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「おい、英一朗がなんでそんなことするんだよ」

 誰かが声を掛けた。

「もうやめようよ。なんの証拠もないのに、彼女を悪者にするのは卑怯だよ」

 知らなかった、英一朗が恵都のために抗っていた。やっと、勇気を出して恵都を庇った。

「お前、あんな女の事好きなのか?」

 誰かが囃し立てた。

「ああ、好きだよ。中学のときからずっと好きだよ。でも僕は意気地なしで、彼女とすれ違いになってそれから声を掛けられなかった。もう嫌なんだ。黙って見ていたら僕も彼女を虐めていることになってしまう。そんなの嫌だ。彼女は人の悪口をいうような子じゃない。あんなこと彼女は絶対にしない!」

 英一朗は必死だった。なりふり構わず、過去の自分を戒め、恵都のためにと立ち上がる。

 英一朗が恵都の後を追いかけようとした時、黒板の前にいた男子が英一朗の腕を取った。

「何言ってんだよ。ずっと今まで彼女に声を掛けられなかった奴が、こんな時だけいいかっこして、目立ちたいだけだろ」

 おい、その手を離せ、今恵都に追いつかなければ恵都は屋上から飛び降りてしまう。

「何でも好きなように思えよ。僕のことも虐めろよ」

 ふたりが対峙しているとき、紗江が近づいてきた。

「英一朗、矢野さんのところに行ってあげて」

 英一朗を掴んでいた手に触れ、離させた。

 紗江がどうして?

「私、矢野さんのこと好きじゃないけど、これはちょっとやりすぎだと思う。矢野さんは無意識で変な事するかもしれないけど、悪口は言わない人だと私も思う。矢野さん、鈍感だもん。人から嫌われていても全然気がつかない。そんな人があんな悪口をネットで流すかな」

 そこで絵梨の方を見た。

 絵梨は平常心を装っていたが、内心びっくりしただろう。もしかしたら紗江は絵梨が怪しいと感じているのかもしれない。紗江なら何か心当たりがあるのかもしれない。

 悪口のサイトが発覚した時、紗江は恵都に疑われたことを感じていた。それの意味は恵都がやっていないということに通じる。英一朗も紗江を疑っていたから、あの時紗江はそう思われたことに対して憤っていたのだ。

「英一朗、早く追いかけて」

 紗江の言葉で私は時計を見た。三時五十五分になっている。あと四分しかない。

 英一朗早く! 私も叫んでいた。

 紗江の行動に少し見直したものの、そんな余裕がなくて私は屋上に飛んだ。

 カチカチと時計の針が進む音が聞こえてくる。

 屋上に辿りつけば、どんよりとした空の下、ずっと見ていた天気がそこにあった。

 そしてフェンスをよじ登る恵都の姿が目に入る。

 私はなんとか食い止めたくて恵都に憑依しようと試みる。でもどうしてもできなかった。

 恵都はフェンスを越え、屋上の端に降り立って震える足でちらりと下を覗き込む。高いところが苦手だから、くらくらとして後ろに後ずさった。

 それでいい。そのまま動かないで。

 目を瞑り、しばらくそこに佇んで、躊躇していた。

 後ろを振り返ってもまだ英一朗が来ない。もしかして屋上にいると思ってないのかもしれない。

 恵都は深呼吸をし始め、目を開けて前を見据える。そして一歩足が前に進んだ。

 ああ、どうしたらいい。このままでは恵都は本当に飛び降りてしまう。

 私は過去を何ひとつ変えることができなかったの?

 ねぇ、恵都、辛いのはわかる。誰も信じてくれない。いつもいい子に思われていいように扱われてしまう。悔しい思いをいっぱいしてきた。我慢ばっかりだった。

 でもね、死んだら本当にそれで終わっちゃうんだよ。

 今死んだら、折角庇ってくれた英一朗が悲しむ。あの紗江ですら、恵都が虐められているのをおかしいと思っている。

 それを知ったら、恵都は死のうなんて思わないはず。

 生きてればこの先なんとでもなる。

 そこに思うような期待がなくとも、生きる意味を明確に見いだせなくても、生きるということは深く考えずに、毎日を迎えるってことでいいんだよ。

 そこに咲いている色とりどりの花だって、ふと目にしたときにきれいだって思えたら、それを見つけたことが幸せなんだと気づいてほしい。

 美味しいものも、もっといっぱい食べよう。

 いまここで全てを終わらせるなんてもったいない。

 生きているだけで、明日は来るし、そこできっとまだ見たことのないものに出会えるはず。

 恵都、お願い、死なないで。

 私に気づいて。こっちを向いて。

 恵都生きようよ。

 あなたの中に入って心から思った。

 私も生きたいって!

 私の魂の叫びだ。最後の力を振り絞って恵都に思いっきりぶつけた。

 その時、恵都が視界からすっと消えた。

 ああ! 悲鳴を上げてしまう。

 嘘! 飛び降りてしまったの。そんな、恵都を助けられなかった。嫌だ! こんなの絶対嫌だ!

 私はフェンスに張り付いて、大声で泣き叫ぶ。

「どうして、どうしてなの!?」

 その時、後ろからがしっと強く抱きつかれた。

「恵都、早まるな、死ぬんじゃない」

 ハアハアと激しく息をして、必死に叫ぶその声に振り返る。そこには英一朗がいた。

 えっ? なんで?

「ごめん、恵都。ずっと意地を張ってた。僕が意気地なしなのに、半分は君のせいにしたりして、自分の気持ちをさらけ出すのが恥ずかしかった。正直に伝えるのが怖かった」

 えっ? えっ? だから、なんで? どうなってるの?

 自分の姿を確認すれば、制服を着ていた。

「恵都、だから、だから……」

 英一朗は必死に説得する。私はゆっくり振り返えると、英一朗は抱きしめていた手を離し、放心状態の私を見つめ不安そうに様子を窺っていた。

 その英一朗の少し離れた後ろに、案内人が立って微笑んでいた。

 口元に人差し指を立て、何も言わないように私に指示している。

「安心して下さい。彼には、私は見えませんし、声も聞こえません。このまま黙って聞いて下さい」

 一体何が起こっているのだろう。とにかく静かに立っていた。

「恵都、大丈夫かい? まずは深呼吸だ」

 英一朗は落ち着かせようとしてくれている。英一朗に合わせて息を吸って吐く。

 その間、案内人はにっこりと笑って私に語りかけた。

「さて、矢野恵都さん。あなたは私のミッションに見事成功されました。約束通り、あなたは生き返りました」

 私はまだ飲み込めない。

 私がどうして矢野恵都なのだろう。

「最初の約束を思い出して下さい。矢野恵都を助ければあなたも助かると私は言いました。あなたは見事にご自身を自分で助けられました」

 自身を自分で助ける!? それって……!

「そうです。あなた自身が矢野恵都だったのです。あなたにはそれを伏せ、記憶を消してもう一度自分の体に入って頂きました。説明する時は気づかれないように多少フェイクを入れましたが、基本間違ったことは言っていません。矢野恵都と記憶を失くしたあなたの存在を分けることで、あなたに矢野恵都が生きるべきか問い質したかった。そしてあなたは矢野恵都に生きて欲しいと願い、あなた自身も知らなかったとはいえ、生きたいと願いました。だからあなたは今、生きているのです。この後私が指を鳴らせば、全ての矢野恵都の記憶が戻ります。それと同時に私の姿は見えなくなります」

 案内人はウインクをしていた。

 私が何か言おうとした時、案内人はまた人差し指を口元に持っていった。次にその指を空に向ける。自分も一度空の様子を窺ったあと、にやりと白い歯を見せて笑っていた。

 それは前にも見た仕草のように思えた。なぜかその時になって、違和感を覚えた。まるで誰かに知らせているように見えたからだった。

「とりあえず、まずはこの場を楽しんで下さいね。では」

 案内人は爽やかな笑顔を向け、指をスナップさせた。

 その瞬間、もやが晴れるように全ての記憶が戻り自分が矢野恵都だったことを思い出した。

 その時の膨大な感情があまりにも溢れすぎて、私に容赦なく押し寄せてくる。

 悩んでいたこと、悔しかったこと、辛かったこと、視点を変えてずっと見ていた私。

 理解してもらえず、嫌いだと思っていた自分自身。

 自分が思っていた以上に自分が好きになれた気がした。

 今なら全てを受け入れられる。これが自分なんだと。いいところも悪いところも全部含めて今の自分がある。

 胸を押さえれば、私の心臓が動いていた。なんてすごいことなんだろう。

 その気持ちを誰かと共有したい。この人ならわかってくれるはず。

「英一朗!」

 彼の名前を呼んだ時、涙が溢れてきた。

 英一朗ももらい泣きしそうに目を潤わせながら私に笑顔を見せてくれる。

 そうだ、この人はいつだって私を見守っていた。

 私は思わず英一朗に抱きついた。そして溢れてくる涙を抑えられず、おいおいと甘えるように泣いた。

「生きてる。生きてるよ、私」

「うん、そうだね」

 英一朗は私を受け止めて、優しく抱きつき返してくれた。それが身に沁みるくらい嬉しかった。

 今度は急に照れて一緒に笑ってしまった。

 涙も容赦なくこぼれてくる。泣き笑いだ。でもすごく幸せだった。

「あっ、恵都、ほら空を見て。天使の梯子(はしご)だ」

 天使の梯子?

 英一朗が指差す方向へ振り返れば、どんよりと空を覆っていた雲の切れ間から光が降り注ぎ、地上に向かって放射線状にまっすぐ差し込んでいる。

 まさに天使が空を舞うような神々しい光のシャワーだ。あの案内人が居る場所なのかもしれない。

 最後に私に見せてくれた奇跡。

 それは今まで見た中で一番美しく、心を洗われるように新しい自分に生まれ変わった天からの祝福に思えた。

 英一朗と肩を並べ、その大自然の贈り物に魅入ってしまう。

 あまりにも美しいその輝きは漲る力を与えてくれて、私は自然と英一朗の手を握っていた。英一朗もしっかりと握り返してくれる。

 ふたりで生きてることを確かめ合うように重ねたその手はとても温かく、とても頼もしく、そして好きという感情で心がいっぱいに満たされた。

 それを勇気付けるように、天からの光は益々輝いて黄金色に辺りを染めていく。それを見ていると、この世のものではないような何か夢の世界にいる気持ちだった。

 これで全てが上手く行ったと思ったその時、「恵都」とどこからか弱弱しく呼ばれた声が聞こえた。

それを聞いたとたん、私の意識が遠のいていった。

 私は助かったのではなかったのだろうか。

 最後の最後で私は死を恐れた。


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