14 欧州大戦2
1940年4月1日から、日本はドイツと戦争を継続しているイギリスに、駆逐艦や巡洋艦といった艦艇を中心とした武器輸出を始めた。
理由不明な冒険者の身体能力向上が広く市井でも噂されるようになり、またダンジョン探索の余波で栄養状態と衛生環境が改善され人口が増え続けていたこの頃の日本は、ようやく鉄鋼を完全に自給出来る、どころか輸出する余裕すら出てきており。イギリスからの注文はむしろ渡りに船であった。
開戦とほぼ同時に、ドイツがUボートによる群狼作戦を展開、対策が立つまでに戦艦すら沈められ。またバトル・オブ・ブリテンの余波で小型艦をかなり沈められたイギリス海軍はかなり追い詰められており。日本からの『週刊駆逐艦』『月刊巡洋艦』は天の慈雨に等しいものだった。
日本から輸送された艦船はシンガポールにて、インドやオーストラリアから徴兵した乗組員を乗せて慣熟訓練を行った後、イギリス本国までスエズ航路で送られた。
しかしこの航路上の、ジブラルタルを越えたポルトガル沖で、Uボートの襲撃によって沈む艦艇は多数あり。イギリスまでたどり着けたのは、日本が売却した艦艇のうち7割程度。その後の損耗もあったので、戦後まで残ったのは3割に満たなかったという。
これだけUボートが戦果を上げられたのは、ナチスが独自開発した『魔道具』による影響が大きい。
ミュンヘンの遺跡型ダンジョンで教練を行っていたナチス親衛隊が回収した、使い道の分からなかった機械のようなモノを解析することで開発されたドイツの魔道具。その中に、電波の出ない無線機や、音を吸収し発電するタイル、等があった。
Uボートはこれらの魔道具を使うことで、史実よりも安全に、確実に群狼作戦を展開。護送船団丸ごと食い散らかしたり、戦艦をなぶり殺しにしたり出来たのだ。
バトル・オブ・ブリテンの裏で、ドイツは『ゲットー政策』を完成させていた。
これはユダヤ人や反ナチス的な人々を特定のダンジョンの存在する街に押し込め、その街を封鎖。ダンジョンから産出する資源を買い叩くことで、そういった人々を自発的にダンジョン探索者にする、という政策だった。
嫌らしいのは、それら特定のダンジョンは食料と衣類向き繊維を入手出来ないモノが選ばれていたことだろう。ゲットーの人々は生きるため、買い叩かれると分かっていてもダンジョン探索に乗り出すしかなかったのだ。
こうして得られた資源はドイツ国民の生活を支え。金や銀、宝石はイタリア陣営に売られて武器となって前線を支えた。
バトル・オブ・ブリテンの裏で動いていた国は多数あった。
例えばアメリカは、日本やイタリア、ドイツから流入していたダンジョン産の金によって大恐慌中にインフレが進行、ニューディール政策が成果を出せていなかった。そんな状況下で、イギリスと自由フランスが軍需民需問わない多数の製品の発注をかけたのだ。しかも代金として中南米に残るイギリス・フランス資本を支払って。
アメリカは喜び勇んで製品を製造し、カナダに送った。イギリスに直送すればUボートの餌食になる恐れがあったからだ。
このイギリス・自由フランス向け輸出の拡大により、アメリカはようやく大恐慌から立ち直り始めた。
例えばイタリア・オーストリア・チェコスロバキアは、ドイツに金や銀とのバーター取引で軍需品を売っていたが、それで得た資金で軍備を拡張しつつ、自由フランスを援助することでイギリスからの攻撃を避けていた。
例えばスペインは、イタリアとポルトガルの援助無ければ国が成り立たないほどの政情不安にあり。
そんな中、イタリアの多大な援助を引き出していたフランシス・フランコ将軍は、ダンジョンで手下の軍を鍛えつつ資源を獲得。得た資源をジブラルタルのイギリス軍やヴィシーフランスに売却することで援助に依らない独自の資金を獲得。
この独自の資金を利用することで、政治家としての地盤を固め。バトル・オブ・ブリテンが落ち着く少し前に、敵対派閥をだいたい失脚させてスペインに安寧をもたらした。
国内が安定化した1941年中頃からは、スペインはポルトガルと共にイタリア寄りの態度を明白化。イギリス・ヴィシーフランスとの貿易を拡大して国内産業が立ち直るまでの繋ぎとした。
例えばルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラビア・トルコは、イタリアとソ連からの圧力に屈しないよう、フィールド型ダンジョンという閉鎖空間で軍事演習を繰り返し、軍の練度を上げていた。
例えばタイは、イギリスや自由フランスへの輸出を拡大するため、日本から工業機械を輸入。更なる工業化を目指していた。
例えばソ連は、長引いた大粛清をようやく終え。赤軍の再建に邁進しつつ。
カムチャツカに逃げた『裏切り者』が残した『ダンジョン探索の手引書』を元に、試験的にダンジョンという鉱山を稼働させてみたところ。下手に北極圏の鉱山を稼働させるよりも金や石炭、鉄に木材といった資源が手に入ったので、ドイツ方面は警戒を強めつつ、シベリア各地でダンジョン探索に力を入れた。
なおシベリアでのダンジョン探索は、粛清まではいかない左遷という扱いだった。
欧州大戦の当事者でない諸国にとって、バトル・オブ・ブリテンの期間は商売の拡大や軍備増強を行うのに都合の良い期間でしかなかった。




