56 クレセント・ピアニシモ
帳が降りた静かな夜に、薄い明かりが灯った。
月明かりが砕けた建材や抉れた大地を淡く照らし、破壊の余韻だけがそこに横たわっている。
沈黙が漂う森は、虫の声も、獣の気配すらもない。
生命そのものがこの場所を避けているのは、一人の怪物から漏れ出る気配が、じわりと辺りを侵食しているからだろう。
気配の中心にいる毒島は、倒壊した軍事基地の残骸を利用し、その夜をやり過ごすことにした。
焚き火のそばで暖を取るレヴィには、角の折れた少女の子守を任せている。少女は浅い呼吸を繰り返し、時折、悪夢にうなされるように身じろぎした。
毒島はその様子を見ずとも気配で感じ取り、比較的ましな毛布を調達すると、恐縮するレヴィに無言で手渡す。
まだ休むつもりはないようで、夜陰に紛れるように黙々と体を動かす。
崩れた壁と瓦礫を選び、簡易な罠を張り巡らせる。
踏み込めば音が鳴る程度。粗雑だが、十分だ。
長年の冒険者として身につけた技術の触り。
ふと、胸の奥で、小さな笑い声が瞬いた。
かつて、夜営の前で語り合った──仲間と背中を預け、夜明けを待った記憶が脳裏をかすめる。
笑い声の影には勝気な少女の姿も混ざった。
──懐かしんで何になる。
小さく舌打ちする代わりに、疼いた感傷を噛み殺す。
自ら殺した過去に浸かるつもりはない。
心の僅かな揺らぎに差し込むように、ピクリと、空気が歪んだ。
風の揺らぎを嗅ぎ取った先は正面、屋外。
月光に照らされた茂みが、音もなく割れた。葉擦れ一つないまま、影が滑り出てくる。
古城の競売会場で一度だけ視線を交わした、もう一人の狂人。
挨拶代わりに放たれた殺気が、地を這う蛇のように忍び寄ってきた。
その異質さに、レヴィが目を覚ます。
眠りから引き剥がされるように、静かに身を起こしかけ──。
──動くな。
無言のまま、大きな手が差し出されレヴィを制した。
言葉よりも先に伝わる毒島の視線に息を殺し、角の折れた少女を優しく抱き寄せる。
毒島は振り返らずに頷くと、レヴィに少女を任せたまま、ぬらりと気配を消し去った。
そこにいたはずの存在が、輪郭ごと夜に溶けた。
次の瞬間、毒島は屋外に降り立っていた。
あまりにも自然な消失。
レヴィは視線で追いきれず、理解が遅れて背筋を冷やす。
そして、来訪者からも動揺が漏れ出る──。
さきほどまで確かに感じていた毒島の気配を、完全に見失っていた。
月明かりの下、影が慎重に身構える。
警戒の色が滲み出たのか、恐れがこぼれ落ちた。
「──あいかわらず、恐ろしい技能ですね。 直弥くん」
だが、予想外にも、返事は背後から落ちた。
夜陰に紛れる死角、その距離は一歩。
「気持ち悪い呼び方は、相変わらずだな」
見下ろす位置から、毒島が姿を現す。
闇そのものが形を取ったかのように、輪郭を浮き立たせる。
後頭を突き刺すように濁った視線。旧交を温める雰囲気ではない。
来訪者の影は、わざとらしく数歩前へ出て、自然が作ったスポットライトへ身を晒した。
ゆっくりと振り返り、軍服コートが夜風に揺れる。
黒髪のシャドウパーマの下に、人懐こい笑顔を貼り付けた男だった。
歪に膨らんだパッチポケットに両手を沈めたまま離さない。
何を握っているかなど、考えるまでもなかった。
その出で立ちから、古い既視感が呼び起こされる。
──裏切り者のラース・ザイン。
毒島の記憶の片隅より、思い出したのは戦時中。同盟者であり、敵であった男の名前だ。
不気味な気配を携えたラース・ザインは、前髪に半ば隠れた目尻を細め、懐かしむような声色で続ける。
「およそ十年ぶりの、感動の再会ですね。
先に会いに行った──ウルヘルミナの様子は、いかがでした?」
毒島が“ウル”と呼んだ、あの縞模様の女の名。
なぜ今、ウル──ウルヘルミナの名が飛び出すのか。
予期せぬ、不穏な再会の連続。心の底で不快感が鎌首をもたげる。
「……なぜ、お前がそれを知っている」
声に感情は乗らずとも、毒島の気配が僅かに軋んだ。
ラース・ザインは足元から這い上がる恐怖心を楽しむように笑いを含んで、肩をすくめる。
「彼女は、私のフィアンセですから」
記憶の中の勝気な笑顔と、激情に歪み狂相が脳裏をかすめた。
胸の奥がざわつき、胃の中をのた打ち回るなような不快さ。
だが毒島は、それを言葉にしない。形になる前に、心中の泥へと沈める。
「……奇縁だな」
ラース・ザインは、どこ吹く風とばかりに笑みを深めた。
毒島の反応にはそれほど興味はないようで、別の獲物を思い浮かべている顔だ。
「それはそうと、おめでとうございます」
唐突な祝辞だった。あまりに場違いな言葉。ニコリと象られたその笑顔が、月光に照らされ、邪悪に浮き立つ。
「……何の話だ?」
毒島の声は低く、感情の起伏を完全に消し去る。
ラースは、さも当然のことのように微笑んだ。
「……喝采の禁書。その所在が、ようやく動き始めたそうじゃないですか」
空気が、一段冷えた。不気味な笑顔が皺を刻む。
「先日、交易都市ノアでおきた大規模封鎖、そして、西方森林地帯での火災。
直弥くんなら、やってくれると。
待っていた甲斐がありました。」
「……知らんな」
毒島は即座に切り捨てる。
「隠すんですか?」
問い返しは軽い。だが、ラース・ザインは逃がさないとばかりに声色を強める。
「空から落ちた魔導書の噂は、各地でも直ぐに広がりました。
……幻想図書館の魔導士が介入しましたからね。
君ほどの強者が、放っておくはずがない」
じゃり、と小石の感触を確かめるように一歩、踏み込まれる。
「それに──」
ラース・ザインは愉快に頭を揺らし──。
「君ほどの強者が、討ち漏らすはずもない」
月光がラースの目を濡らし、狂おしいほどの渇望が垂れ落ちた。
そこには確信があった。
「世を書き換えるほどに強力な魔導書。
喝采の禁書──まさに、禁書と呼ぶに相応しい代物です」
毒島の眉が、僅かに動いた。
それを、ラースは見逃さない。
「私も、ウルヘルミナも──あれが欲しいんですよ。
ずっと、探していたとも言っていい」
強烈な欲望の臭気に鼻を歪めつつも、毒島は一瞬、言葉を失った。
「……寝言は、寝て言え。あいつは、魔導書が引き起こした事件を憎んでいる」
吐き捨てた言葉を拾い上げ、ラース・ザインが面白そうに首を傾ける。心底、不思議そうに。
「いえ、彼女が恨んでいるのは──君ですよ」
刃を滑らすように空気が研がれ、喉に突き立つように張り詰めた。
「……おい。 ウルに、何を吹き込んだ?」
混濁した歪な視線が交差する。その瞬間──殺気が爆ぜた。
見えない刃が虚空を走り、まるで暴れ狂う大剣に両断された──錯覚。
全身から噴き出る汗と共に、地鳴りのような恐怖が背後に突き抜ける。
夜の静けさに、血の幻影が迸った。
ラース・ザインはむせ返るように咳き込み、震える肩を掻き抱く。それは怯えではない。
抑えきれない興奮が、肉体に滲み出ただけだ。
「世間では──」
胸に手を当て、芝居がかった仕草に加えて、恍惚の表情を乗せる。
「“背中を刺す狂人”などと呼ばれてきましたが……」
狂人の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「君ほどじゃないよ。……直弥くん」
細めた眼差しが、銀の光を弾く。
そこに宿るのは、愉悦、渇望、恨み、そして悪辣。
いずれも、混ざり合って濁流のように渦巻いていた。
「死の淵から生還し──以前よりも、ずいぶんと禍々しくなったようだ。身を引き裂くような殺意が、素晴らしい」
ラース・ザインは、心底感嘆したように息を吐いた。
毒島の答えは求めていない。確認しに来ただけなのだから。
何を知っていて、何を得て、何が足りないのか。
「今日は、挨拶に来ただけです」
ラースは踵を返し、背後の茂みへ歩き出す。
振り返らずに、言葉だけを残して。
「次は、禁書の在り処を教えてくださいね」
闇に背中が溶けていく。
「私“達”は、タイミングを選ばない」
一瞬、ラース・ザインの視線が逸れる。
軍事基地の奥──レヴィと、眠る少女がいる方向へ。
そして、笑った。次の瞬間、薄まった輪郭は夜に溶け、最初から存在しなかったかのように消え失せる。
それでも毒島は、すぐには動かなかった。
闇夜を睨みつけたまま、悪意の残滓に舌打ちした。
しばらくして、月影を背に軍事基地跡の野営へ戻る。
招かれざる嵐は過ぎたのだと、レヴィは一度だけ深く息を吐いた。
張り詰めていた緊張が、ようやく解けたのだろう。
焚き火の傍らで、角の折れた少女が眠っている。
小さな胸が上下し、寝息はまだ浅い。ほんの一瞬、眠る少女の横顔に誰かが重なった。
──なお兄。
記憶の底から、幼い声が掠れでた。
焦げた空。瓦礫に挟まれた、その隙間で、こちらを見上げる小さな影。
笑っていたのか、泣いていたのか思い出せない。
思い出そうとした途中で、思考を振り払った。
それを許すほど、自分は“まとも”ではない。
焚き火が小さく爆ぜる音だけが残り、行き場のない苛立ちが、夜風に溶けた。
次回――角の折れた少女を連れて毒島達が向かったのは、魔導国との国境。毒島と少女が見たものとは――
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