13 欧州大戦1
アジアでは『熊戦争』にソ連が敗北した動揺が広がっていた1939年8月20日、ナチス率いるドイツがポーランドに『ダンツィヒか戦争か』を迫り。
ポーランドがダンツィヒ等の返還を拒否したことで、9月1日、ドイツはポーランドに宣戦布告。ポーランドに独立保障していたフランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、ここに『欧州大戦』が始まった。
この世界のドイツは、ダンジョン探索を行うことで金や銀といった貴金属や、鉄・木材・石油といった資源を得ており。史実よりもヴェルサイユ条約の賠償金支払いは順調であったし、予算も多少余裕があった。しかしそれだけでナチスの望む軍備再建は不可能なので、メフォ手形は発行された。
しかし史実と違い、オーストリアやチェコスロバキアにイタリアが強力に支援していた(ドイツからはそう見えたが実態はそうでもない)ことから、ナチスは南部へと勢力を伸ばすことが出来ず。1939年3月23日、元はドイツ領だったリトアニア領のメーメルを『回復』し、同時にリトアニアを傀儡国にするのが精一杯だった。
メフォ手形の支払いが迫るドイツは焦り、元はプロイセン領でドイツ系住民の多いヴェストプロイセンを『民族自決』の名の下に、ドイツへと返還させ。その地域の銀行から収奪することで、メフォ手形の支払いをなんとかしようと企んだ。
一方ドイツの軍備再建に気付いていたフランスとイギリスは、先の手を打ってポーランドに独立保障をかけ。イタリアとも緩く連帯することで、ドイツの伸長を牽制した。牽制出来たつもりになっていた。
フランスとイギリスはドイツ人民の、ナチスの、ヒトラーの意思を読み切れていなかった。ドイツ軍は宣言通りにポーランドへと攻め込んだのだ。
フィールド型ダンジョンでたんまりと訓練を積んでいたドイツ軍相手にポーランド軍は太刀打ち出来ず。10月10日、ポーランド全土がドイツに占領された。
西部戦線では、史実のようにドイツが段階(オーストリア→ズデーテンラント→ボヘミア→メーメル)を踏まなかったせいで、フランスとイギリスの軍備は史実よりも整っておらず。フランスは慌ててマジノ線に籠もってドイツ軍を待ち構え。イギリスはドイツのUボートに右往左往するばかりだった。
ポーランド方面から転換してきたドイツ軍が西部戦線へと集結しつつあった10月28日5時55分、ドイツはオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに宣戦布告。6時にドイツ軍は国境線を越え、低地諸国へとなだれ込んだ。
ちゃんとした道路もあったのに、何故か警戒の薄かったベルギー南部アルデンヌの森をドイツ機甲師団は突破。勢いのままパリへ突入。首都と政府首脳陣を失ったフランスは、11月20日、ドイツへと降伏しヴィシー政権が成立した。
フランス降伏直後、フランスへと派遣されていたイギリス軍とフランス軍残党は、ダンケルクからの脱出を図ったが、低地諸国を蹂躙してきたドイツ軍に呑まれ、戦死するか降伏するしかなかった。
たった3か月で大陸から叩き出されたイギリスだったが、海軍と空軍の奮闘により、ドイツ軍に空爆されることはあっても上陸されることはなかった。
また、カナダや南アフリカ、オーストラリアにインドといった安全な後背地に工業地帯や資源地帯を抱えるイギリス相手にドイツは攻めきれず。主に空軍どうしの戦いになった『バトル・オブ・ブリテン』は1940年10月まで続いた。
ドイツとヴィシーフランス、リトアニアだけで、こんなに長くバトル・オブ・ブリテンを戦うことは不可能だった。しかし金や銀といった希少資源とのバーター取引で、チェコスロバキア・オーストリア・イタリアが、ドイツへ航空機エンジンやアルミニウムを供給したため、これだけ空の戦いは長引いた。
イギリスはイタリアらの動きを当然知っていたので、ドイツとの戦争にかこつけて特にイタリアを攻め滅ぼそうかと考えた。しかしアルジェリアで成立した自由フランスの立て直しに、イタリアが多大な貢献をしていたため、苦情を言う以上のことは出来なかった。
今やイタリアは、オーストリア・チェコスロバキア・アルバニア・ギリシャといった中堅国を率いる盟主であり。不安定極まりないスペインが内戦に陥っていないのもイタリアのお陰だった。欧州諸国の状況から見ると、イギリスがイタリアに苦情を言ったのは、むしろ危険な行為ですらあったのだ。
欧州にて孤立していたイギリスは、仲間を求めていた。ドイツを倒すための、強力な仲間を。
そこでイギリスが目を付けたのが、ソ連と日本である。
ソ連に東部戦線を構築させたところで、ドイツの養分にしかならないだろう。しかしソ連の安全な後背地の工業地帯・資源地帯として、好景気に湧く日本とそのお仲間な満洲国・カムチャツカ共和国が機能すれば? 大粛清で荒れているソ連でも、ドイツと戦えるてあろう。
イギリスはそう考え、どうにかソ連を参戦させ、日本をソ連の工業地帯にしようと画策した。
ソ連は『報酬』の値上げに余念がなかった一方、日本は即決でドイツと戦う国々への兵器輸出を決めた。
「欧州列強どうし争いあって少しでも大人しくなってくれ」
とある日本の閣僚は、人でなしな意見だがと苦笑しつつも、身内の宴会の場でそう言ったという。この言葉は新聞にすっぱ抜かれたが、むしろこの閣僚への市民の支持は高くなった。この世界この時代の日本人にとって、欧州人はそんな扱いだった。




