍と束ねられて騎士団長へと放たれた。『持続』する紫電の剣や首都どころか地平の彼方まで吹き飛ばすほどの爆撃さえも抹消するデーモンスキルが。
「……ッッッ!!!!」
大陸最強の最有力候補でも対等にやり合うことすら、そう、喧嘩にすらならなかった。それほどに異形の男は突きつけた怪物だった。
だから。
だから。
だから。
「ほいっと」
ボッッッバァッッッ!!!! と。
騎士団長を追い抜き、放たれた拳が赤黒い槍を吹き散らしたのだ。
それは金の髪を靡かせた人間だった。
それは見た目こそ華奢ながらも、騎士団長やサキュバスだろうとも殴り飛ばす強靭な肉体の持ち主だった。
それは胸の中心を貫かれ、倒れていたはずの少女だった。
振り返り、漆黒の瞳で騎士団長を見つめ、彼女は無邪気に笑ってこう言った。
「ウルフさん、後は私に任せて」
「っ」
マーブル。
異形の男と同じく時空が引き裂かれたかのような異常現象の後に降って湧いた規格外の少女である。
ーーー☆ーーー
(お姉さん、凄いなぁ)
マーブルは素直にそう思っていた。
言葉一つでマーブルは肉体強化魔法を覚えることができた。マーブルが魔法に関して天才であった、というわけではなく、ミーリュアの教え方が上手であったからだ。
肉体強化魔法を使った現在のマーブルは膂力もそうだが、自然治癒力が跳ね上がっている。それこそデーモンスキルによって開けられた胸の中心の風穴が跡形もなく塞がっているほどに。
そう、デーモンスキルによる『消去』よりもマーブルの『治癒力』のほうが上であるということである。
ゆえに赤黒い槍を殴り飛ばしても拳が消し飛ぶことはない。拳が消し去るよりも再生するほうが早いために。
(後でちゃんとお礼を言わないと。でも、今は、やることがあるから)
前に、踏み出す。
赤い瞳に鋭利な耳。長く伸びた黒髪にヤギのような角。両の指からは異様に長く鋭い爪を伸ばし、背中からはコウモリにも似た翼を生やした異形の男と対峙する。
「ゼロさん、さっきはよくもやってくれたよね」
「まあ柄にもなく良い子ちゃんやっているからなあ。世界平和のためには多少の犠牲は致し方ないってもんだろう?」
「……? 世界平和のためだからって誰かを傷つけていいわけないじゃん」
「ああ、そうだったなあ。マーブルちゃんってば『あの』両親の背中を見てきたんだったなあ。なんでもありの反則だらけでゴリ押しできる『あの』両親ってば完全を手に入れるという夢物語を現実に、なーんて無茶苦茶でもなければ何かを成し遂げるために犠牲を必要とはしないからなあ」
くつくつと悪意に肩を揺らし、笑みをこぼすゼロ。
異形の男はゆらゆらと赤黒い靄を漂わせながら、
「ただまあ、俺っちってば不完全にして悪意を凝縮した悪魔なものでなあ。どんな結果を望むにしろお、どうにも過程が破壊で埋め尽くされるんだよなあ。マーブルちゃんを連れ帰るう。言ってみればそれだけの話ではあるんだがあ、どうせ抵抗するなら弱らせて無理矢理でいいじゃん、邪魔するのはササッと排除すればいいじゃんってなあ。いやあ、なんだあ。痛い思いさせて悪かったなあ」
「私のことはいいよ。もう治ったし」
だけど、と。
拳を固く硬く握りしめてマーブルは言う。
「結果としてゼロさんは色んな人を殺しかけた。ゼロさんには別に殺す気はなくて、ただ立ち塞がる障害を排除しようとしていただけかもしれない。だけど、壊れすぎちゃうのは弱いのが悪いって、死んじゃったらそれはそれで仕方ないって感じで突き進んでいたよね? それは、受け入れられない。だから、だから! ゼロさんが何を望んでいるにしても、これ以上破壊を撒き散らすならぶん殴ってでも止めてやるから!!」
「……、本当の良い子ちゃんなら素直に頭でも下げて『世界のために』従ってくれってお願いでもするんだろう。ああ、そうだあ。それが最善で完璧で正しいんだろうなあ」
あの『終焉大戦』を生き残り、悪魔を縛る性質である『真なる名』を消し去った『千の闇』最強の悪魔はあくまで悪魔であった。
邪悪に、己が欲望のままに。
その結果、世界が滅びたって構うものかと考えるからこそ彼は悪魔なのだ。
「だけどお、駄目だなあ。今更素直に帰るって言ってももう遅い。俺っちのデーモンスキルを粉砕するほどに成長したマーブルちゃんに『喧嘩』を売られちゃあ、存分に堪能するしかないよなあ!!」
言下にゼロとマーブルが真っ向から激突する。そこに『何を』賭けているのかを知っていても、知らずとも、やることは変わらないから。




