20 3極冷戦2
3極冷戦の第2ラウンドは、中東はパレスチナ(読者の世界のイスラエルとその周辺)で起こった『中東戦争』である。
欧州大戦中、イギリスがアメリカのユダヤ人を煽ったことにより、欧州大戦末期の1945年中頃から、シオニズム運動は激化。1946年頃から『聖地イスラエル』へと勝手に移民するユダヤ人が激増しており。これに現地住人であるアラブ人は強く反発していた。
史実と違い、国際連合という広く各国が集まって話し合う場が存在しなかったこと。パレスチナを管理していたイギリスにユダヤ人を止める気がなかったこと。欧州大戦で拡大した生産力の消費先を、アメリカ国民が探していたこと。これらを理由として、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の闘争は激化。
1948年2月。アメリカやイギリスのユダヤ系退役軍人を中心とした『イスラエル軍』と、アラブ諸国から集まった『アラブ義勇兵』が、現地に集まった一般人よりも先に沸騰。パレスチナ西部を中心に武力闘争を始めてしまった。
アラブ人側は、地中海の覇権を狙っていたイタリアと、イスラム教徒の多いトルコ、つまり同盟側が支援した。
ユダヤ人側は、アメリカのユダヤ人コミュニティや商人が兵士と資本の面から強力にバックアップした。
世界地図を見れば分かる通り、アメリカからパレスチナへ海路にて貿易しようと思えば、ジブラルタルを通過しイタリア半島の南を通るのが近道だ。
しかしそのルートは同盟側の海域なため、イタリアやスペインの臨検を受けることが多く。では太平洋を通ろうかと考えれば、海軍力の鬱陶しい共栄圏の領域を通ることになる。
アメリカからイスラエルへの援助は、喜望峰・スエズ運河を通るルートが主に使われた。しかしスエズ航路は、アラビア半島の西側という、アラビア人の領域ド真ん中を通るため。アラビア人海賊による被害が多発した。
そこでアメリカは、戦時国債支払いを減額する代わりに、イギリスとフランスへ、ダルエスサラームやジブチといった幾つかの軍港へ艦隊を駐屯・海賊討伐へ当たらせることを認めさせた。
西インド洋における、アメリカの海賊討伐は上手くいかなかった。
海賊側は、南アフリカやインドにて、イギリス・アメリカ製のトラックエンジンを確保。それをアラブ商人ネットワークでアデン保護領に持ち込み、木造漁船に据え付けることで、高機動な海賊船を多数建造していた。
海賊の狩場となる紅海やアデン湾は、護衛船団を組むには狭すぎるため。またパレスチナに存在する港湾にそれだけの船団が停泊出来る余地がないため。イスラエル行の船団は小規模であり、漁船改造の海賊船が群れとなれば、頑張れば護衛の巡洋艦ごと狩れることがあった。
そうして拿捕したアメリカ艦船と積荷は、アラブ義勇兵に送る分を除いてイタリア領東アフリカやインドの商人に転売され。海賊の故郷の漁村の発展や海賊ネットワークの強化、イギリス植民地の独立運動への資金となった。
この海賊ネットワークは、南アフリカやインドのイギリス軍が機能していれば成立しないものだった。しかし独立運動盛んな南アフリカとインドのイギリス軍にやる気がなく。そもそもイギリスも、中東戦争にアメリカをのめり込ませて国力を削りたかったので、海賊ネットワークを調べることすらせず。どころか、イタリアの艦船がスエズ運河を通過することを止めすらしなかった!
同じ連合国陣営であるイギリスが信用出来ないアメリカだったが、動いているのはユダヤ人コミュニティが主体で、その他の商人は武器や缶詰を売るという『健全な』商取引に従事するだけ。そしてそれらの売上は、海賊討伐よりも儲かっている。拿捕された巡洋艦は廃艦予定が立っていたし、海賊討伐に回している軍人は軍主流派に反抗的な者ばかり。
だからアメリカという国は、それ以上中東戦争にのめり込まず。ユダヤ人コミュニティが資金と人を浪費していくのを傍観していた。
イギリスとイギリス内のユダヤ人コミュニティはというと、欧州大戦での多大な貢献を理由に独立運動が激化しているカナダ・南アフリカ・インドの独立を引き延ばしつつ、それらの国々に付ける様々な首輪の選定で忙しかった。
一方の同盟側。
イタリアはアラブ人側に武器を売れただけで満足。
トルコは信仰がかかっているので、人も武器も多数投入。ドイツから購入した欧州大戦の戦訓をパレスチナで試しつつ、ついでにフランスが見捨てていたシリアにも侵攻して傀儡政権を樹立することに成功。
そんな調子なので、いくらユダヤ人側に資金と熱意があっても勝てる訳がなく。
1950年4月28日、パレスチナで戦っていたイスラエル軍最後のひとりが自爆。指導者なく始まった中東戦争は、ユダヤ人の敗北で終わった。
1951年4月、イギリスはパレスチナ西部のヨルダンへの編入を認め、ここに正式に中東戦争が終わり、ユダヤ人の完全敗北とシオニズム運動の終焉が決まった。
アメリカ国内では『無駄に戦争を煽った』として、ユダヤ人コミュニティは弾圧され、資本はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)系商人に奪われ、往年の政治力は見る影もなくなった。
アメリカの足を引っ張ったイギリスも、結局1951年1月1日付でインドが、61年1月に南アフリカが、それぞれ独立。カナダも、82年2月に独自の憲法を成立させ、イギリスから離れていった。
同盟諸国はシリアまで勢力を伸ばし、同時にアラブ諸国へ多大な恩を売れたことで、インド以西の中東へと勢力を伸ばした。
読者の世界では、中東とくにペルシャ湾岸は一大油田地帯だが、この世界ではダンジョンから幾らでも得られるため、産油国の有利はほぼない、という点は、注意が必要かもしれない。




