57 フォール・ララバイ
──この選択は、正しかったのだろうか。
脚に残る、かすかな熱。
指先に感じた、あの小さな重み。
夜明けとともに、毒島たちは倒壊した軍事基地を後にした。
戦火の余熱が嘘のように、森は静まり返っている。
朝露に濡れた草葉が足元でかすかに鳴り、冷たい空気が肺を満たした。
国境線に近づくと、ほどなく魔導国の偵察隊を見つける。
手短なやり取りののち、少女は引き渡された。
「マスター……」
背後で、レヴィが低く唸るように歯噛みする。
「これが最善策だという事は理解してますが──」
置き場のない苛立ちを、切り捨てるように言葉を切る。
確かに、と毒島は内心で応じた。
少女を値踏みするような視線。無事を確認することもなければ、感謝も敬意もない。
足元を見る態度は、護送ではく、荷物を請け負う回収屋のそれであった。
だが、状況は変わらない。
毒島は振り返らなかった。躊躇を切り捨てるように、すぐに踵を返す。
その背に、縋りつくかのような弱々しい気配。
「…………」
声にならない呼びかけは虚しくも、恐る恐る伸ばされた小さな手が、空を掴む。
毒島は、その動きを視界の端で捉えながら、あえて視線を外した。
「縋るな」
低く、突き放すような声だが、冷徹の色はない。
「依存するな」
それが、生き延びるための言葉だと知っているからこそ、付け足した。
少女は、ただ見つめていた。
毒島の背中を。影が森の奥へ溶けていく、その瞬間まで。
はるか先──気配の揺らぎで、まだ見られていることは分かっていた。
それでも、振り払ったのだ。胸の奥に残る熱を無視するために。
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ふらりと下がった、空っぽの手。
それを見つめていた少女の指をさらうように、硬い手が力任せに掴んだ。
「ぐずぐずするな。お前が行くのはこっちだ」
淀んだように低く、無感情な声。
骨に響くほど強く握られ、思わず息が詰まる。
毒島たちと別れた角の折れた少女は、街道を外れ、再び山道へと引きずられた。
魔導国の哨戒隊だと名乗った男たちは、歩きながら小声で何かを言い合っている。
時折こちらへ向けられる視線は、いつか見たことがあるような不穏な顔。
何処に行くのだろうかと、なるべく考えないようにする。
舗装もされていない山肌は険しく。
震える膝を叱咤しながら歩くたび、まだ履き慣れていない薄紅色の靴が土に汚れていく。
それが、なぜか少しだけ悲しかった。
何度か休息は取られたが、少女は数に入っていなかった。
男たちは輪になり、火を起こし、食事をし、笑い声さえ上げる。
少女は少し離れた場所に座らされ、まるでそこに存在しないかのように扱われた。
驚きは、ない。
少し前まで──それが当たり前だったのだから。
殴られてはいない。
興味本位で、もう一方の角を折られる事もない。
それだけで、まだましなのだと、言葉を呑み込む。
折れた角の付け根に、そっと指を這わせた。
ひび割れた感覚が残るその場所を撫でながら、少女は、なんとなく理解してしまった。
──これが、日常。
夜が明ける。
朝霧の向こうに現れたのは、山の中に不自然に開けた空間だった。
立ち並ぶ薄汚れた露店。行き交う檻。やじに交じる怒号。
視線が、値踏みするように集まる。
……人も、物と変わらぬ値で、ぞんざいに売られ、買われていく。
──ガチャリッ
再び、手錠で繋がれた。
冷たい金属が手首に触れた瞬間、ヒヤリとした感覚と、言いようのない焦燥が込み上げた。
だが、思考はそこまで。
空の手には何もない。少女は感情に、また蓋をする。
もとより、希望などなかったはずだ。
毒島との出会いは──夢だったのかもしれない。
──縋るな
泥に沈んでいくようなこの感覚は、今さら、なぜこんなにも苦しいのだろう。
──依存するな
錆びた頑強な檻の中、少女はその言葉を反芻する。
意味は、分からない。だが──胸の奥に、小さな塊のように残っている。
舌を通り過ぎた熱。スープの温もりと、かすかな匂いが、まだ残っている。
喉の渇きよりも、心のほうが、ひどく乾いていた。
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「あの女は……」
木陰に紛れる影が枝葉を揺らす。
静けさを破ったのは、レヴィの低い独り言だった。
十数メートルはあろう高木の枝から、音もなく地へ降り立つ。
着地の衝撃すら殺し、すぐさま毒島の隣に並ぶと、視線を伏せたまま、簡潔に情報を並べる。
「──軍事基地を壊滅させた黒髪と白髮を編み分けた女です。
魔導国の偵察兵と思われる小隊と、行動を共にしています」
毒島は歩みを止めない。
だが、その視線だけが、周囲を大きく一巡した。
二人がいるのは、まだ魔導国との国境線上。
角の折れた少女を引き渡すという目的は、すでに果たしている。
今の彼らは、ここにいる理由を失った存在だ。
魔導国に、都市国家側──どちらに見つかるのも宜しくない。
毒島は表情を変えず、じっと、俯瞰するように思考を巡らせた。
──何を企んでいる?
吐いた息は、左手に連なる山並みへと消える。
レビィが発見した女──ウルヘルミナと魔導国兵が同行していること自体は、問題ではない。
かつて共闘した経緯がある。それ故、縁があっても不自然ではない。
だが。
その背後に、ラース・ザインの影がちらつくとなれば、話は別だ。
──このタイミングで、俺たちに見つかるように露出した、理由は何だ?
立ち止まり、遠くの気配に揺らぎが出るか試すも、動きがない。
かわずかに眉をひそめつつ、現在の見通しから不要な要素を切り捨てていく。
このまま奴を放置すれば、闇ギルドが束ねた謀略──踊る盤面に、予測不能な歪みが生じるだろう。
変数を抱えたまま進むより、ここで消したほうが、単純でわかりやすい。
──ラース・ザイン。
喝采の禁書を手ぶらで欲しがる、浅ましい背信者。
狂気に濁った目を思い出すと、眉間に、自然と皺が刻まれた。どちらに転んでも、面倒は避けられない。
隣では、レヴィが無表情を装いながらも、緊張のまま目を輝かせている。
その様子を横目に捉え、毒島は内心の苛立ちを手放した。
「……あの女を確認しろ」
命じられ、レヴィは一瞬だけ目を閉じ、蒼い輝きを灯して開眼する。
チート能力──【秘匿開示】
視認した対象の名前、所属、適性、危険度。
重なり合う情報の中から、必要な部分だけを抜き出した。
「軍事基地で襲ってきた女・・・・・・ウルヘルミナ。脅威度は大。
こちらへの害意が──非常に高いままです」
つまり、先日の軍事基地破壊で、終わりではない。
まだ、本命を残している。
再び刃を交えるつもりならば──決断は、早いほうがいい。
静かな威風を宿し、毒島は進路を変えた。
その大きな背中に浮かぶ筋肉の隆起を追うように、レヴィもまた、無言で引き返す。
空気がとろけるように揺らいだ次の瞬間、獲物を定めた毒島の移動速度は、常軌を逸していた。
つい先ほどまで視界の端に捉えていた山の中腹など、距離と呼ぶには短すぎる。
大地を疾走する姿は目に追えず、空気が遅れて追随する。
離されまいと金髪を振り乱し、黒い肌を隠しきれないまま荒い息を吐き捨てた。
身体強化の魔法具を使用して尚、全力で追従するレヴィは、木々や小石に身体が掠めて損壊しないか必死だ。
豪速で移動する二人の影は、ほどなくして目的を捉える。
見覚えのある魔導国の偵察兵、その横顔が異常な空気を察知し振りむくも。
唐突に視界へ割り込んできた毒島の巨躯に、ぎょっとするのも無理はない。
「こんなところで奇遇ね……」
レヴィが、わずかに息を整えながら声を投げる。
疲労は見せず、深く被った外套のフードから刺すような視線を送る。
「ところで。あの子は、どうしたの?」
一瞬の沈黙。
魔導国兵たちはお互いを見やり、すぐにへらへらとした態度で取り繕った。
「本国に護送した。心配はいらないさ」
「それより、お前たちこそ分かっているのか?
ここがどこだか──」
言い終える前に空気が、変わる。
毒島の内から立ち上がった威圧が、音もなく周囲を侵食した。
「……人間め」
偵察兵の一人が反射的に剣へ手を伸ばす。だが──抜けない。
喉を震わせ、必死に虚勢を張るも意味をなさない。
「俺達にこんなことをして良いのか。国際問題になるぞ」
「ほう。お前程度が消えて。……それで、魔導国が動くのか。
試してみるか?」
周囲に立ち込めた威圧は、頭上から叩きつけられるような殺気に変わる。重くのしかかる恐怖に、偵察隊の膝が折れガクガクと揺れた。
「くそっきいてないぞ、ただの商品回収じゃないのか?!」
ピクリと──眉間が反応した。毒島の双眸が僅かに細まる。
古城に現れた2人の狂人、軍事基地への誘い込み。その狙いが輪郭を帯びてきた。
角の折れた少女とは──思考を短く巡らせたその時、不意打ちのように毒島とレヴィの周囲に魔法が撃ち込まれる。
レヴィは毒島の前に躍り出て、外套で弾くように身構える。
その肩を引き寄せ、迫りくる魔力の塊へと一睨み──異能力を解いた毒島の前に、撃ち込まれた魔法は煙と化し、ぶわりと膨張したと思えば風に流され消え去った。
死角に潜む襲撃者たちに動揺が広がる。
彼らは見誤ったのだ。首先まで浸かると錯覚する程に、静かに怒気が充満した。
レザーカットの側頭がゆっくりと振り返り、取り返しのつかない視線が愚か者を射抜く。
「──レヴィ」
「承知しました」
畏怖に当てられ、震えるも、返事は短い。
だが十分だ。角の折れた少女はすでに何者かの手にわたった。
──あの子を見つけ、マスターが動く前に状況を作り出す。
それが、何を意味するのか誰にも、まだ分からない。
レヴィは煙に紛れて姿をくらませた。




