10 1935年あたりの中華事情
7/12 張学良のつもりだったのに張作霖と書いていた分の訂正
この世界の日本は、私達の世界には存在しなかった『ダンジョン』にのめり込むことで、資源不足・世界恐慌を解決し、その余波で内需と人口規模が拡大し好景気になっている。
そのしわ寄せが強く出た国があった。中華民国である。
1925年に中国国民党がなんとか成立させたこの国は、酷い汚職と欧米列強による経済への侵食、そして権力闘争により、1931年に入る頃には軍閥同士の紛争が常態化。ほとんど無政府状態になっていた。
私達の歴史では、1931年9月18日に勃発した『満州事変』により、日本という目に見える敵が現れたことで、中華で争っていた軍閥は表向きだけでも団結出来た。
しかしこの世界の日本は満州で事変なんて起こさなかった。むしろ朝鮮独立に向けて動いたり。関東州や南満州鉄道付属地から勢力を拡大しようという欲が明らかに減ったり。また各地の租界から撤退しつつあり、漢口・重慶・沙市租界に至っては、現地の軍閥に売却する形での返還が終わっているほどだった。
私達の史実と違って、全中華軍閥が目の敵に出来る外敵はいなかったのである。
結果、中華の紛争は激化の一途を辿った。
ウォール街発の世界恐慌下で、少しでも商品の売り先を確保しつつ商売敵を潰したかった欧米諸国が、軍閥に積極的に武器を売りつけたのも、紛争激化の大きな一因だった。
植民地であるインドやインドシナ半島を抱えるイギリス・フランスは、水源地でもあるチベット高原も欲して、露骨に雲南軍閥へ武器を流していた。
その甲斐あって。1934年10月2日、チベット高原を領土とする『チベット王国』の中華民国からの独立と国際連盟への加盟が、世界的に認められた。しかも、
『今や中国(China)に政府は存在しない』
というリットン報告書と共に。
リットン報告書を受けて、大きく動いたのはソビエト連邦だった。
『とりあえず占領出来るからしておこう』
程度の認識で、ソ連は東トルキスタンに侵攻。そのまま『東トルキスタン自治共和国』として、1935年2月1日付でソ連構成国に編入した。
また、アメリカもリットン報告書の公開後から、国家ぐるみで武器輸出をし始めた。
建前としては、
『蒋介石率いる南京国民党に中国を統一させることで、この地域の安定化を図る』
ということを掲げていたが。その割に人員を出したり留学を認めたりはしなかったので、お題目でしかなかった。
そしてドイツは、ソビエト伝いで汪兆銘の武漢国民政府に武器を輸出した。単純に外貨が欲しかっただけで欧米諸国の中華利権争奪戦には後ろ向きだったので、旧式化した機関銃や対戦車ライフル、小銃を売るだけに留めていた。
その他、ベルギー・チェコスロバキア・イタリアも、満州の張作霖率いる奉天派に武器やトラックを輸出した。
こんな調子で、中国は内戦で地獄になっていた。しかしこれを見過ごせなかった人物がいた。
「父祖から受け継ぐ地が荒れているのに何もしないのは、あまりにも無責任だ」
清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀である。
1924年10月23日のクーデター後、天津の日本租界に保護されていた溥儀は、皇帝の重圧から開放されて悠々自適に暮らしていた。
1931年の側室の文繡との離婚後、正妻である婉容との仲が冷え込んだこともあった。しかし溥儀も婉容も、日本の商人や役人が献上もしくは低価格で譲渡してくれた芸術品や美食のお陰で、元は家庭内別居状態だったところがむしろ改善され。溥儀・婉容の間に史実にはいなかった子供(溥礼)が、1933年1月1日に生まれたりした。
なお、献上・譲渡されたモノは、ダンジョン産物品の加工を試行錯誤していたモノで宣伝も兼ねた意図があったのは、蛇足とする。
ともかく。
婉容の妊娠が分かった頃から、溥儀は考えるようになった。
「子供に何が残せるだろうか?」
考えに肉付けすべく情報を集めた溥儀は、中華のあまりの荒れように愕然とした。
「これは駄目だ」
一念発起した溥儀は、手持ちの資産と親族の伝手を駆使して、内乱状態の中華に平和をもたらせられないか、動きはじめた。
清朝時代の全領域の平定はすぐに諦めた。それが出来る資産も地盤もないからだ。しかし親族を総動員すれば、氏族の故郷たる満州くらいは、なんとか出来そうだ。
馬賊や張学良(奉天派)とコンタクトを取り。欧米諸国の中でも市場に飢えていたベルギー・チェコスロバキア・イタリアを引き込み。満州から流れてくる難民に困っていた朝鮮臨時政府と日本の関東軍に援護を求め。
1935年9月17日。
溥儀一家は奉天派と関東軍の護衛を受けながら、密かに満州は長春に入り。
翌18日。
各馬賊の長、張学良とその側近、関東軍司令官南次郎大将らが整列する前で、愛新覚羅溥儀は『満洲国』の建国を宣言。宣言した国境線に沿った防衛線の構築に入った。
満州の馬賊・奉天派・関東軍が手を組んだ満洲国軍を前に、満洲国の西や南を占拠していた軍閥は手を出せず。軍閥の中でも頭の抜けてきていた、蒋介石率いる南京国民党は、満洲国を認められないもののその背後にいる日本と欧米諸国とくにベルギー・チェコスロバキア・イタリアとまで戦う気はなく。国際政治的な決着を目論んだが。
9月30日。
国際連盟の臨時総会にて。見学者扱いされた蒋介石の猛反発の中。満洲国は全会一致で国家として承認され、また国際連盟にも加盟した。溥儀らの事前の根回しの成果が出た。
なお、関東軍が満洲国建国を援護したのは。馬賊の襲撃やサボタージュの多発する南満州鉄道とその付属地の護衛よりも、本土でのダンジョン探索の方が、給料も良くて格好良く戦えて明白にお国と故郷の役に立ててと、とても魅力的だったため。満洲国建国にかこつけた関東軍の大幅削減(出来れば撤兵)を狙っていたからである。
ダンジョン探索に邁進している日本にとって、もはや大陸への進出に魅力はなかった。
この時代の史実中華事情はゴチャゴチャし過ぎてる上で、おもに日本の歴史が変わっている。
なので、書かれている以上史実以上に軍閥が乱立しています




