12 1936年〜
1935年末に成立した満洲国に、日本は遼東半島南端部、関東州を返還。2万人はいた関東軍は6000人にまで人員を削減した上で満洲国軍事顧問団と名称を変更。南満州鉄道と付属地は、満洲国へ段階的に売却していくことで合意した。
もはや大陸に興味がなく。国内のダンジョン探索とインフラ整備に没頭出来る! と喜んでいた日本に、アフリカの戦争が冷や水を浴びせた。
「密貿易から難癖付けて開戦。これがまかり通るのか」
第2次エチオピア戦争の切っ掛けとなったオガデン密貿易は、イタリア側から仕掛けたことだった。なのに密貿易という国際犯罪を取り締まったエチオピアの方が『オガデンの住人を弾圧している』と悪者にされて滅ぼされた。
更に調べてみると。中米のホンジュラス・グアテマラ・パナマといったいわゆる『バナナ共和国』において。アメリカ合衆国が支援する勢力側に、アメリカ企業が大々的に武器を輸出して反アメリカ勢力を虐殺させている。
またパナマ・コロンビア間でもアメリカ企業は密貿易を行っており。取り締まろうとしていたコロンビア側の閣僚が奇妙な死に方をしていたりもしている。
他方イギリス領ギアナ・ベネズエラ間ではイギリス企業が密貿易を行っており。これに反発したベネズエラ閣僚は健康そのものだったのに唐突に病死している。
世界を牽引している欧米諸国が、これらを良しとしていることに、日本の政府と国民は揃って恐怖した。強ければマトモなお題目を掲げる必要すらなく、何をしても許される世界になってしまっていたからだ。
国境線の監視は一段と厳しくなった。
無政府状態の中華との間にある台湾海峡では、密貿易と難民の移入が多発していた。台湾に来た中華商人は難民を売って食糧を買っていた。売られた難民は大抵飢えていた。
ガリガリの難民を中華に返すのは人道的にどうか、という声もかすかにあったが。その難民が将来の紛争の原因になるのは明らかだったので、子孫に問題を残さないためにと返された。
ソ連との国境線である、北緯50度で地続きの樺太と間宮海峡でも、密貿易が確認された。赤軍のスパイが入り込んでいると想定されたので、厳しく取り締まられた。
内政干渉を防ぐため、スパイ狩りが激化した。
とばっちりで右派・左派問わず過激な政治運動をしていた勢力は駆逐され、陸海軍の中からも逮捕者が出た。軍は面倒臭い思想犯がいなくなるのを歓迎、調査に積極的に協力した。
国境警備とスパイ防止のため、ちょうど建造されていた白露型駆逐艦から主砲を引っこ抜いて魚雷運用能力を除去後、船尾にスリップウェイを配置。人魚や装甲海豚の展開能力を持つように改良された『霧型巡視船』が計20隻、建造された。
機銃以外の武装がないため、第2次ロンドン海軍軍縮条約(この世界では無事締結されている)の制限に引っかかることのなかったこの船は、国境警備以外に、海底ダンジョン攻略のプラットフォームである『足場船』と各地の港を繋ぐ連絡船として活躍する。
南樺太の国境警備が厳格化して数カ月が経過した1937年11月。越境を試みて捕縛され、その場で政治的亡命を懇願してくる赤軍将校が急増する。中には家族連れで亡命してきた者もいた。
亡命赤軍将校は全員捕縛後、慌てて用意した専用の収容所に収容。ソ連の内部事情の聞き取りを進める。
「帰ったら殺される!」
ソ連共産党の書記長であるヨシフ・スターリンは、猜疑心の強い男だった。
その疑いの視線はソ連共産党や赤軍、ソ連人民にも向けられ。自らに反発する恐れのあると見なした人々を『粛清』、つまり銃殺か意図的な獄死で殺し尽くした。
この世界では、1928から29年にかけて、ダンジョン封鎖のため赤軍から新兵が各地のダンジョンに配置され、以後放置されていた。
彼ら『ソ連ダンジョン警備兵』のうちウラル山脈以東で任務に就いていた者は、ソ連内の権力闘争と汚職により日々の食事にも困っていた。だから『ソ連の資産』とされたダンジョン内に無断で侵入し、モンスターを狩り鉱石を採取しそれらを売ることでなんとか生き延びていた。
この度の粛清いや『大粛清』において、この『ソ連の資産たるダンジョンから物資を得た』点を問題視された彼らは、調査の目が向けられた途端、ソ連の外へと逃げようとしたのだ。後ろ暗いことをしていた自覚はあったらしい。
1938年に入ると、何故かソ連からの亡命者の流入はピタリと止まり。代わりに、ウラジオストク発・ペトロパブロフスク行の貨客船が多数、津軽海峡通過を求めた。
何故そのような許可を求められたのか、疑問を感じつつも。数隻に一度臨検する程度で日本は津軽海峡の通過を許した。ガタイは良いがやつれている男とその家族が沢山乗っていた。
日本はこの人々を『大粛清によりカムチャツカへ流刑されている人々』と認識していたが。
1938年9月1日。カムチャツカ半島が『カムチャツカ共和国』として『ソビエト連邦からの独立』を宣言。即日、アメリカ・イギリス・ドイツ・イタリアは国家承認した。
イラン経由でインドへと亡命したソ連ダンジョン警備兵が、この大粛清のネタをイギリスへ売り。
イギリスはこのネタを使ってソ連にダメージを与えることを企み。
ダメージを与えるなら領地を切り取ろうとドイツがささやき。
カムチャツカ半島なら守りやすいねとイタリアが入れ知恵し。
更なる市場を求めたアメリカがそれを強力に後押しした。
こんな流れでカムチャツカ共和国は成立したのだ。
当然ソ連側は反発したが。スターリンは、
『反逆者が自ら固まってくれたのだ。皆殺しにしやすいではないか!』
と喜び。
1939年6月6日、大陸伝いに、赤軍極東軍管区から抽出された1個師団はパラポリスキー地峡から攻め込んだが。あまりの低インフラに歩兵のみで行われたこの攻勢は、赤軍側の低士気とカムチャツカ半島にわんさかいる熊によって失敗。赤軍は7月には全面撤退してしまう。
『熊戦争』と呼称されたこの攻勢の失敗にスターリンは激怒。極東軍管区にも粛清の嵐が訪れた。
蚊帳の外だった日本がカムチャツカ共和国に助力するようになるのは。熊戦争直後にカムチャツカ共和国へ進出したイタリア企業が、工業原料たる鋼鉄・石油加工品を出来るだけ安価に手に入れようとしたのが切っ掛けだった。
ドイツが多数の武器を売りつけ、アメリカが砂金採取地を抑えたカムチャツカ共和国は、漁業くらいしかまともな産業がない癖に軍備だけは整っていた。
国境向こうにこんな滅茶苦茶な産業構造の国があるのは、日本の国防上大きな問題だった。だから収容していた亡命赤軍将校にダンジョンで儲ける方法『ダンジョン経営術』を教育。カムチャツカ共和国へと送り込んだのだ。
この日本の動きにより、カムチャツカ共和国に拙いながら工業が生まれ。アメリカが後援して成立したのに、カムチャツカ共和国は親日本の国として発展していくようになった。




