シグルズの優しさ
逃げた先の崖下が抉れた窪みの中、倒れたままのシグルズの側で私は呆然としていた。
思考はやはり廻らない。起こっていることの現実感がない。目の前のことが遠い出来事のように感じながら、体だけが動いていた。そんな他人みたいな感覚だ。
シグルズの胸当てと籠手を外し、衣服を弛めて肩の傷口を晒す。そこへ目眩ましの魔法をかけ終わったメイちゃんが来た。
シグルズの傷口に酒をかけて消毒し、回復魔法をかける。血が止まり、傷口が軽く塞がった。そこで、ぐらりとメイちゃんの体が傾いだ。
「メイちゃん!」
慌てて倒れかけたメイちゃんの体を支える。
「ごめんなさい、クロリス様。魔力切れです」
真っ青な顔色で、弱々しく言うメイちゃんに私は首を横に振った。そのまま意識を失ったメイちゃんをそっと横たえる。元々メイちゃんの魔力量はそんなに多くないから、無理をしてたんだと思う。
謝ることなんてない。メイちゃんはよくやってくれた。寧ろ何も出来なかったのは私なのに。
「私が悪いのにっ」
「…… クロリス」
俯く私にシグルズの声がかかる。彼は何とか身を起こして、壁に寄りかかるようにして座った。
「ごめん、薬だったね」
シグルズの側に行って薬を手に取る。蓋を開けようとしたけれど、手がどうしようもなく震えて開けられない。
「あ、あれ?」
手だけじゃない。気が付くと体全体が震えていた。
「馬鹿、無理すんな」
シグルズは私の手からひょいと薬を取り、蓋を開けてぐいっと飲み干す。苦いと顔をしかめてから私の肩に手を置いて、くいと引いた。
バランスを崩した私は、彼の胸に顔を埋める形になる。
ええええええええっ?
「ちょ、シグルズ?」
「あんまり動くな。傷に響く」
軽くパニックになって離れようとするけれど、シグルズの声に私は動きを止める。シグルズは黙って、私の肩に置いた手と反対の手で私の頭を撫でた。頭を撫でる大きな手の感触と、彼の鼓動が妙に心地いい。いつの間にか震えが止まっていた。
「悪かったな。気付いてやれなくて」
「え?」
「怖かったろ?人殺しも、人に殺されそうになるのも」
ぎくりと体が強張る。
「っごめんなさい、私っ、何も出来なかった。シグルズの肩の傷だって私のせいで」
「ばーか。謝んな」
こつんとおでこを叩かれた。
「お前訓練でも泣き言一つ言わなかったし、モンスター相手じゃ平気だったからな。俺もフィンも、つい大丈夫だと思っちまった。お前は女で、ついこの間まで、ただの花屋だったってのにな。悪かったな」
また私の体が震え出す。今度は怖いからじゃない。熱い塊が、喉元までせり上がってくるのを必死に堪えた。
どうしよう。ヤバい。そんな優しい言葉かけられたら。
「いいから、我慢するな」
シグルズにぽんぽんと軽く頭を叩かれたら、私の堪えていた堰が切れてしまった。ポロポロと涙が溢れてくる。
「怖かったっ、人なんて斬りたくないよお」
涙と一緒に本音が溢れる。
戦うのは怖い。斬るのも斬られるのも、殺すのも殺されるのも嫌だ。剣なんて握りたくない。家に帰りたい。
情けない。何も出来なかった自分が、情けなくて嫌いだ。
ぐじぐじと泣いてしゃくり上げて嫌だ嫌だとぐずる私を、シグルズは黙って撫でてくれた。
わんわん泣いて子供みたい。
一通り吐き出して私が落ち着いてくると、シグルズは低く笑った。
「いやしかし、そうやって泣いてるとお前も普通の女だったんだな」
「はあ?何それ」
私はごしごしと袖で涙を拭って憤慨した。
「城でその辺の新米兵士相手にも同じ訓練やってたんだがな。文句言わずに付いてきたの30人中2人だぜ。それをこなすお前は、その辺の男共よりもよっぽど根性ある、鉄みたいな女だって思ってた」
うう、そうだったの?っていうか、そんな訓練やらすなよ!
「怖くて当たり前なんだよ。俺もな、最初は酷いもんだったぜ」
くっくっと笑って彼は言った。
「シグルズも?」
不思議そうな私にシグルズは苦笑する。
「ああ。真っ青でガタガタ震えながら、親父にくっついてるのが精一杯だった」
「…… 想像もつかない」
「ははっ。まあこんなもん慣れだ、慣れ」
私も慣れるのだろうか?上目遣いにシグルズを見上げる。
青くなって震えるシグルズも、慣れて躊躇いなく剣を振る私も、やはりどちらも想像出来なかった。
「シグルズはどうして冒険者になったの?」
「親父が冒険者だったからな。ああ、血は繋がってねえ親父だぞ」
ふっと沸き上がった疑問を言ってみると、シグルズは語ってくれた。
「孤児だってのは言ったろ?スラムの路地裏で残飯漁ったり、スリの真似事やって暮らしてた。そんな俺を、拾ったのが親父だ。スリがばれて、ボコボコにされてた俺を助けてくれてな。格好良かったよ。ゴロツキ共をあっという間に叩き伏せてさ」
親父さんという人を語るシグルズの目は、輝いていて、私は何だか眩しい。
「憧れたよ。親父みたいになりたくて毎日木刀を振ってた。ある日親父の目を盗んで、こっそり付いていってたんだ」
行商人の護衛だったので、荷台に隠れていたそうだ。途中で見付かってこっ酷く怒られたけれど、引き返す訳にもいかずそのまま付いていったらしい。
「道中に親父たちがモンスターと戦闘になったんだが、怖くて怖くて震えるしか出来なかった。後になって猛烈に悔しくなって、前以上にがむしゃらに木刀を振ったよ」
彼にしては珍しくよく喋ってくれる。シグルズは落ち込む私のために、あえて自分の恥を話してくれているんだ。その優しさが嬉しくて心に染みた。
「ありがとう。シグルズ」
感謝を込めて私の肩に置いたシグルズの手を握った。握って気が付く。手が異様に熱い。
手だけじゃない、シグルズの体も熱い。私が頭を預けている胸から伝わる心臓の鼓動も早かった。
「シグルズ、熱が」
そうだ、逃げている最中も体が熱かった。駄目だ、私。色々頭が回ってなかった。
「怪我の後は出るもんだ。気にすんな」
言いながらシグルズは、ずるずると壁から上半身を滑らせて横になる。
「ごめんなさい、私……」
「いいから。あー、悪いと思うなら寒いからこのまま居てくれるか?」
頷いてシグルズに寄り添って横になる。少しでも温まりますようにと、彼の体に腕を回した。




