表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

異世界ファンタジー/現代ファンタジー集

敵の四天王に抱きとめられた夜 ~ぼくを殺せない四天王に、凛と生きろと言った人~

ノヴァリエル大陸。


四つの城を陥とし、北部ミストラル領を制覇。

無敗のまま、常勝の道を突き進む――最強クラン『バルデスティアズ』。


その居城、シェヴェリーン城の中庭に、夜のざわめきが走った。


黒と銀のモノトーンの軽鎧をまとった痩せた男が、

荷車をひく巨大な獣に跨っていた。


山羊のように反り返った角、黒豹のようなしなやかな胴体、狼のような金の眼。

異形の魔獣に、兵たちは震える手で剣を構え、円を描くように取り囲んでいる。


「な、何者だ……!」


松明の火が揺れ、長く伸びた影が石畳を這った。


「だから、ガジマル。止まれって言ったろ……」


獣の背の上で、男――バフ系魔導士ミロイは、

こめかみを押さえつつため息をついた。


短い咳がひとつ、喉の奥で震える。

胸の奥から、じりじりと焼けるような痛みが広がった。


最近、相棒の魔獣ガジマルは反抗期である。

言うことを聞かないどころか、敵城の中まで勝手に突っ込んできた。


(……胸、また痛ぇな。

 こんな身体で敵地に乗り込むとか、我ながらアホだよねぇ)


そう内心で苦笑しているとき、石塔の螺旋階段を下りてくる足音が響いた。


「何事じゃ……」


しなやかで、どこか艶を含んだ女の声。

その声音を聞いた瞬間、兵たちは反射的に膝をついた。

まるで、深い夜がその一声で形を変えたかのように――。


沙羅夜(サラヤ)様!」


螺旋階段の影から現れたのは、漆黒の外套をまとった女。


バルデス四天王の紅一点――沙羅夜。

武器も防具も着けていない。


華奢な身体つきとは裏腹に、

漂う気配は鋼鉄よりも冷たく、

花の香りよりも妖しく、

ただ歩み寄るだけで場の空気を塗り替えていく。


その横顔の化粧は青白く、

松明の炎がゆらりと揺れては、

妖艶な影を頬に落としていた。


「沙羅夜……四天王か?」


ミロイは思わず、息に混じるほどの小さな声でつぶやいた。

敵武将の名くらいは知っていた。


兵の一人が前に進み出て、荷車に載った二つの亡骸を指差す。

布はすでに外され、晒された若い兵士の顔には凄惨な死の痕が刻まれていた。


「沙羅夜様。この者は先刻、城外の見回りに出た新兵たちです……」


「なにぃ……なぜにこないな惨いことを」


艶やかな声の奥に、冷えた怒りが潜む。

沙羅夜の視線が、ゆっくりとミロイを射抜いた。


ミロイのクランの魔導士が、最強魔法の練習中に誤射してしまったのだ。

結果――最悪のタイミングと最悪の位置に、見回り中の新兵たちがいた。


「ご、ごめんなさい。これはその……完全に事故でして」


ミロイは慌ててガジマルから飛び降り、ぺこりと頭を下げた。

ひとりで敵城に乗り込んだ時点で無謀だが、それで済むはずもない。


しかも、相手は四天王。


「うぬ、謝って済むと思うとるんか」


浮世離れした花魁のような、甘く、だが棘を含んだ声音。

それを合図にしたかのように、兵たちの剣が一斉に抜かれた。


「でしょうねぇ」


ミロイは片頬を引きつらせて笑う。


逃げ道を計算する。

兵の数、城門までの距離――十六歩。


「貴様ぁッ!」


血気盛んな若い兵が、怒号とともに斬りかかってくる。

つられて、周囲の兵も一斉に飛び出した。


ミロイは彼らに背を向けたまま、ガジマルの綱を片手で解きつつ、低く呟く。


「スリープ」


――速い。


続けざま、


「スリープ、スリープ……」


囁くような声と同時に、

振り抜かれた剣が空中で止まり、

兵たちの動きが、糸を切られた操り人形のように凍りついた。


静寂。


「……ほぉ」


沙羅夜が目を細めた。


ミロイはゆっくりと振り向き、次の呪文を紡ぎかける。


「シャドーフレ――」


「待ちなされ!」


鋭い声が、それを断ち切った。


「ぬしの魔法が炸裂したら、ここにおるあたいの兵も、ただでは済みゃしない。

 ……どうじゃ、取引をせんかえ」


「取引?」


ミロイの片眉がわずかに上がる。

(素手……? ……まさか、こいつも魔導士なのか?)

(四天王クラスが、“丸腰”で魔導士の間合いに入ってくるなんて――ありえない)


だが、沙羅夜は、まるで散歩でもするかのような足取りで、

ゆっくりと歩み寄ってくる。


「魔法使いなのか――という顔をしとるな」


彼女は目を細めると、唇の端だけで笑った。


「まあ、鎧も着とらんしな。

 けど、安心なされ。あたいは魔法は使えんよ」


――その言葉こそが、むしろ恐ろしい。


彼女は、ミロイの剣の間合いぎりぎりで立ち止まった。

その気配はまるで、夜そのものが立っているかのようだった。


「取引とは?」

わずかな震えが、ミロイの背筋を撫でた。


「ああ、ここでぬしが自分の喉を斬って死んでくれるなら――

 今回の件、この沙羅夜が水に流してさしあげましょう。

 ぬしの仲間を追うのも、やめておきんす」


中庭にざわめきが走る。


「……本当に?」


「ほんによ。あたいは嘘は嫌いでねぇ。

 命の貸し借りに、嘘ついてもつまらないでありましょうや?」


「四天王のお方がそう仰るなら、間違いないですよね」


ミロイは小さく息を吐き、腰の魔法剣を抜いた。

冷たい刃を、自らの喉元に当てる。


兵たちの喉が、ごくりと鳴る。


沈黙。


「あっははははっ」


唐突に、沙羅夜が笑い声を上げた。


「ぬしは、演技が下手じゃのう。

 そんな目で、本気で死ぬ者がおるもんかえ」


ミロイは剣を下ろし、肩をすくめた。


「やっぱりバレちゃいましたか。

 僕が自害なんて、するわけないでしょう」


「なんでじゃ?あたいの話が嘘だと思うたんか?」


「僕の命と引き換えに、仲間みんなの命が助かる。

 ――そんな釣り合い、全然取れてませんよ」


ミロイは沙羅夜と会話を続けながら、門付近の兵をちらりと数える。十二。

胸が痛い。だが、表情には出さない。


「うちのクランは、自分の死よりも、仲間の死をすごく悲しむんです」


静かに呟きながら、心の中で手順を並べる。


(門前の兵に範囲魔法をぶち込んで、

 砂埃が上がった隙にガジマルの首にしがみついて、壁外の闇へ――)


「だから僕は、死ぬわけがないんですよ」


ミロイは覚悟を決め、魔法剣を握り直した。


「あっ、あそこに黄色いドラゴンが!」


沙羅夜の背後を指差すと同時に、門の方向へ跳ぶ。


「デステンペス――」


バフ系最強の攻撃呪文を詠唱しかけた、その瞬間。


背中に何かが叩きつけられ、ミロイの体が前のめりに崩れた。


「な……!」


それは沙羅夜の身体。

振り返るより早く、その胸元に、彼女の細い背中がするりと入り込んでくる。


「これ以上、あたいのかわいい兵たちを傷つけるのは、見過ごせんなぁ」


耳元で甘えるような声が囁く。

ミロイの右腕――魔法剣を握る手首は、白魚のような指に絡め取られ、

信じられないほどの力で関節ごと封じられていた。


胸の内には、華奢な身体と、外套の香水の香り。

沙羅夜の体温と、細い筋骨が同時に押し寄せる。


「さぁて、ここからどうするんよ?

 その空いてる左手で、ぬしの背に隠し持った小刀でも抜いて、

 あたいの喉を掻き斬ってみるかえ?」


沙羅夜は首筋越しに顎をしゃくり、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

乱れた髪が額にかかり、妖しくも凛とした、美しい横顔が目に映る。


(こんな格好、クランリーダーの兄やんに見られたら……)


ミロイは苦い顔をした。


(まずは沙羅夜を突き飛ばして、距離を取って主砲の魔法を――)


そのとき。


「うっ……!」


視界が暗転し、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。

肺から空気が抜け、膝が崩れ落ちる。


「ん?」


沙羅夜はすぐに振り返り、崩れ落ちるミロイの腰を抱きとめた。


「ぬし……病か?」


ミロイは青ざめた顔で、微かに頷く。

魔法剣が手から滑り落ち、もはや自力で立つことすらできない。


「こんな身体の者を、ひとり敵城へ送り込むとは……

 ぬしの将は、しょうもないやっちゃねぇ」


「はは……ですよねぇ……」


ミロイは目を閉じたまま、力なく笑った。


「兄やんは、女の尻ばっかり追いかけて、楽なことしかしないし。

 カッコつけてばっかりで、面倒なことは全部、みんなに任せて……」


言葉とは裏腹に、その声音には深い信頼が滲んでいた。


「それでも、兄やんのそばにいると、なんか勇気が出るっていうか、

 ……こっちも、ちょっとはカッコつけなきゃって」


「それで、ぬしは、……そんな身体で死にに来たんか?」


「いえ……死にたくはないですよ。

 でも、もうダメかも……。みんな……兄やん……ごめ……」


ミロイの頬に、一筋の涙が伝う。

そのまま瞼が落ち、意識が暗闇に沈んでいった。


その異変に気づいたガジマルが咆哮を上げる。

門兵をなぎ払いながら、闇の彼方へ駆け去っていった。


沙羅夜は、ミロイの濡れた頬にそっと指先を触れた。


「これもまた、世迷言かねぇ……」


その横顔に、燃え残る松明の光が静かに揺れていた。



――夜が明けた。


シェヴェリーン城の主塔(ベルクフリート)四階。

開け放たれた窓から、ブレージス港の心地よい潮風が流れ込む。


その風とともに運ばれてくる微かな声に、

ミロイはまどろみの中――目を閉じたままで耳を傾けていた。


「……あたいの父はねぇ、北の最果ての寂れた漁村の、貧しい漁師だった」


沙羅夜は静かに語りはじめた。

窓のふちに指先を添えながら、

彼女はゆるく身を寄せた。


遠くの海を行き交う、青と白の帆船を眺めつつ――

まるで、過ぎ去った季節の匂いを思い出すように。


「母は(おも)い胸の病でね。

 あたいを産むと同時に、天へ帰ってしもうた。

 あたいはいつも、ひとりぼっちで……

 泣きたいくらい寂しくてねぇ」


沙羅夜は、かすかに笑った。

それは“懐かしむ笑み”ではなく、

“もう戻れない痛み”を抱いた笑いだった。


「心の中で、何度も叫んでたんよ。

 ――おかあさん……あたいのおかあさん……どこにおるの、ってねぇ」


港の向こう、朝焼けの中で船のマストがゆらりと揺れる。

海風の音だけが、ふたりの間を通り抜けていく。


「父は無口で、いつも魚の脂の匂いがしてた。

 髭はぼうぼう、爪の中は真っ黒で、

 日焼けした顔には(しわ)が深く刻まれて……

 あたいは、そんな父が大嫌いだった」


言葉は辛辣なのに、

声音には、どこか懐かしい震えがあった。


「漁から戻ってくるたびにね。

 船着場で抱き上げられて頬ずりされるのが、嫌でねぇ」


沙羅夜はここで、ゆっくりと目を細めた。

遠いもの――戻れない場所を見るまなざしで。


「まわりの子は皆、あたいをいじめた。

 傍に来るなと怒鳴った。

 石を投げて、棒を投げて、大きな犬で追い立てた。


 そんなとき、

 あたいはいつも、丘の上の灯台まで逃げて……

 転びながら、転がりながら、ちっさい身体で必死に走ってね」


その記憶は、

“泣きじゃくる少女”の時間そのままの温度で語られた。


「灯台の上から……

 みんなが楽しそうに遊ぶ港を、陽が暮れるまでずっと見下ろしていた。

 あたいだけが、そこに居場所がなかった……」


沙羅夜は、そっと窓の外に視線を流した。


港に停泊する数隻の船のマストが、朝の風を受けて同じ方向へ傾く。

その港の奥には、尖塔の高い大聖堂が威厳を放ち、

赤銅色の屋根が寄り添うように連なっていた。


だが――

沙羅夜の目が見つめていたのは、

いま目の前に広がるこの華やかなブレージス港ではなかった。

それは、かつての故郷にあった、寂れ果て、荒れ果てた、

あの“灰色の港”の記憶だった。


一拍、静寂。


「……父は、男手ひとつであたいを育てた。

 そんな一本気な父の口癖は、女のあたいにも『凛と生きろ』だった。

 弱音を吐くことを嫌い、強いものに頭を下げることを嫌った。


 さほど難しくもない、強いものにひれ伏して生きることよりも、

 潔く討ち死にを選ぶ、そんな父だった」


沙羅夜は、かすかに笑った。

笑い声は震えていたが、誇りの響きも混じっていた。


「だからねぇ……

 そんな父だから、

 ……村に攻め込んできた白蛮軍の矢に、真っ先に倒れた。


 武器も持たず、

 村に入るなと、

 たったひとり、

 両手を広げて道を塞いだ。

 

 その胸に、無数の矢が――

 まるで一陣の風のように、一瞬で突き刺さった」


「あたいは声も出んかった。

 あまりにも、あっけなくて……」


沙羅夜は、一瞬だけまぶたを震わせた。


「あたいは父に、事前に小舟の中に隠されて、

 シートの隙間から、父の上を無数の馬の群れが、

 土ぼこりを舞い上げて、走り過ぎていくのを見ていた」


あの瞬間だけが、時間が止まったように語られる。


「力も無いくせに……

 この世に娘をひとり残して……


 ……


 そんな父の言いつけどおりに、

 小さなあたいは泣きじゃくりながら、

 舟を固定している縄を解いた……」


沙羅夜を乗せた小舟は、冷たい海へ流れていく。

焼け落ちる村、逃げ惑う人々を背に、

幼い彼女は、波に揺られて遠ざかっていく故郷を、

シートの隙間から、いつまでも眺めていた。


「数日後、辿り着いた浜で……

 今のクランのお館様に拾われた」


そして、ほんのわずかに唇を噛む。


「ひれ伏して――

 地面に額をこすり付けて――

 命乞いをすればよいものを……。

 あたいは、あたいをひとりにした父を恨んだ」


それはもう怒りとも悲しみともつかない、

深い海の底に沈んだ感情だった。


「…………そうだねぇ、

 もう十年以上も前の、遠い、遠い話になるねぇ~」


その声は、笑っているようでいて、

泣いているようにも聞こえた。


「沙羅夜さん……」


寝台の上で、ミロイが重たげに上半身を起こした。

胸を押さえる手が、微かに震えている。


そのかすれた声に、窓辺の沙羅夜が振り返った。


「ああ、起きたんかえ」


少し照れたように、けれど柔らかく笑う。


「……それでもあたいは、父に一度も言わなかった。

 港でいじめられてたことを、ね」


視線を落とし、ひとつ息を押し出す。


「――なぜだと思う?」


ミロイはゆっくりと瞼を開き、息を整えながら答える。


「……心配、かけたくなかったから……ですか」


「それもあるやろね」


沙羅夜は、細い肩をすくめるように少し笑った。


「けどねぇ――あたいにも、あんな父の血が流れてんのよ。

 意地っぱりで、素直じゃなくて、弱音なんざ吐けやしない。

 父娘(おやこ)って、……似ちまうんだよねぇ」


ミロイは苦しげに息を吐きながらも、身体を起こす。


「……なんでそんな話を、敵の僕に」


「なんでかねぇ」


沙羅夜はそっと視線を戻し、窓の外の光に細い指先を差し出した。


「ぬしが……あたいの母と同じ、胸の病を抱えてるせいか。

 それとも、この潮風が……昔を思い出を連れてきたせいかねぇ」


ミロイはふっと微笑みかけたが、その笑みはすぐに消えた。


「……あなたの心の中には、いつも冷たい雨が……降っているみたいだ」


「ずいぶんな物言いやねぇ、敵のくせに」


そう言いつつ、沙羅夜の声にはとげがなかった。


「あたいはね、父に助けを求めたことなんざ一度もなかった。

 寂しいときに名を呼ぶのは、いつだって顔すら覚えてない母ばかりで――」


沙羅夜は小さく笑う。

その笑みには“悲しみ”と“諦め”がふわりと差していた。


「生きることに不器用なくせに、『凛と生きろ』だとさ。

 ――まったく、お笑いだよねぇ?」


「……お笑いなんかじゃ、ないと思います」


ミロイは首を振った。

その声は弱いのに、不思議と響いた。


「うちの兄やんも、そんな人です。

 弱いくせして無茶ばかりして、楽なことしかしないのに……」


そこで一度、ふっと苦く笑う。


「それでも兄やんは、

 “俺が、お前らに差し出せるのはこの命くらいだ”って、

 言葉にはしないけれど……みんな、わかってるんです。


 だから……兄やんのそばにいるだけで、勇気が出る。

 なんでも、できる気がする。

 ……そんな人なんです」


沙羅夜は、ほんの少し目を細めた。


「なら、ぬしはなんでここへ来た? 

 ……そんな身体で」


「……ちょっと調子に乗って、カッコをつけちゃって……」


ミロイは天井を見上げる。

その目には、痛みよりも、誇りが宿っていた。


「僕も、兄やんの隣で、胸張って歩きたかった。

 ――だから、みんなに止められたけど、ここに来たんです」


沈黙。


そのとき、寝室の扉が荒々しく開いた。


「沙羅夜様!!」


四人の衛兵が長槍を構え、雪崩のように部屋へ踏み込む。

続いて、入口には二人の弓兵。

矢先はまっすぐ、ミロイの胸へ向いていた。


「その男を、直ちに地下牢へ連れて来いと。

 悪豚卑(アントンヒ)様がお怒りで……」


悪豚卑とは、車輪轢きなどの派手な極刑を好む、卑劣な拷問屋であった。

衛兵たちは痩せたミロイの腕を捻り上げ、後ろ手に縛り上げる。


「ま、待って……くれ」


ミロイはよろけながら、喉の奥で咳が震えた。


「沙羅夜さん……」


沙羅夜は短く息を呑んだ。


「……すまぬ」


たったそれだけの言葉。

しかし、ミロイは小さく首を振った。


「違う……」


猿轡が嵌められる直前、

かすれながらも必死に紡ぐ。


「沙羅夜さんは……そうじゃない……」


衛兵が引きずろうとするのを耐えながら、

ミロイは涙をにじませ、絞り出す。


「そうじゃないよ!!

 あなたは……世捨て人のふりして……

 自分をごまかしてるだけで……

 ほんとは……弱い人間を見捨てられる人じゃ……ない……」


沙羅夜は、困ったように視線を逸らした。


衛兵のひとりが猿轡(さるぐつわ)をミロイの口へ押し込み、

魔法の詠唱を封じる。


「立て!歩け!」


背から強く押され、ミロイはふらつきながらも歩きだす。

首元から汗が落ち、足元がよろめいても――

振り返ろうと必死に扉の方へ歩いた。


沙羅夜は背を向けたまま、何も言わなかった。

いや――何も言えなかった。


ただ、胸の奥で父の声が蘇る。


――凛と生きろ。

――ひれ伏すくらいなら、胸を張って潔く散れ。


幼いあの日から、

一度も色褪せることなく、

今もなお背骨の奥を握り締めるように生き続けている声。


衛兵に引かれ、

小さな背中が扉の向こうへ消えようとした、その刹那――


「……ミロイ殿」


沙羅夜は振り返ると、自身も驚くほど、小さな声だった。

しかし、その細い呼び声に、衛兵たちの足が止まる。


振り返ったミロイの瞳には、

まだ光が宿っていた。

死へ向かう者の目ではなく、

誰かを信じる者だけが持つ光だった。


沙羅夜は、ほんの一瞬だけ――

少女のように目を揺らした。


そして、静かに微笑む。


「……そなたとは……もっと違った形で巡り合えてたら、

 ……よかった」


それ以上は言えなかった。


敵同士――

言葉の先に踏み出せば、今の自分が壊れてしまいそうだった。


沙羅夜は、またそっと背を向けた。



部屋の中から喧騒が消え、

開いた窓から潮風が吹き込む。

朝日の色を帯びた光が、ゆっくりと部屋を満たした。


沙羅夜は、ゆるりと外へ視線を向けた。

かつての灰色の港は、どこにもない。


だが――


扉の向こうに消えていった、痩せた背中だけが、

胸の奥に抜けない棘のように刺さっていた。


あんな弱い身体で、

あんな無茶をして、

あんな状況に追い込まれて――


それでも、あの男は、

“誰かのために生きようとする目”をしていた。


その瞳は、父とどこか似ていて。

けれど父とは決定的に違う。


彼の目は、

ひれ伏すことも、討ち死にすることも選ばなかった。

――“生きる”ことしか望んではいなかった。



「……これも、世迷言かねぇ」


世捨て人を気取って吐き捨てたつもりが、

胸の奥のざわつきは、かえって増すばかりだった。


「……あたいの中に流れる血は、

 ほんに厄介でありんすなぁ……」


沙羅夜は小さく呟いた。

胸の奥に、力ずくでねじ伏せてきた“何か”が――

ひどく、ひどくざわついていた。


潮風がカーテンを揺らし、

朝日の光が沙羅夜の横顔に触れた瞬間――


彼女の胸の奥で、

ずっと固く閉ざされていた扉の杭が、

ひとつ、音を立てて外れたような気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ