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 マリオンはその像にゆっくり近づいた。王杓に触れるにはためらわれ、そのほっそりとした手首に触れる。手の部分は軽く握られた形で彫られており、もともと王杓を握らせるつもりで造られたのだろうと予想が付いた。


「美しい大理石像だな」

 手首から腕へ、そして肩から首へと視線を送ってマリオンは女性像の顔をみつめた。

「王杓を持っているということはこれは女神ヴェルディか」

「そう思われます」

「一体誰がこんなところに」

「それはあなたのお爺様、先代公爵でしょう」

「……なぜ」


「推測でしかありません」

 ジェームズがぼそっといった。何故かあまり楽しそうな顔をしていない。こんな財宝を見つけたというのにだ。彼曰くの『推測』が彼の押し黙った理由だとわかってマリオンは催促しようか迷う。


「……なにか思うことがあるのならいって欲しい」

「……あなたが気の毒です。だから言いません」

 マリオンは大きくためいきをついた。

「バカだな。そんなことを言われた時点ですでにかわいそうだ。言ってくれ」

「……あなたにこれを渡したかったからでしょう」

「はあ?」

 ぶっきらぼうに言ったジェームズの言葉に呆れる。


「何を言いたいのだ」

「……あなたにこれを残したかった。でもあなたに直接渡す事はできず、うっかりしているとこれは別のものに奪われかねない。だから隠したんです。あなたがもし、古代ユリゼラ神話に興味を持てばいずれたどり着く場所です」

「その話から、私の何が気の毒なのだ」


「おそらく先代様は葛藤しておられた。大事な息子の子、でも憎い下賎な女の娘。だからあなたに会うことをためらい、そして会うことができないまま死んだ。こんなものを後生大事にしているより、彼があなたに会って、孫として愛していると伝えればこんなもん壊れていたって無くたって良かったんだと思いますよ。馬鹿馬鹿しい、あなたが気の毒すぎる」

「……いまひとつ飲み込めない」


 ジェームズは一歩踏み出した。女神像の王杓には殆ど目もくれない。指差したのは像そのものだ。

「あなたのお父様は趣味として芸術を嗜んでいた。馬ばかり彫って人は彫らないといわれていたようです。でもこれはあなたのお父上の作品ではないかと思います。お爺様の代から勤めていらした庭師に話を聞いたのですが、一度だけ、彼が亡くなる直前に人物像を彫っているのを見たことがある使用人がいたということです」

「……どうして父は女神像を」

「いいえ、女性像です」

 少しだけ言い換えたジェームズの言葉を追うように、マリオンは女性像の顔を見つめる。


「見慣れているものに似ているので、気が付かないかもしれません」

 その瞬間、マリオンは短い叫び声をあげ口元を押さえて立ち尽くした。

 もしも父親が女性像を人生で一度だけ創作したというのなら。そのモデルは。


「これは、母の顔……なのか」

 マリオンは自分の手がかすかに震えていることに気が付いた。

 何一つ、自分の起源にまつわるものとは関わる事はないのだろうと思っていた。肉親の誰一人会うことができないままこの年齢まできてしまったのだ。

 それでも、父親は母親を模して像を作り、そして祖父がそれを丁重にしまいこんだ。スクライバー家の祖先からの由来である王杓と共に。


「これが……」

 これが母親の顔なのか。

 そう思えばとたんにわからなくなる。自分に似ているのかどうか、そもそも美しい女なのかどうかも。良く見なければと思うのに視界は急に滲んだ。

 そっとマリオンの横に戻ってきたジェームズはマリオンの肩を抱く。冷たい石膏像の前でマリオンは静かに頬を濡らしていた。


「こんなもの残すより、先代公爵があなたを迎えに来てちゃんと二人で語り合うことが出来たなら、あなたが自分をどこかの得体の知れない馬の骨なんて言うほど卑屈になることは無かっただろうに」

 ジェームズはマリオンが漠然と抱く不安を感じ取っていると、マリオンは今更に気がついた。


 マリオンが古代ユリゼラ文明に興味を持っていたのも、自分がどこの誰なのか、どこから来たのかを知りたいという不安から来るものであったのだということに。ジェームズはきっともっと早くマリオンの気持ちに気が付いていた。そういえば、彼にアギラとヴェルディの話をしたときに、彼は最後のほうで言葉に詰まっていた。あの時にはもうマリオンの不安を察していたのだろう。

 ……だから彼は今怒っているのだ。マリオンのために。


 こんな黄金も宝石も石像も、マリオンが一番欲しいものでは無いとわかっているから。

 父の残した作品や、母の面影は大切だ。でもそれじゃない。

 ただ、自分に連なる誰かが、わたしを愛してくれていたと、それを知ることさえできたなら。

 しゃがみこんで、突っ伏して泣こうと思ったが、少々みっともないように思えた。

 ああ、でもいいのだ。あのヘンリエッタだって数日前に大泣きしたでは無いか。やんごとない血筋だってきっと悲しい時には泣いてもいい。


 だがマリオンが冷たい床に伏せる事はなかった。肩を抱いていたジェームズが急に力をこめてマリオンを抱きとめたからだ。息を吸い込んだマリオンは、止められないままにそのまま彼の胸で最初の慟哭を吐き出してしまった。

 とめられずに声をあげて泣くマリオンの肩と背をジェームズは静かに撫ぜていた。


「本当は、こういうべきだったのかもしれません」

 ジェームズは低い声で囁くように言った。

「『あなたの御両親は愛し合っていたからこそ、この女神像を残した。お爺様もそれを知り、あなたを思いやってこれを遺すことにしたんです』と」

 そうかもしれない、そう言われれば動揺と共に自分はそう信じられたかもしれない。マリオンはそう信じたい自分に気が付いてもいた。


「でも私には言えないんです。あなたの身内が何を考えていたのかなんて、全然知らない。裏づけも取れなかった。だから言えない。あなたの心細さを補う言葉ために根拠のないことは言えません」

 ……礼儀はわきまえているのにぶっきらぼうなこの元軍人はそんな気の利かないことを言うのだ。


「……でもあなたは愛されるに足る方だと思います。過去はともかく未来は必ず」

 マリオンはひくっと息を詰まらせた。

 それはまるで、初めて聞く愛の言葉のような。


「あなたはちゃんと、誰かと愛する家庭を築ける方ですよ。きっといつか、素敵な男性とめぐり合うでしょう」

 ……彼からの、愛の言葉と思ったが?

 なんかちょっと違う。


 マリオンは彼の服から顔を離した。まだ涙で汚れている顔でジェームズを見上げる。眼鏡が曇って表情が良く見えない。

「……そこは。少し違うのでは?えーと、その、なんだ。自分以外の男性でよいのか?」

「私は身分も低いし、元は野蛮な軍人だし、シナバーですからねえ。いろいろわきまえているんです。でもあなたのことは守りたい。親戚の……そうですね、従兄弟、くらいに思って頼っていただけると嬉しいです」


「……ジェームズ・ベルティ」

 マリオンはため息混じりに言葉を遮った。なんでしょうという顔をしている彼の言葉を奪うように畳み掛ける。


「自分ではよくわかっていないようだが、君はとてもハンサムだ。思慮深く、肝も据わっている。なによりとても誠実な人だと思う。わたしは貴族階級にあまり興味はないし、シナバーということに不気味さも感じないし、私に限らずそういった感想の女性は多くいるだろう。君こそ、自分で思うより素晴らしい人間だ」

「どうしたんですか突然。すごい勢いで褒められてますが。……なんか困るなあ」

「その素晴らしさを持ってしても、お前はダメだ。お前は絶対、女性にモテないということを今ものすごく確信した」


 肝心な時に道理を考えすぎて女をくどけない男など、もてるはずがない。

 従兄弟ってなんだよ、バカ!

 ネルにも負けない悪態を叩きつけそうになって、マリオンは唸るように言葉を飲み込んだ。


「そうですか」

 ジェームズは珍しくがっかりしたような顔をする。

「人生で三回はモテ期があると聞いた事はありますが」

 バカだ。本当にバカ。

 マリオンは彼のベストの胸倉をいきなりその小さな手でつかんだ。そのまま自分に引き寄せる。かがんだジェームズの耳元に怒鳴りつけた。


「三回も必要だとと思っているのか!」

 でもきっと自分もうまく男性を惹きつけることなんてできないだろうとマリオンもわかっている。男心をつかむのがうまいなら、今このタイミングで接吻のひとつも相手の頬に与えてもいるはず。

 自分にはできないけど。


 マリオンはそのまま突き飛ばすようにジェームズから手を放す。マリオンの言葉の意味をつかみかねて、あっけにとられているジェームズを置いて、マリオンはもう一度女神像を向いた。


 涙は徐々に乾き始めていた。

 両親が互いをどう思っていたのか、祖父がどうして会いに来なかったのか、それを知ることができないのはまだとても寂しい。でもその寂しさがあっても、もう自分は揺らがないでいられるような気がした。

 少なくとも今自分は存在していて、この地を公爵として見ている。


「わたしはここにいる」

 小さく呟いてみると、ふっと心が楽になった。ようやく女神像が微笑んでいることに、気が付く。その穏やかな表情に、なぜか過去にあった愛情は確かなものに思えた。思い込みかもしれないが、それでもいいと思える余裕ができた。

 だから先のことを考えよう。


 マリオンは振り返ってジェームズを見た。

「わたしは古代ユリゼラ文明の保存を行いたいと思っているんだ」

「……それはまた、どうして?」

「統一王が成したことは立派だ。彼が踏みにじらざるを得なかったここの地方の文化はたしかに滅ぶべくして滅んだのかもしれない。でも残しておきたいんだ」

「誰かが、過去を知りたいと思った時にその助けになるようにですか?」

 女心には途方も無い鈍さを発揮するのに、他人の気持ちには妙に聡い彼はマリオンの気持ちを言い当てた。


「女神ヴェルディと聖女ヴァレリー。その二点でも過去に文化の交流があったことが伺える。我々がどうやってこの大アルビオンの歴史をつくってきたのかの道標になるかもしれない。教会は一つの宗教が正しくて、他は愚かな邪教だといっているが、その邪教とやらが教会に影響を与えたのだと考えるのも楽しい。そういう『事実』をいつか誰かが必要とするときが来るような気がしている」


「……あなたにしかできないことだと思いますよ」

 莫大な財産、ユリゼラ地方の支配者の末裔。

 ユリゼラ公爵スクライバーにしか出来ないことだろう。

 わたしのしたいこと。


「あなたらしいとも思います」

「そうか。それは褒めているのか」

「最大に」

「励みになる」

「恐れ入ります」

 マリオンは自分よりはるかに長身のその彼を見上げた。

 どんな顔をしようかと思う。


 彼の事は信頼している。従兄弟とか気が遠くなるような妄言を先ほど吐き出されが、多分彼も自分を嫌ってはいまい。相手としてはまあ申し分ない。貴族から反論はあるだろうが勝算がないわけではない。苦労をかけるが申し訳ないと頭を下げることもマリオンには苦ではない。

 一応公爵たるもの、こちらから求婚するべきであろう。


 なるべく堂々と、宣言するべきか、いや、あるいは……可愛らしく行くべきか。いやまて、それは自分には不可能だ。

 ええい、とにかく口にしてしまえ、とマリオンは息を吸い込んだときだった。


「それにしても、この女神像はどうやって運び出しましょうかね。わかった以上ここではなく現公爵城においておくべきだと思いますが」

 そんな現実的なことを言われて思わず出鼻をくじかれる。


「そ、そうだな」

「私がかついで外に持ち出してもかまいませんが、少々問題が。重さはいいのですが、繊細な部分もありますからね。やはり人数を集めてきちんと梱包した上で持ち出すほうがよろしいでしょう」

「王杓は」

「これ、あまりにも価値がありますから、存在を明らかにするのもためらわれませんか?それこそあの盗賊みたいな連中がひっきりなしにやってきそうです。私が撃退してもいいですが、公爵に何かあったらと思うと気が気じゃありません」

「……そうだな、当面伏せておく方向で、エドガーに相談してみるか」

「おや、彼は信用しているんですか?」

 マリオンはなんだか求婚のタイミングを逃してしまったと歯噛みしながら、答える。


「信用している。祖父が亡くなり、わたしが来るまでの会議の議事録を読んでみると彼がいつも中心人物だ。それも日和見で利己的な諸侯から、公爵家の財産の散逸を防いでくれたようなのだ。まあわたしに対しての好意ではなく、忠義を尽くしていた祖父やスクライバー家そのものへの誠実さかもしれないが、それでもとてもありがたい」


 マリオンはそこまで言ってから苦笑いを浮かべた。

「いつかわたしにもその誠実さを向けてもらえたら嬉しいが、少々難題だな」

「……まあ、なんとかなるんじゃないですか」

 いつになくぼやけた返事だがマリオンは彼の様子に気が付かない。


 おやおや、もうちょっとで両思いじゃないですか、というジェームズの本当に小さな不平混じりの呟きも耳には入らなかった。エドガーは帰り際、城の警護の人数を増やすように手配すると言ってくれた。マリオンにとっては予想外の、けれどありがたい申し出である。ただ、ジェームズとエドガーの間にあったささやかな会話をマリオンは知らない。


「王杓の扱いについては、彼と相談してみよう。目立って王家に取られても面白くない。王杓だけとりあえず持って帰るか……」

「わかりました。ところで冷えてきましたね。そろそろ戻りませんか」

 ジェームズは自分の外套を脱いだ。王杓を女神像からはずし、外套で包む。軽がると行っているが、それはシナバーの彼だからであって、マリオンでは持った瞬間によろめきそうな重量感のある純金の杖である。


「持っていってくれるか」

「ええ」

 小枝のように軽々とかついだジェームズについていこうとマリオンは歩きかけて、またしても求婚を忘れたことに気が付いた。


「ジェームズ・ベルティ!」

 強く呼びかけると彼は振り返った。

「『申し分ない』とか『妥当だ』とか考えているでしょう」

「は?」

 ジェームズはつまらそうな顔をしている。

「あなたの花婿という立場は喉から手が出そうですが、そんな考えで求婚されたくないんです」

「何を言って……?」

「階級の礼儀とかどうでもいいです。惚れた相手に結婚の申し込みくらい、私は自分のほうからします。だいたい、恋心が全然透けて見えないのがほんと腹立たしい。私はあなたの誠実さは好きですが、夫になるならもっと欲しいものがあるんです。さ、戻りましょう」


 あまりにも予想外すぎて、いまひとつマリオンには彼の言いたいことがつかめない。

 一体どういう返事なのだ。

 何が欲しいのだ。公爵という地位ということか?いやそれは無理だというということはちゃんとわかっている男だ。財産とか愛人を作る自由だろうか……あまりそういうものが欲しいタイプには見えないが。

 いやまてわたしから何か欲しいといっていた。貞淑……?いや大丈夫だろう、ジェームズ以上に異性に興味をもたれない自信はある。


「わからない。一体何が欲しいのだ」

「わからないのが腹が立つんですけど、まあいいやと思う自分もいて、それがまた苛立つんですよね」

 歌うようにジェームズは軽やかな不満を言う。さらに混乱したマリオンの顔を見て、彼はあっさり楽しげに笑い出した。

 不機嫌な言葉、でも楽しそうな表情。

 なんなんだ。


「いつかわかりますよ。それまでもうちょっと花婿は吟味したほうがいいですよ」

 ぽかんとしているマリオンに彼は開いている片手を差し出した。

「すべりますよ、そこ」

「……うん」

 マリオンもそっと手を出した。

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