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第2話 彼女たちの打ち上げ花火

「今年の隅田川の花火大会中止だって」

 理香子は、淡い黄緑色のスマホの明かりを見つめながら、夜光虫のように呟いた。

「そりゃあそうでしょうよ」

 マリーはウンザリしたように頬杖を付き、シャーペンを回しながらそう応えた。

 夏休みの始まりの週は、ワクワクしてどこか気だるげだ。



挿絵(By みてみん)



 理香子はロフトから手を伸ばし、丸い天窓をカチャンと開けた。ゆるい熱風が流れこんでくる。パタパタとうちわで仰ぎながら、クッションを引き寄せ、鮮やかなゴザの上へ寝転んだ。

「あんた暑くないの?」

 マリーが、タブレット越しに理香子へ聞いた。マリーはエアコンのある自室で勉強机に向かっている。机にはストロー入りの麦茶があり、グラスの中には四角い氷がたっぷりと入っていた。

「んー、花火大会の時の方が暑くない? 浴衣着て、人混みのなかで」

 白いタンクトップを着た理香子の腕には、うっすらと汗の粒が湧いていた。マリーには汗の視認はできなかったが、水飴のようにとろけた理香子の顔を見て、思わずストローをかき回した。カラン、と氷の音を聴かせる。

「あ、いい音」

 理香子は目をつぶり、一瞬の涼を受けとった。



 トラックがブロロロと走り去る音が聴こえる。マリーの飼い猫がニャアと鳴いて、彼女の部屋から出ていった。マリーは数学の課題をカリカリと解き、理香子はゆったりと夜風にあたり過ごしている。

「そこ、ずいぶん居心地良さそうね」

「マリーも来なよ」

 夏休み前に妄想した秘密基地を、理香子はロフトを片付ける事で完成させた。カラフルなゴザを買い、自室にあったCDプレーヤーと観葉植物を持ち込んで、中央には楕円形のローテーブルとコーヒーセットが置かれている。概ね理想通りの基地が完成していた。

「でもエアコンもないんでしょ? マスクで過ごすのは嫌だよ」

「むー」

 元々ロフトには大量の収納ケースがあったので、大掃除をマリーもタブレット越しに付き合わされた。処分したのは小学校の時に遊んだおもちゃ、教科書、使っていない季節のアイテム。理香子はいちいち広げて紹介したが、マリーもかなり覚えていた。

『見て、浴衣!』

 去年の花火大会で着ていた、理香子の浴衣もそこにあった。色とりどりの紫陽花の上に、風鈴が描かれた彼女の浴衣。水彩で滲んだようなその絵柄と色合いは、背の高い理香子によく似合っていた。

『それ、似合うよ』

『ありがと。マリーの浴衣も似合ってたよ』

 マリーは赤いスイカ柄の浴衣だった。理香子と並ぶと子供っぽくて恥ずかしかった。似合うと言われても非常に遺憾である。その時の会話を思いだし、苦い顔でプリントを眺めた。



 会話を止めて、勉強に向き合うマリーに対し、理香子は頭上にあるピンク色のCDプレーヤーで、こないだ買ったCDを流し始めた。

 音量は最低限に落としているが、ドラムの重低音が聴こえてくる。マリーはしかめ面で文章問題を眺めながらも、利き手じゃない手の指先は、音楽に乗っていた。

「問題そんなに難しいの?」

「うん。最後の図形のやつ」

「あれかあ、複雑だよね」

 理香子は起き上がったついでに、下から持ってきた湯沸かし器に電源を入れた。古い菓子箱からコーヒーフィルターを取りだし、ドリッパーにセットする。マリーは眉を吊りあげ、たくさん直線を引いて計算しては、丸い囲いをごしゃごしゃ描いた。

「数学の課題、あんたはもうやったの」

「うん、昨日の昼間に終わったよ」

 理香子は秘密基地の暗がりの中、コーヒー粉の上から、お湯を丁寧に注ぎ入れてドリップ始めた。マリーは皎々と光る電気スタンドの下、消しゴムでグシャグシャになった藁半紙を見て絶望していた。

「夜をゆったり過ごすのね」

「だって昼の方が頭働かない?」

「私、逆。昼はムリ」

 今でこそキリッと勉強しているマリーだが、昼はイモムシのようにグデっとソファで寝そべっている。夜は花弁を閉じるように静かに過ごす理香子は、出来上がったコーヒーを見て、満足そうに香りを嗅いだ。



「コーヒー、うまくできた?」

「うん」

「暑くないの」

「湯気が欲しかったの、見て」

 理香子は湯沸かし器に残っていたお湯を注いだ。抽出で少し冷えたコーヒーから、再び、白い湯気が立ちのぼる。

「花火の煙だよ」

 残念ながらタブレット越しでは、ほとんど湯気は見えなかったが、理香子の目にははっきりと隅田川の花火が映っている。

 コーヒーのカップにさざめく黒い波は、隅田川だ。屋形船が幾船も浮かび、ドンドンと太鼓の音と同時に、ひゅうひゅうと花火の種打ち上がる。理香子はCDの音量を上げた。ドラムの重低音が、川底に響いて波が盛り上がる。

 鮮やかな色とりどりのゴザは、川に映る花火の色だ。

 赤、青、桃、白、緑、黄、

 止めなく移り変わる色の郡れに、周囲のどよめきは大きくなる。

 マリーは屋台船の隣にいる、浴衣姿の理香子を見つめた。

 彼女の瞳はビー玉のように色がくるくると変わり、どの色もすべて美しく彼女を際立たす。



「──マリー」

「去年、屋形船乗ったの思い出してた」

「凄かったね、また乗りたいね」

「うん…………」

 いまだにゆらゆら揺れている心地だった。今すぐ、彼女の秘密基地に行きたい。

「私はね、砂漠を思い浮かべてた」



挿絵(By みてみん)



「砂漠?」

「うん。砂漠の花火」

 理香子はテーブルをスゥッと触った。薄いブラウンの、一面、砂の色をしている。

「砂漠なら何もないし、広大だから、きっと大勢の人が見れると思うの」

「あぁ、それなら開催できるかもね」

 茫漠たる砂漠の中に、ゴザを敷いて花火を見よう。

 隣人とは距離がとても遠いから、暑くてもマスクをしなくて平気だ。

「そうなの、船に乗ってもいいの。砂漠の海を泳いでいるの」

 ゴザの下の砂から屋形船がゴウンと出てきた。

 砂上にドンドンと花火が打ち上がる。砂漠で着る浴衣も悪くなかった。

 屋形船が砂をかき分けて動き出し、夜の砂漠に、人とラクダを乗せて滑っていく。

 凸凹した藁半紙に残る、線と円の数々が、打ち上げ花火に見えてきた。

 様々な形と色の花火が、大量の音と煙とともに、夜の闇を明るく照らす——



「問題解けた?」

「えっ」



 砂漠の大海原の屋形船は、シュルシュルと消えていき、目の前には図形問題が残った。

 急に梯子を外されたマリーは、恨めしそうに理香子を睨んだが、彼女は全くこちらを見ず、寝転がってコーヒーを堪能している。飲み干した後はすぐ起き上がり、タブレットの画面から消えていった。

(トイレかな?)

 マリーはついに自力で問題を解くのは諦めて、問題集を開いた。似ている例題を探しあて、同じ公式を当てはめて、なんとか解くことに成功した。図形なんて大っ嫌い。悪態をつきながらストローを啜る。グラスの氷はすっかり溶けて、麦味の水と化している。

 ロフトの梯子をドンドンのぼる音がして、理香子が戻ってきた。

「見て!」

 鮮やかな紫陽花の浴衣を纏っている。ブハッとストローを吐き出した。

「ど、どうしたん」

「勉強終わったんなら、もうちょっとお喋りしよ!」

「いいけど……」

「マリーもあの浴衣着てね、スイカのだよ!」

「なんでよっ、イヤだよっ」

「あ、このまま着替えてもいいよっ。画面はこのままで、ね!」

「えっち!」



 ふたりの秘密の夜更かしは、こうしてまだまだ続くのだった……。

花火 (サイト 墨田区)

砂漠 (写真家 Jean Carlo Emer サイト Unsplash)


花火は「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示2.1 日本」の下に提供


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