偽りの楽園で、私はすべてを失った(日向朱音視点)
冷たいコンクリートの感触が、薄い部屋着越しに体温を奪っていく。私は、たった今まで自分の家のようにくつろいでいた場所のドアの前で、蹲っていた。閉ざされたドアの向こうには、ほんの数分前まで私の知っている「蓮」だったはずの誰かがいる。
「さよなら、日向朱音。勝手に不幸になってくれ」
あの声が、耳の中で何度も反響する。氷のように冷たくて、一片の感情も含まない、他人に向ける声。違う。他人に向ける声ですらない。まるで、道端の石ころか何かを蹴飛ばす時のような、無関心で、無機質な声。
何が起きたの? どうして?
嗚咽が止まらない。喉が張り裂けそうなくらい叫んでも、涙を流し尽くしても、固く閉ざされたドアが開くことはなかった。蓮が私にくれた、最後の言葉。それが、私という存在の完全な拒絶だったと理解した時、私はようやくよろよろと立ち上がり、自分の家へと続く数メートルの距離を、何キロもあるかのように感じながら歩いた。
すべては、ほんの少しの気の迷いだったはずなのだ。
蓮との関係は、完璧だった。物心ついた時からいつも隣にいて、私のことを誰よりも理解してくれる。料理も勉強もできて、いつも優しくて、私の我儘を笑って聞いてくれる。一年半前、彼から告白された時は、天にも昇る気持ちだった。蓮が恋人だということが、私の誇りだった。
でも、いつからだろう。その完璧な「安心感」が、「退屈」に思えてしまったのは。家族みたいに近すぎる関係に、恋愛特有のドキドキやスリルが足りないなんて、贅沢な不満を抱き始めたのは。
そんな心の隙間に、伊集院先生は滑り込んできた。
「日向さんの色彩感覚は、他の生徒にはない特別なものだ」
大人の男性に、才能を認められ、特別扱いされる。それは、未知の快感だった。蓮がくれる優しさとは違う、少し危険で、背徳的な甘い言葉。先生と二人きりで行う「特別指導」は、私をどんどん有頂天にさせていった。
「レンくんは、まだ子供だからね。君の本当の魅力は、大人の男にしかわからないよ」
先生はそう言って、私を巧みに蓮から引き剥がしていった。蓮には部活だと嘘をついて先生と会う時間。最初は罪悪感で胸がちくちくと痛んだ。でも、嘘を重ねるうちに、その痛みは麻痺していった。「バレなければいい」「これは恋愛じゃなくて、ただの火遊び」。そう自分に言い聞かせて、私はどんどん深みにはまっていった。
先生の車の中で、蓮のことを「子供の恋愛ごっこ」だと笑った時も、心のどこかでは「違う」と思っていた。でも、先生に同調することで、自分の裏切り行為を正当化したかったのだ。蓮を貶めることで、自分の罪悪感から目を逸らしたかった。私は、どうしようもなく身勝手で、愚かだった。
そんな偽りの楽園は、蓮がたった一人で仕掛けた復讐によって、あまりにも呆気なく崩れ去った。先生は社会的に抹殺され、そして今、私は世界から完全に孤立した。
自分の部屋に戻っても、そこは安息の地ではなかった。リビングから聞こえてくる両親のひそひそ話。「うちの子が、あの先生と……」「なんて恥さらしな」。その言葉が、壁を突き抜けて私の胸に突き刺さる。
ベッドに放り投げたスマホを、震える手で手に取った。画面を点灯させると、通知は一件も来ていない。当たり前だ。クラスのグループLINEからは、いつの間にか私が退会させられていた。仲良しグループからもだ。昨日まで一緒に笑い合っていたはずの友人たちのアカウントを覗くと、『ブロックされているユーザーです』という無機質な文字が表示されるだけ。ネットの掲示板を開けば、『淫行教師の相手の美術部H』『自業自得』という言葉が、嘲笑うかのように並んでいる。
私の居場所は、どこにもなかった。世界中が、私の敵になったみたいだった。
途方に暮れて、私は最後に残された細い蜘蛛の糸に手を伸ばした。伊集院先生。彼なら、なんとかしてくれるかもしれない。震える指で電話をかける。しかし、何度コールしても、彼が電話に出ることはなかった。『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』。非情なアナウンスが流れた時、私は最後の希望も断たれたことを悟った。彼は自分の保身のために、私をあっさりと切り捨てたのだ。
全てを失って、独りぼっちになって。
私はその時、ようやく気づいた。蓮が、どれだけ大きな存在だったのかを。
私が「退屈」だと感じていた、あの当たり前の日常。朝、隣の家から「朱音、朝だよ」と呼びに来てくれる声。私が好きだと言ったおかずを、次の日に黙って作ってくれる優しさ。私がテストの点数が悪くて落ち込んでいると、夜遅くまで勉強に付き合ってくれた根気強さ。私がただ笑っているだけで、「良かった」と心から嬉しそうに微笑んでくれた、あの温かい眼差し。
そのすべてが、どれだけ奇跡的で、かけがえのない幸福だったのか。私は、自分の手で、その宝石のような毎日をドブに捨ててしまったのだ。
不意に、首元に触れる。そこにはもう、蓮がくれたハートのネックレスはなかった。あの家に駆け込む直前、あまりの自己嫌悪に耐えきれず、引きちぎってゴミ箱に捨ててしまったのだ。
あのネックレスに、GPSと盗聴器が仕掛けられていたなんて。
想像を絶する事実に、全身の血の気が引いていく。蓮は、いつから知っていたのだろう。私が嘘をついて伊集院先生とホテル街へ向かうのを、GPSで追跡していたのだろうか。私が先生と卑猥な会話を交わし、蓮のことを嘲笑うのを、イヤホン越しに、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
私が彼の前で無邪気に笑うたび、彼はどんな思いで「可愛い」と微笑み返してくれていたのだろう。私の裏切りを知りながら、毎日私のために食事を作り、私の嘘に気づかないフリを続けていた彼の心は、どれほど傷つき、どれほど憎しみに燃えていたのだろう。
その想像は、どんな罵倒や暴力よりも、私の心を深く、深く抉った。私が与えた苦痛の大きさを、今更ながら思い知らされた。
あの日から、私の時間は止まった。部屋のカーテンは閉め切られ、昼も夜もわからない暗闇の中で、私はただベッドに蹲っている。大学受験なんて、もうどうでもよかった。何もやる気が起きない。食事も喉を通らず、数日で体重は目に見えて落ちた。
時々、幻聴が聞こえる。
『勝手に不幸になってくれ』
蓮の、あの冷たい声。その声が聞こえるたびに、心臓を鷲掴みにされたように息が苦しくなる。鏡を見れば、そこに映っているのは、落ち窪んだ目に生気のない光を浮かべた、知らない女の顔だった。かつて太陽のようだと誰もが言った私の笑顔は、もうどこにもない。
謝りたい。もう一度だけでいいから会って、心の底から謝りたい。でも、もう二度と会えないことはわかっている。蓮の人生に、私の存在はもう一片も必要ないのだ。許されることは、永遠にない。
蓮は今頃、どうしているだろう。きっと、私のことなんか忘れて、新しい未来に向かって歩き始めているに違いない。私のいない場所で、誰かと笑い合っているのかもしれない。その想像が、醜い嫉妬と猛烈な後悔の炎となって、私の心を内側から焼き尽くしていく。
ああ、そうか。これが、罰なんだ。
蓮が私に与えた、復讐の最後の仕上げ。彼に与えられた幸福を自分の手で壊し、その価値に気づいた時にはもう手遅れで、彼がいない世界で、彼の幸福を願いながら、永遠に自分の愚かさを後悔し続けること。
出口のない暗闇の中、私はただ膝を抱える。これからもずっと、こうして蓮の幻影に苛まれ、終わることのない地獄を生き続けるのだ。それが、私が犯した罪の、たった一つの償い方なのだから。




