15 欧州大戦3
バトル・オブ・ブリテンもとうに落ち着き、夏の近付きを感じられた1941年6月5日、ソ連はエストニア及びラトビアに最後通牒を送った。
同年5月頃から、ソ連は両国の国境近くで軍事演習をしたり、領空ギリギリに戦闘機を飛ばしたりと挑発を繰り返していた。
熊戦争によって余計に長引いた大粛清からの赤軍の再建にようやく目処が立ったソ連は、イギリスとドイツの戦争で国際的な視線が逸れているうちに、勢力を拡大しようと目論んだのだ。しかしタイミングが悪かった。
バトル・オブ・ブリテンにより、空軍力によってイギリスを屈服させることを諦めたドイツは、Uボート艦隊でイギリスを干上がらせることを企んでいたが、時間がかかることを理解していた。
もはやイギリス艦隊は脅威ではないため、スウェーデンからノルウェーを経由した鉄鉱石の輸入は順調だったし、ルーマニアからの石油もちゃんと輸入出来た。オーストリア・チェコスロバキア・イタリアからの航空機や戦車のエンジンに小銃弾もたんまりと輸入出来た。デンマークからの農産品や、デンマークを挟んだアメリカからの民需物資の輸入も行えていた。
しかし輸入するための資本はというと、ゲットーから確保している貴金属や宝石があっても不安だった。だからドイツは、更なる軍資金獲得のため、残るバルト諸国であるエストニアとラトビアに独立保障と軍事顧問団の派遣を行う代わりに、幾らかの資金を払わせようと水面下で交渉を続けていた。
その交渉がまとまりかけていた矢先に、ソ連は最後通牒を送ってしまったのだ。
ソ連の最後通牒に対してドイツは、6月6日、エストニア及びラトビアに独立保障を宣言。
しかしドイツの国家予算とバトル・オブ・ブリテンにかかった予算の推定値から、ドイツがソ連と戦うのは不可能だと踏んでいたので、ソ連はこれを無視。8日、エストニア・ラトビアへと侵攻を開始する。
ソ連は完全にドイツを読み誤っていた。エストニア・ラトビアへの侵攻が確認出来た直後、ドイツはソ連に『両国の保護』を名目にソ連へ宣戦布告。ポーランド領内にて治安維持に当たっていたドイツ軍のうち、手の空いていたモノを先鋒としてソ連領内へと攻め込んだ。
あくまでドイツ軍にとって、この初動は『威力偵察』のつもりでしかなかった。しかしまともに準備の整っていなかったソ連側陣地はあっという間に蹂躙され。
ドイツ側としても準備が全く整っていない、7月に入る前に、黒海からオルシャ(ベラルーシ東部の都市)までのドニエプル川を前線として停滞、ヴィツェプスク・ポラツク(ベラルーシ北東部の都市)を陥落させ、ラトビア全土を奪還、エストニアもあと少しで全土奪還出来るまで、ドイツ軍は前進した。
ドイツの国家予算から見て、ドイツが対ソ戦を始めるのは不可能だと分析したソ連上層部の考えは間違っていなかった。だが、この時のドイツを率いていたのはナチスであり。ドイツ国民を纏めていたのはナチスの掲げるイデオロギーである。
赤軍がロシア帝国を打倒した原動力に似た熱狂が、ドイツの軍と国民を対ソ戦へとのめり込ませていた。
おまけにこの世界のドイツは、パルチザンやゲリラと睨んだ人々を片っ端からゲットーに突っ込んでダンジョン探索させているため、史実よりも兵站線が安全だった。安全と言えるまで、怪しい人々をゲットーに突っ込んでいた。
だからこの世界のドイツは、史実よりも生産力があったし、兵力の損失も少なかった。そんな中で、8月になるとちゃんとした対ソ戦略が練られるようになり。
8月20日、ドイツ軍はドニエプル川全域を渡河。レニングラード・モスクワ・スターリングラードを目標に、前進を始めた。
大粛清が史実より長引き、軍・官僚・市民の多くが処刑され全体的な国力がガタ落ちしていたこと。
表面的な軍の再建を優先したがためにそれを支える市民の生産力と官僚組織の再建が出来ていなかったこと。
少数だけ機能していた軍組織が開戦初期にドイツ軍に殲滅されてしまったこと。
これらを主な要因として、ソ連軍は敗退を続け。11月初頭、モスクワが陥落しゲリラも12月までに殲滅され。12月25日、レニングラードも降伏する。
しかしソ連の最高指導者であるスターリンと彼を支える官僚・参謀組織は、モスクワでの決戦に見せかけた遅滞戦闘により、スヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルク)まで後退、組織再建を進めており。ヴォルガ川・カマ川・ウラル山脈を『第二防衛線』とする防衛・反撃作戦の準備を進めていた。
ソ連反撃の重心を担うのは、ヴォルガ川流域は南部西岸に位置するスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)。南下すればバクー油田へとアクセス出来る、ソ連有数の重工業都市である。
その重要な都市そのものを要塞代わりに。バクー油田のあるコーカサス方面はゲリラ戦・焦土戦術による遅滞戦闘を展開することで、ドイツに多大な出血を強いて、イギリスがフランスか低地地方に西部戦線を構築するまで耐えて反撃の力を溜める。
スターリンはそう戦略を決めた。




