第十六話「お前ら全員」
「アアアアアアアアァァァァアアアアア‼‼‼」
断末魔のような金切り声が、薄紅色の少女の鼓膜を気味悪く震わせた。
真っ黒な地の底で、闇が叫んでいた。
あれは、自分の知っているサイトウハヤトではない。
呪いによって染められてしまった被害者だ。
「……ぁ」
ほんの少しすらも、動くことが出来なかった。
力になりたいと言っておいて、いざ危機に直面して何も出来ない。
いつの間にか、足が震えていた。
亡霊のようにこちらへと歩く『災い』を、シヤクはただ見つめる。
「……げろ」
闇の中から、声が聞こえた。
それは少女のよく知る、あの人の声だった。
「に、ゲろ……シヤク……。おま、え、だけ……でも……」
こんな状況でも、彼は少女を守ろうとしていた。
きっと、さっき大丈夫だと言ったのは彼なりの優しさだったのだ。
命が削られているはずなのに、それでも笑ってみせたのだ。
「いや、です……!」
そんな彼を置いて逃げるなど、決して出来なかった。
何かが出来るはずだ。こんな自分でも、彼のためになにか。
「回復、魔法……」
誰かを癒し、救う魔法。
少女が魔法を学びたいと思ったきっかけ。
寝る間も惜しんで本を読んだ。レイミアが話していた、『災い』すらも癒せる魔法は、もう暗記してある。あとは、使うだけだ。
でも、無理だ。
魔力が、足りない。
崖から助かったのだって、ハヤトがいてくれた、スキルが上手く機能したのからだ。
今はそのハヤトを助けなければならないのに。一人で助けなければならないのに。
「どうやって……」
逡巡する少女の耳に、石の転がる音が聞こえた。
自分の視界にいるハヤトから生じた音ではない。
自分たちの後方。ハヤトが築いた魔晶石の山の奥。
闇の中で蠢く巨躯。四足で安定した足取りでこちらへと距離を詰めるそれは。
「魔物が……‼」
最深部の魔物。それを、ハヤトを守りながらシヤクが倒すなど不可能だ。
ここで、終わりなのだろうか。もう会うことはできないのだろうか。
絶望で雁字搦めにされたシヤクは、その場で動くことすらできなかった。
そんな彼女の横を、闇に染まった青年が通り過ぎた。
「すくう、んだ。おれ、は。ぜんぶ……を……」
押せば倒れてしまうような、そんな弱弱しい足取りで彼は、立ち向かっていく。
殺気立つ魔物たちの正面へ。
少女は、止めることすらできなかった。
足を震えすら止まらない。
それなのに、彼は、立ち向かって。
「ガァァアア‼」
魔物の振るった右前足が、青年の体を吹き飛ばした。
赤子の手を捻るかのごとく、彼は壁へと叩きつけられた。
そして、崩れ落ちていく。
その体から、大量の血が溢れていた。
「……ぇ?」
彼と過ごして約二ヵ月ほどだが、その体に傷がついたことなど一度も見たことなどなかったのに。
こんなにも、あっけなく。
こんなにも、簡単に。
彼の命は、尽きてしまうのか。
「……だめ、なのでございます」
力なく、シヤクは倒れている青年の元へと歩く。
ドクン、ドクンと、弱い脈が感じられた。
口元に手を当てる。ほんの少しだけの温かみが、指を撫でた。
まだ、死んでいない、
助けられるのは、自分だけ。
また何もしないのか。また、何もせずに。ただ怖くて動けなかったという理由だけで。ついには彼を見殺しにするのか。
答えは、否だ。
「絶対に、絶対にそんな結末、私は許さないなのでございます……‼︎」
シヤクはゆっくりとその場に腰を下ろし、彼の胸に手を当てた。
もう意識は失っていた。今も体から血が溢れているが、その勢いすらも弱まっている。
死は、すぐそこまで迫っていた。
だが、そんな終わりは認めない。認めてたまるものか。
「また、みんなで。シヤクさんにエストスさん、リリナさんに、それに、お姉ちゃんも、私も。みんなで。みんなで……‼︎」
一人も欠けさせたくない。
また、あの家に、みんなで。
「だから、ハヤトさん」
涙を流すことなく、少女は笑う。
穏やかに。大好きな人を優しく見つめて。
「私に、力をまた貸してください」
そっと、唇を重ねた。
淡く、鉄の味がした。
なんて、ズルい女なんだろう。
こんな形でしか、この気持ちを形に出来ないんだから。
でも、それでもいい。
この人のそばに、いれるのなら。
「【笑う小娘、躍る花弁、固まる影に、照らさぬ灯台。止まる鼓動、重なる綻び、涕涙叶わぬ惨禍の跡。歩みを止めぬ高尚な翼は、決壊し、朽ち果て、叫喚に暮れる。】」
ドキドキと心臓が脈打っているのが分かる。
同時に、魔力が体を巡っていた。
これなら、きっと。
「【舞い戻れ、気高き魂よ。不遜なる天命へ、我は静かに爪を立てよう。】」
誰よりも強くなれる気がした。
この力で救うのだ。この人を。
この祈りで。また、この人と笑うために。
「《クラーレ・タメント》」
淡く白い光が、血に染まった青年を包み込んだ。
ハヤトの体を覆っていた闇が、少しずつシヤクの手から放たれる白光に溶けていく。
まるで行き場を失っていた魂たちが天へと浄化されていくようだった。
しかし、気を抜いてはいけない。力の調節を少しでも間違えてしまえば、この青年の命はたちまちにこの闇とともに天へと帰っていくだろう。
決して、油断は出来ない。
そして、
「これ、で……」
ハヤトの青ざめた顔に生気が戻り始めた。
微弱だった呼吸も、わずかではあるが深くなっている。
心臓の鼓動も、力強くなっていた。
シヤクの頬から流れた汗が、ハヤトの顔に落ちた。
「はぁッ! ……はッ!」
無意識に止まっていたシヤクの呼吸が、一気に解放された。
ドクンドクンと未だに体全身に響くほどに脈が打っていた。
ゆっくりと、手をハヤトから離す。
成功だ。命の息吹を、取り戻したのだ。
しかし、安心はできない。
「魔物、どもが……」
ハヤトに致命傷を与えた魔物が、それに続く魔物たちが、こちらへと迫っていた。
シヤクの心に浮かんだ最初の感情は、怒りだった。
少女はそっと視線をハヤトへと向ける。
その顔を見るだけでも安心する。愛おしいと、こんなにも感じる。
誰だ。こんなにも愛おしい人をここまで傷つけたのは。
自分だ。一番の責任は、自分にある。
自分の無力さに、腹が立って仕方なかった。
許せなかったのだ。
自分が、『災い』が、魔物たちが。
この世界の全てが、少女には敵に見えていた。
これはきっと、八つ当たりにも近いのだろう。
自分の心が怒りに染まっていく感覚があった。
その行き場のない怒りを吐き出すように、シヤクは口を開いた。
「…………殺してやる」
正面から、大量の魔物が近づいてくる。
じわりじわりと、デザートを頬張ろうとするように。
しかし、
「【嗤う道化。少女の嬲る醜き仮面。混ざる肉塊は熱となり、響く悲鳴は糧となる。】」
少女は、逃げなかった。
一切、後ろに下がることはしなかった。
後悔と憤怒が滲む涙が、とめどなく溢れていた。
握りしめる拳からは、赤い液体がこぼれていた。
感情によってステータスが向上するスキル。
対象の感情には当然、怒りも憎しみも含まれる。
「【夢に生まれし彼の人形を、我如何にして灰にせん。】」
彼女の頭に残る思考は、たった一つ。
その思考に囚われた薄紅色の少女は、憎悪を、激憤を、その全てを込めて魔法を叫ぶ。
「――《ハイリプカ》ァァァァアアア‼︎‼︎」
もう止まれない。
もう決して、引き返せない。
この感情の中にいる限りは。
「お前ら全員、消えてなくなれぇぇぇええええええええ‼︎‼︎‼︎」
少女の怒りを具現化するような紅蓮の炎が、天を衝くほどの火柱となって燃え上がった。




