19 3極冷戦1
欧州大戦は終わり、その精算の時間が来た。
しかし、多くの国民が兵士として戦死し、工業地帯が瓦礫の山になり、資金を地中海同盟に絞り取られていたドイツが支払えるものは、領土くらいしか残っていなかった。
戦勝国の側は、領土を獲得しても困る状態だった。ドイツ領を得ることで、その地から本国がドイツ化するという現実的な危機感があった。
広く本土を戦場にされ、多くの国民を中毒兵として処分させられたフランスは、賠償があったところで再建は不可能だった。
とばっちりで国土を瓦礫の山にされた低地諸国は、再建のためと植民地から絞り取る余力すらなかった。
多くの国民を中毒兵にされたポーランドは、農業以外の産業が消滅していた。
ソ連も、ウラル以西は人もモノもまともに残っておらず。臨時のつもりだったスヴェルドロフスクを正統な首都として認めるしかない状態だった。
だから連合国とソ連は、ドイツを自勢力にとっての盾にすることで、高額の軍事費を負担させ賠償とした。
連合国側ドイツはまだ人がいたので、アメリカが武器を供与する形で兵士な肉盾にした。
ソ連側ドイツ、オストプロイセンには軍需も民需も工場が残っていた。なのでこれを人口の残るポーランドに編入し、政治将校の指導の下、ポーランドは発展していった。
欧州大戦の勝者となったソ連。
戦争により技術は発展したが、再建出来るだけの人口とインフラはなかった。戦前ソ連の中核を担っていたレニングラードとモスクワはドイツの略奪によって空き缶ひとつ残っていなかったし、スターリングラードは瓦礫と死体の山で復旧にはまだまだ時間がかかった。
あまりに戦死者が多すぎて、ウラル以西の過疎化は酷かったし、ウラル〜ドニエプル川までの激戦地は不発弾の処理をしなければ農地としても使えない有様だった。
首都スヴェルドロフスクやチェリャビンスクといった工業地帯は存在しているから、時間をかければ『偉大なる祖国』の復活は可能だろう。しかしポーランドの向こうで着々と軍備を整えている連合国に備えるのは、今のソ連では不可能だった。
そこでソ連は『極東の友』日本を頼った。
対中毒兵発煙弾開発の過程で、日本軍が必要としていた中毒兵の捕虜を送った恩があったし、日本の保護国ということになっているトランスアムール共和国には、ソ連資本の工場が幾らか残っていた。
社会主義の輸出に対して、アメリカ以上に厳しく当たっている点は良くないが。連合国艦隊と真正面から戦って勝てるだけの海軍力を持つ日本は、ソ連が組むには最適な国だったのだ。
そして日本側は。軍と政府は大陸の未管理ダンジョンから強化野生動物がやって来ることを恐れており。ソ連と組むことで、ソ連領のダンジョンの管理厳格化を促したがり。経産界からはダンジョンから溢れる資源の売り先として、実質的な未開拓地を山ほど抱えるソ連は魅力的な市場に見えていた。
1945年7月26日、トランスアムール共和国首都ウラジオストクにて。日本・ソ連・満洲国・トランスアムール共和国・カムチャツカ共和国・タイは『共に繁栄するための経済圏構想』を宣言。
以後これらの国々は『共栄圏』を名乗り、主に連合国陣営と対決していく姿勢を見せる。
こうして世界は、
・アメリカ、イギリス中心の『連合国』
・イタリア、チェコスロバキア中心の『同盟』
・日本、ソ連中心の『共栄圏』
という三つの陣営に分かれ。軍事的・経済的に争うようになった。
しかし、欧州大戦の反省から、大国が直接的に戦火を交えるのはお互いに被害が大き過ぎることから。軍事的な紛争は代理戦争の形を取ることがほとんどだった。
3極冷戦の始まりと言われるのは、ハンガリーとルーマニアがトランシルバニアの領有権をかけて始めた『トランシルバニア戦争』だろう。
欧州大戦中の1943年中頃から、ルーマニア領だったトランシルバニアへと、ハンガリーが偵察兵を送り込んだり、領空侵犯したりと挑発行為を繰り返していた。
またドイツの敗北が明白になっていた1945年3月末から、同盟諸国は武器の売り先を探し始めていた。武器の生産量を絞ってはいたのだが、それでも余りそうだったのだ。
そこでチェコスロバキアの商人が、ハンガリーと接触。ドイツから委託生産されていた『StG44』アサルトライフルや『パンター』『ティーガーⅡ』戦車といった最新鋭の兵器を在庫の数だけ売りつけた。
一方ルーマニア側は、チェコスロバキアの動きを聞きつけ。ソ連と交渉を持ち、余っていた『モシン・ナガン』小銃や『T‐34』戦車という、旧式化しつつあった兵器を山ほど購入した。
両者共に『十分な武装がある!』と強気になっていたため、欧州大戦の終わりが見えていた1945年6月1〜3日。国境線での投石や罵倒による小競り合いがいつの間にか大規模化。いつの間にかトランシルバニア戦争に至っていた。
火力の面では、圧倒的にハンガリーが優勢だった。しかし陣地構築と兵の数では、圧倒的にルーマニアが優勢だった。
後世にて『質と量との戦争』とも呼ばれるこの戦争は、欧州大戦の在庫処分と言わんばかりに、チェコスロバキアとソ連が、それぞれ肩入れする方へと武器を売り続けたため泥沼化。
中堅国に過ぎないハンガリーもルーマニアも息切れしたことで、1949年9月1日、停戦協定が結ばれ、双方得るものなく終わった。
なお武器貿易への支払いのための予算が足りなくなったことで、ハンガリーはチェコスロバキアの、ルーマニアはソ連の、実質的な傀儡国となり。両国は同盟・共栄圏の盾として、重い軍事費を支払い続けるはめになってしまった。




