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 二人が向かったのは城の最上部を飾るように幾つも並んでいる塔の一つだった。ネルはあまり人に聞かれたくない話があるようで、そんな人気の無い場所を選ぶことになった。夜のユリゼラはすでにかなりの寒さである。マリオンは屋上に出たところでガウンの袖口と袖口を合わせるようにして手をしまいこんだ。


「一体どうしたのだ」

「……ちょっとスコットに怒られたのよ」

 ああ、昼間の件かと思いつく。

 マリオンに対して取った無礼な態度。貴族とか平民とか、そういう問題ではなく人としての対応に、いささか問題のあったネルの言葉をスコットは非難したのか。彼もマリオンを友人だと思ってくれているようでマリオンは少し嬉しい。


「悪かったわね」

「別にかまわない」

 マリオンもさらりと答える。

 冷たい空気の中、しばらく沈黙があった。ネルは満天の星をまっすぐ空を見上げて眺めている。ややあってネルはマリオンに視線を戻した。

 そしてにやりと笑う。


「でもね、ほんとは悪いなんて思っていないのよ」

 ネルはスコットより少しだけ年上のようだった。見た目はそれほど変わりないがその瞳にある苦労の色が彼女を年かさに見せている。


「思っていないのか?」

「そう。ごめんね」

 考えてみればバカにされているとしか思えない発言なのだが、ネルの表情には嫌味がない。

「あたしね、すごくスコットが欲しかったのよ。どこかの貴族のお嬢さんになんて渡したくなかったの。小さい頃……そうね五つくらいのときかな、ある日聖ヴァレリー大聖堂に迷い込んでそこで国宝の聖女ヴァレリーの絵を見た。あの時にあたしは生涯かけてもこの絵に匹敵するくらいの絵を描きたいと願った」

 ネルは声を荒げず、マリオンに対する怒りや憎しみを見せない。彼女にとってマリオン自身はそれほどの相手ですらないのだと気がつかされ、マリオンは無言で息を潜めた。


「父親はろくに帰ってこないし母親はすぐにあたしに手を上げる。画材どころか鉛筆だって持ったことがない。まわりに芸術なんてかけらもなかった。そんな状況だったけどでもあたしはかならず絵を描かなければならない……描く事になるってわかったのよ」

 それからどれだけの苦労を経てネルが画家としての今の地位を得たのかわからない。マリオンには聞いてもわからない話であろう。だからネルは話をそこで切って微笑んだのだ。


「それと同じことをスコットを前にして思ったの。あたしは彼と一緒にいなくちゃいけないって」

 マリオンは思わず目を伏せてしまった。ネルの視線はこちらをただ見ているだけでも息ができなくなるほどに鋭い。貧しい生まれでしかも女性だ、芸術の道もまだ男性社会であり、女性が入っていくには苦労も多かったはずだ。前を向いて、胸を張って、風に逆らい敵と戦ってきた。

 わたしと同じで。

 思いかけてマリオンは違和感を覚えた。彼女と自分、苦労したという事実は変わらないが、何か根本的なものが違う気がしたのだ。


「だから一緒にいる」

 少しだけ声の調子を和らげてネルは短く告げた。神の託宣にも似た確信を持って。


「なじみの画廊も出来て少しずつ、でも確実に絵が売れるようになってきたところだったの。だってアシュトン家の肖像画を頼まれるくらいだもの、貴族階級の中にもそれなりに名が売れてきたってことよ」

「……こんな事件を起こしてしまって今までどおりになんて活動できるのか?」

「あはは。無理無理。さすがにね。アシュトン家だけじゃなくってスクライバー家にも喧嘩売ったんだもの。この状況であたしに絵を頼む能天気な貴族はいないでしょう」

 あっけらかんというネルだがその手は固く握り締められていた。その拳が握り締めているものが後悔なのかはマリオンにはわからない。


「でもあたしはスコットと一緒にいたいからそれを放り出したの。まあいつかはそれ以上の地位も名声もまた取り戻すつもりだけど、でも仕方ない。今はそうするしかなかった」

 苦難の道の中でようやくつかんだものを手放したが、ネルは負の感情を見せなかった。相手がマリオンだからあえて隠しているのかもしれない。

 だがマリオンは「後悔していないの?」と聞くことはできなかった。

 ……よくわからないけどそれは意地の悪い質問に思えたのだ。


「もちろんあなたに感謝はしているのよ」

 ネルはその豊かな胸を誇るようにはった。とても相手に感謝を示す態度ではない。高い尖塔の上で風は強く、ネルの長いスカートがばたばたとはためいていた。

「でもあたしはあんたを気に入らないわ」

「そうか」

 マリオンは苦笑する。


「まあそもそも権力であなたのスコットを掻っ攫おうとしていた人間だ、好かれるとは思っていないよ」

「なにが権力さ」

 ネルはその桃色の唇を突き出した。その丸みのある体も、目つきは鋭いが可愛らしい顔立ちも、自分と違ってとても女らしいなとマリオンは少しだけ彼女を妬んだ。それで絵画の才もあるなどとは世の中は不公平に出来ている。

「大体不公平なのよ」

 ネルが自分の今の考えていることと同じ言葉に口にして、マリオンはあっけに取られた。


「あたしにあんたぐらいの財産があったらやりたい事は一杯あるわ。だからわけのわかんないことで悩んでいる暇なんてないのよ」

「わけがわか……っ!」

 自分がほとんど理解できないまま、受け入れてしまったこの運命をあっさりそんなふうに言われてマリオンは愕然とする。

「あんたがあたしくらいスコットを好きだったらあたしに太刀打ちなんて出来なかった。そうやって全部自分が望んだことじゃない、なんて顔しているのは気に入らない」

 ネルの言葉は言ってはならないことの連続だが、それでも間違ってはいないとマリオンは打ちのめされた。


 急に降ってきた幸運だからまるで自分のこととは思えなくてどうしていいのかわからない。

 そうだ、たかが幸運だ。でも自分のものであるのならもう少し責任を持てということなのだろうか。責任については頑張っているつもりだが。


「公爵としての責任に対する態度が甘いというのなら、それは反省しなければならないな」

 マリオンは精一杯堂々とした態度で言った。

 貴族の子弟が通う学校では本当に居場所が無かった。そもそも女性というだけでも珍しいというのに、幼少時代は孤児だったというマリオンに親しくしてくれるものなどいない。それでも媚を売るのだけは無性に腹が立ったからいつの間にかこうした言葉遣いを選んでいった。なおさら遠巻きにされたが。


「違うわよ!」

 ネルの声は相当な大きさだったはずだが、それも風で吹き飛んだ。

「あたしが言うのはえーと……なんていったらいいのかしら、うまい言葉が見つからない!」

 自分に焦れてネルは爪を噛んだ。結構な癇癪持ちなのかもしれない。確かにスコットくらい鷹揚でなければ彼女の相手は務まらないだろう。

「そう、そうだわ!自分の環境を好きになればいいのに!」

 ……好き?

 多分ぽかんという顔をしていたのだろう。


「あんたがめんどくさい立場にあるってのはわかるのよ。でもせっかく使えるものがあるんだから、あんたはそれを使ってしたいことは無いの?ってことよ!」

 ネルは言い切ったとばかりに腕を組んで仁王立ちのままマリオンを見ている。

「あんた楽しそうじゃないんだもの」

 公爵の立場を持ってやりたいことはないのか、とネルは追求しに来ていたのだ。


 やりたいことなど考えたこともなかったな、とマリオンはぼんやりと考えていた。成さねばならないことが次から次へと目の前に立ちふさがってそれをこなすだけで十年以上が過ぎ去ってしまった。

 イングラム公もヘンリエッタもマリオンがそれをこなしていることを褒めてはくれるが、あなたは何がしたいのかと問われたことはなかった。


「……何がしたいんだろう」

 小さな呟きだったが、それはとめられなかった。

 そうか、と先ほどの違和感の正体がわかる。

 ネルは自分のために世間に挑んできた。

 ……わたしは。

 わたしはなんのためにここにいることを選んだのだろう。


「……とにかく!」

 ネルの強い声に思考を遮られる。

「あたしが言いたかったのはそれだけよ」

「……そうか」

 マリオンはネルの顔をぼんやりと見つめた。

 まだ彼女の言ったことを整理することはできない。それをじっくり考えるにはいささかこの場所は寒すぎる。

 マリオンが自分の腕をそっと身に回したとき、ネルはちょうどくしゃみをしたのだった。


「……城内に戻ろう」

「そうね。あまり夜には外へ出たことが無かったけど、さすがにユリゼラの秋の夜は寒いのね」

「もっと寒くなる」

 マリオンも肩をすくめてから階下に向かう梯子を見下ろした。

「……え」

 ぽかんとその空虚な穴を眺めてしまった。先ほどまで梯子が立てかけられていたはずのその場には、何もなかったのだった。


「……どうしたの」

「梯子がない」

 マリオンの言葉にネルも覗き込んだ。

「……あたしじゃないわよ」

 ここ登ったのはマリオンが先。確か外せる可能性があるのはネルだが、それでも彼女では無いだろう。梯子を落としたとしたら眼下に見えるはずだ。しかし梯子は視界の届く範囲には無かった。

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