敵の四天王に抱きとめられた夜 ~ぼくを殺せない四天王に、凛と生きろと言った人~
ノヴァリエル大陸。
四つの城を陥とし、北部ミストラル領を制覇。
無敗のまま、常勝の道を突き進む――最強クラン『バルデスティアズ』。
その居城、シェヴェリーン城の中庭に、夜のざわめきが走った。
黒と銀のモノトーンの軽鎧をまとった痩せた男が、
荷車をひく巨大な獣に跨っていた。
山羊のように反り返った角、黒豹のようなしなやかな胴体、狼のような金の眼。
異形の魔獣に、兵たちは震える手で剣を構え、円を描くように取り囲んでいる。
「な、何者だ……!」
松明の火が揺れ、長く伸びた影が石畳を這った。
「だから、ガジマル。止まれって言ったろ……」
獣の背の上で、男――バフ系魔導士ミロイは、
こめかみを押さえつつため息をついた。
短い咳がひとつ、喉の奥で震える。
胸の奥から、じりじりと焼けるような痛みが広がった。
最近、相棒の魔獣ガジマルは反抗期である。
言うことを聞かないどころか、敵城の中まで勝手に突っ込んできた。
(……胸、また痛ぇな。
こんな身体で敵地に乗り込むとか、我ながらアホだよねぇ)
そう内心で苦笑しているとき、石塔の螺旋階段を下りてくる足音が響いた。
「何事じゃ……」
しなやかで、どこか艶を含んだ女の声。
その声音を聞いた瞬間、兵たちは反射的に膝をついた。
まるで、深い夜がその一声で形を変えたかのように――。
「沙羅夜様!」
螺旋階段の影から現れたのは、漆黒の外套をまとった女。
バルデス四天王の紅一点――沙羅夜。
武器も防具も着けていない。
華奢な身体つきとは裏腹に、
漂う気配は鋼鉄よりも冷たく、
花の香りよりも妖しく、
ただ歩み寄るだけで場の空気を塗り替えていく。
その横顔の化粧は青白く、
松明の炎がゆらりと揺れては、
妖艶な影を頬に落としていた。
「沙羅夜……四天王か?」
ミロイは思わず、息に混じるほどの小さな声でつぶやいた。
敵武将の名くらいは知っていた。
兵の一人が前に進み出て、荷車に載った二つの亡骸を指差す。
布はすでに外され、晒された若い兵士の顔には凄惨な死の痕が刻まれていた。
「沙羅夜様。この者は先刻、城外の見回りに出た新兵たちです……」
「なにぃ……なぜにこないな惨いことを」
艶やかな声の奥に、冷えた怒りが潜む。
沙羅夜の視線が、ゆっくりとミロイを射抜いた。
ミロイのクランの魔導士が、最強魔法の練習中に誤射してしまったのだ。
結果――最悪のタイミングと最悪の位置に、見回り中の新兵たちがいた。
「ご、ごめんなさい。これはその……完全に事故でして」
ミロイは慌ててガジマルから飛び降り、ぺこりと頭を下げた。
ひとりで敵城に乗り込んだ時点で無謀だが、それで済むはずもない。
しかも、相手は四天王。
「うぬ、謝って済むと思うとるんか」
浮世離れした花魁のような、甘く、だが棘を含んだ声音。
それを合図にしたかのように、兵たちの剣が一斉に抜かれた。
「でしょうねぇ」
ミロイは片頬を引きつらせて笑う。
逃げ道を計算する。
兵の数、城門までの距離――十六歩。
「貴様ぁッ!」
血気盛んな若い兵が、怒号とともに斬りかかってくる。
つられて、周囲の兵も一斉に飛び出した。
ミロイは彼らに背を向けたまま、ガジマルの綱を片手で解きつつ、低く呟く。
「スリープ」
――速い。
続けざま、
「スリープ、スリープ……」
囁くような声と同時に、
振り抜かれた剣が空中で止まり、
兵たちの動きが、糸を切られた操り人形のように凍りついた。
静寂。
「……ほぉ」
沙羅夜が目を細めた。
ミロイはゆっくりと振り向き、次の呪文を紡ぎかける。
「シャドーフレ――」
「待ちなされ!」
鋭い声が、それを断ち切った。
「ぬしの魔法が炸裂したら、ここにおるあたいの兵も、ただでは済みゃしない。
……どうじゃ、取引をせんかえ」
「取引?」
ミロイの片眉がわずかに上がる。
(素手……? ……まさか、こいつも魔導士なのか?)
(四天王クラスが、“丸腰”で魔導士の間合いに入ってくるなんて――ありえない)
だが、沙羅夜は、まるで散歩でもするかのような足取りで、
ゆっくりと歩み寄ってくる。
「魔法使いなのか――という顔をしとるな」
彼女は目を細めると、唇の端だけで笑った。
「まあ、鎧も着とらんしな。
けど、安心なされ。あたいは魔法は使えんよ」
――その言葉こそが、むしろ恐ろしい。
彼女は、ミロイの剣の間合いぎりぎりで立ち止まった。
その気配はまるで、夜そのものが立っているかのようだった。
「取引とは?」
わずかな震えが、ミロイの背筋を撫でた。
「ああ、ここでぬしが自分の喉を斬って死んでくれるなら――
今回の件、この沙羅夜が水に流してさしあげましょう。
ぬしの仲間を追うのも、やめておきんす」
中庭にざわめきが走る。
「……本当に?」
「ほんによ。あたいは嘘は嫌いでねぇ。
命の貸し借りに、嘘ついてもつまらないでありましょうや?」
「四天王のお方がそう仰るなら、間違いないですよね」
ミロイは小さく息を吐き、腰の魔法剣を抜いた。
冷たい刃を、自らの喉元に当てる。
兵たちの喉が、ごくりと鳴る。
沈黙。
「あっははははっ」
唐突に、沙羅夜が笑い声を上げた。
「ぬしは、演技が下手じゃのう。
そんな目で、本気で死ぬ者がおるもんかえ」
ミロイは剣を下ろし、肩をすくめた。
「やっぱりバレちゃいましたか。
僕が自害なんて、するわけないでしょう」
「なんでじゃ?あたいの話が嘘だと思うたんか?」
「僕の命と引き換えに、仲間みんなの命が助かる。
――そんな釣り合い、全然取れてませんよ」
ミロイは沙羅夜と会話を続けながら、門付近の兵をちらりと数える。十二。
胸が痛い。だが、表情には出さない。
「うちのクランは、自分の死よりも、仲間の死をすごく悲しむんです」
静かに呟きながら、心の中で手順を並べる。
(門前の兵に範囲魔法をぶち込んで、
砂埃が上がった隙にガジマルの首にしがみついて、壁外の闇へ――)
「だから僕は、死ぬわけがないんですよ」
ミロイは覚悟を決め、魔法剣を握り直した。
「あっ、あそこに黄色いドラゴンが!」
沙羅夜の背後を指差すと同時に、門の方向へ跳ぶ。
「デステンペス――」
バフ系最強の攻撃呪文を詠唱しかけた、その瞬間。
背中に何かが叩きつけられ、ミロイの体が前のめりに崩れた。
「な……!」
それは沙羅夜の身体。
振り返るより早く、その胸元に、彼女の細い背中がするりと入り込んでくる。
「これ以上、あたいのかわいい兵たちを傷つけるのは、見過ごせんなぁ」
耳元で甘えるような声が囁く。
ミロイの右腕――魔法剣を握る手首は、白魚のような指に絡め取られ、
信じられないほどの力で関節ごと封じられていた。
胸の内には、華奢な身体と、外套の香水の香り。
沙羅夜の体温と、細い筋骨が同時に押し寄せる。
「さぁて、ここからどうするんよ?
その空いてる左手で、ぬしの背に隠し持った小刀でも抜いて、
あたいの喉を掻き斬ってみるかえ?」
沙羅夜は首筋越しに顎をしゃくり、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
乱れた髪が額にかかり、妖しくも凛とした、美しい横顔が目に映る。
(こんな格好、クランリーダーの兄やんに見られたら……)
ミロイは苦い顔をした。
(まずは沙羅夜を突き飛ばして、距離を取って主砲の魔法を――)
そのとき。
「うっ……!」
視界が暗転し、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
肺から空気が抜け、膝が崩れ落ちる。
「ん?」
沙羅夜はすぐに振り返り、崩れ落ちるミロイの腰を抱きとめた。
「ぬし……病か?」
ミロイは青ざめた顔で、微かに頷く。
魔法剣が手から滑り落ち、もはや自力で立つことすらできない。
「こんな身体の者を、ひとり敵城へ送り込むとは……
ぬしの将は、しょうもないやっちゃねぇ」
「はは……ですよねぇ……」
ミロイは目を閉じたまま、力なく笑った。
「兄やんは、女の尻ばっかり追いかけて、楽なことしかしないし。
カッコつけてばっかりで、面倒なことは全部、みんなに任せて……」
言葉とは裏腹に、その声音には深い信頼が滲んでいた。
「それでも、兄やんのそばにいると、なんか勇気が出るっていうか、
……こっちも、ちょっとはカッコつけなきゃって」
「それで、ぬしは、……そんな身体で死にに来たんか?」
「いえ……死にたくはないですよ。
でも、もうダメかも……。みんな……兄やん……ごめ……」
ミロイの頬に、一筋の涙が伝う。
そのまま瞼が落ち、意識が暗闇に沈んでいった。
その異変に気づいたガジマルが咆哮を上げる。
門兵をなぎ払いながら、闇の彼方へ駆け去っていった。
沙羅夜は、ミロイの濡れた頬にそっと指先を触れた。
「これもまた、世迷言かねぇ……」
その横顔に、燃え残る松明の光が静かに揺れていた。
◇
――夜が明けた。
シェヴェリーン城の主塔四階。
開け放たれた窓から、ブレージス港の心地よい潮風が流れ込む。
その風とともに運ばれてくる微かな声に、
ミロイはまどろみの中――目を閉じたままで耳を傾けていた。
「……あたいの父はねぇ、北の最果ての寂れた漁村の、貧しい漁師だった」
沙羅夜は静かに語りはじめた。
窓のふちに指先を添えながら、
彼女はゆるく身を寄せた。
遠くの海を行き交う、青と白の帆船を眺めつつ――
まるで、過ぎ去った季節の匂いを思い出すように。
「母は篤い胸の病でね。
あたいを産むと同時に、天へ帰ってしもうた。
あたいはいつも、ひとりぼっちで……
泣きたいくらい寂しくてねぇ」
沙羅夜は、かすかに笑った。
それは“懐かしむ笑み”ではなく、
“もう戻れない痛み”を抱いた笑いだった。
「心の中で、何度も叫んでたんよ。
――おかあさん……あたいのおかあさん……どこにおるの、ってねぇ」
港の向こう、朝焼けの中で船のマストがゆらりと揺れる。
海風の音だけが、ふたりの間を通り抜けていく。
「父は無口で、いつも魚の脂の匂いがしてた。
髭はぼうぼう、爪の中は真っ黒で、
日焼けした顔には皺が深く刻まれて……
あたいは、そんな父が大嫌いだった」
言葉は辛辣なのに、
声音には、どこか懐かしい震えがあった。
「漁から戻ってくるたびにね。
船着場で抱き上げられて頬ずりされるのが、嫌でねぇ」
沙羅夜はここで、ゆっくりと目を細めた。
遠いもの――戻れない場所を見るまなざしで。
「まわりの子は皆、あたいをいじめた。
傍に来るなと怒鳴った。
石を投げて、棒を投げて、大きな犬で追い立てた。
そんなとき、
あたいはいつも、丘の上の灯台まで逃げて……
転びながら、転がりながら、ちっさい身体で必死に走ってね」
その記憶は、
“泣きじゃくる少女”の時間そのままの温度で語られた。
「灯台の上から……
みんなが楽しそうに遊ぶ港を、陽が暮れるまでずっと見下ろしていた。
あたいだけが、そこに居場所がなかった……」
沙羅夜は、そっと窓の外に視線を流した。
港に停泊する数隻の船のマストが、朝の風を受けて同じ方向へ傾く。
その港の奥には、尖塔の高い大聖堂が威厳を放ち、
赤銅色の屋根が寄り添うように連なっていた。
だが――
沙羅夜の目が見つめていたのは、
いま目の前に広がるこの華やかなブレージス港ではなかった。
それは、かつての故郷にあった、寂れ果て、荒れ果てた、
あの“灰色の港”の記憶だった。
一拍、静寂。
「……父は、男手ひとつであたいを育てた。
そんな一本気な父の口癖は、女のあたいにも『凛と生きろ』だった。
弱音を吐くことを嫌い、強いものに頭を下げることを嫌った。
さほど難しくもない、強いものにひれ伏して生きることよりも、
潔く討ち死にを選ぶ、そんな父だった」
沙羅夜は、かすかに笑った。
笑い声は震えていたが、誇りの響きも混じっていた。
「だからねぇ……
そんな父だから、
……村に攻め込んできた白蛮軍の矢に、真っ先に倒れた。
武器も持たず、
村に入るなと、
たったひとり、
両手を広げて道を塞いだ。
その胸に、無数の矢が――
まるで一陣の風のように、一瞬で突き刺さった」
「あたいは声も出んかった。
あまりにも、あっけなくて……」
沙羅夜は、一瞬だけまぶたを震わせた。
「あたいは父に、事前に小舟の中に隠されて、
シートの隙間から、父の上を無数の馬の群れが、
土ぼこりを舞い上げて、走り過ぎていくのを見ていた」
あの瞬間だけが、時間が止まったように語られる。
「力も無いくせに……
この世に娘をひとり残して……
……
そんな父の言いつけどおりに、
小さなあたいは泣きじゃくりながら、
舟を固定している縄を解いた……」
沙羅夜を乗せた小舟は、冷たい海へ流れていく。
焼け落ちる村、逃げ惑う人々を背に、
幼い彼女は、波に揺られて遠ざかっていく故郷を、
シートの隙間から、いつまでも眺めていた。
「数日後、辿り着いた浜で……
今のクランのお館様に拾われた」
そして、ほんのわずかに唇を噛む。
「ひれ伏して――
地面に額をこすり付けて――
命乞いをすればよいものを……。
あたいは、あたいをひとりにした父を恨んだ」
それはもう怒りとも悲しみともつかない、
深い海の底に沈んだ感情だった。
「…………そうだねぇ、
もう十年以上も前の、遠い、遠い話になるねぇ~」
その声は、笑っているようでいて、
泣いているようにも聞こえた。
「沙羅夜さん……」
寝台の上で、ミロイが重たげに上半身を起こした。
胸を押さえる手が、微かに震えている。
そのかすれた声に、窓辺の沙羅夜が振り返った。
「ああ、起きたんかえ」
少し照れたように、けれど柔らかく笑う。
「……それでもあたいは、父に一度も言わなかった。
港でいじめられてたことを、ね」
視線を落とし、ひとつ息を押し出す。
「――なぜだと思う?」
ミロイはゆっくりと瞼を開き、息を整えながら答える。
「……心配、かけたくなかったから……ですか」
「それもあるやろね」
沙羅夜は、細い肩をすくめるように少し笑った。
「けどねぇ――あたいにも、あんな父の血が流れてんのよ。
意地っぱりで、素直じゃなくて、弱音なんざ吐けやしない。
父娘って、……似ちまうんだよねぇ」
ミロイは苦しげに息を吐きながらも、身体を起こす。
「……なんでそんな話を、敵の僕に」
「なんでかねぇ」
沙羅夜はそっと視線を戻し、窓の外の光に細い指先を差し出した。
「ぬしが……あたいの母と同じ、胸の病を抱えてるせいか。
それとも、この潮風が……昔を思い出を連れてきたせいかねぇ」
ミロイはふっと微笑みかけたが、その笑みはすぐに消えた。
「……あなたの心の中には、いつも冷たい雨が……降っているみたいだ」
「ずいぶんな物言いやねぇ、敵のくせに」
そう言いつつ、沙羅夜の声にはとげがなかった。
「あたいはね、父に助けを求めたことなんざ一度もなかった。
寂しいときに名を呼ぶのは、いつだって顔すら覚えてない母ばかりで――」
沙羅夜は小さく笑う。
その笑みには“悲しみ”と“諦め”がふわりと差していた。
「生きることに不器用なくせに、『凛と生きろ』だとさ。
――まったく、お笑いだよねぇ?」
「……お笑いなんかじゃ、ないと思います」
ミロイは首を振った。
その声は弱いのに、不思議と響いた。
「うちの兄やんも、そんな人です。
弱いくせして無茶ばかりして、楽なことしかしないのに……」
そこで一度、ふっと苦く笑う。
「それでも兄やんは、
“俺が、お前らに差し出せるのはこの命くらいだ”って、
言葉にはしないけれど……みんな、わかってるんです。
だから……兄やんのそばにいるだけで、勇気が出る。
なんでも、できる気がする。
……そんな人なんです」
沙羅夜は、ほんの少し目を細めた。
「なら、ぬしはなんでここへ来た?
……そんな身体で」
「……ちょっと調子に乗って、カッコをつけちゃって……」
ミロイは天井を見上げる。
その目には、痛みよりも、誇りが宿っていた。
「僕も、兄やんの隣で、胸張って歩きたかった。
――だから、みんなに止められたけど、ここに来たんです」
沈黙。
そのとき、寝室の扉が荒々しく開いた。
「沙羅夜様!!」
四人の衛兵が長槍を構え、雪崩のように部屋へ踏み込む。
続いて、入口には二人の弓兵。
矢先はまっすぐ、ミロイの胸へ向いていた。
「その男を、直ちに地下牢へ連れて来いと。
悪豚卑様がお怒りで……」
悪豚卑とは、車輪轢きなどの派手な極刑を好む、卑劣な拷問屋であった。
衛兵たちは痩せたミロイの腕を捻り上げ、後ろ手に縛り上げる。
「ま、待って……くれ」
ミロイはよろけながら、喉の奥で咳が震えた。
「沙羅夜さん……」
沙羅夜は短く息を呑んだ。
「……すまぬ」
たったそれだけの言葉。
しかし、ミロイは小さく首を振った。
「違う……」
猿轡が嵌められる直前、
かすれながらも必死に紡ぐ。
「沙羅夜さんは……そうじゃない……」
衛兵が引きずろうとするのを耐えながら、
ミロイは涙をにじませ、絞り出す。
「そうじゃないよ!!
あなたは……世捨て人のふりして……
自分をごまかしてるだけで……
ほんとは……弱い人間を見捨てられる人じゃ……ない……」
沙羅夜は、困ったように視線を逸らした。
衛兵のひとりが猿轡をミロイの口へ押し込み、
魔法の詠唱を封じる。
「立て!歩け!」
背から強く押され、ミロイはふらつきながらも歩きだす。
首元から汗が落ち、足元がよろめいても――
振り返ろうと必死に扉の方へ歩いた。
沙羅夜は背を向けたまま、何も言わなかった。
いや――何も言えなかった。
ただ、胸の奥で父の声が蘇る。
――凛と生きろ。
――ひれ伏すくらいなら、胸を張って潔く散れ。
幼いあの日から、
一度も色褪せることなく、
今もなお背骨の奥を握り締めるように生き続けている声。
衛兵に引かれ、
小さな背中が扉の向こうへ消えようとした、その刹那――
「……ミロイ殿」
沙羅夜は振り返ると、自身も驚くほど、小さな声だった。
しかし、その細い呼び声に、衛兵たちの足が止まる。
振り返ったミロイの瞳には、
まだ光が宿っていた。
死へ向かう者の目ではなく、
誰かを信じる者だけが持つ光だった。
沙羅夜は、ほんの一瞬だけ――
少女のように目を揺らした。
そして、静かに微笑む。
「……そなたとは……もっと違った形で巡り合えてたら、
……よかった」
それ以上は言えなかった。
敵同士――
言葉の先に踏み出せば、今の自分が壊れてしまいそうだった。
沙羅夜は、またそっと背を向けた。
*
部屋の中から喧騒が消え、
開いた窓から潮風が吹き込む。
朝日の色を帯びた光が、ゆっくりと部屋を満たした。
沙羅夜は、ゆるりと外へ視線を向けた。
かつての灰色の港は、どこにもない。
だが――
扉の向こうに消えていった、痩せた背中だけが、
胸の奥に抜けない棘のように刺さっていた。
あんな弱い身体で、
あんな無茶をして、
あんな状況に追い込まれて――
それでも、あの男は、
“誰かのために生きようとする目”をしていた。
その瞳は、父とどこか似ていて。
けれど父とは決定的に違う。
彼の目は、
ひれ伏すことも、討ち死にすることも選ばなかった。
――“生きる”ことしか望んではいなかった。
「……これも、世迷言かねぇ」
世捨て人を気取って吐き捨てたつもりが、
胸の奥のざわつきは、かえって増すばかりだった。
「……あたいの中に流れる血は、
ほんに厄介でありんすなぁ……」
沙羅夜は小さく呟いた。
胸の奥に、力ずくでねじ伏せてきた“何か”が――
ひどく、ひどくざわついていた。
潮風がカーテンを揺らし、
朝日の光が沙羅夜の横顔に触れた瞬間――
彼女の胸の奥で、
ずっと固く閉ざされていた扉の杭が、
ひとつ、音を立てて外れたような気がした。




