16 光の中に
何も確証があったわけじゃない。あったのは、せいぜい「曽根崎さんがもうちょい正気に戻ったら、何とかなるんじゃないかな」という大変甘い希望ぐらいで。
でも、小箱を開ければループを終わらせられると分かっていた。加えて、曽根崎さんの状態が本当に切羽詰まっていて、これ以上はもたないだろうことも。だから僕は、小箱の開封を提案したのである。
すると、虚ろだった曽根崎さんの目に急に光が戻った。彼はうっすらと微笑んで頷いてくれると、手際良く小箱の仕組みを解き――。
背後に向かって、思いきりブン投げたのである。
「ッ!!」
僕も驚いたけど、もっと驚いていたのはおじいさんだった。逃げようと体を捩るも、子供達と同化していてはそれもできない。小箱の蓋は、彼の体にぶつかった弾みで血溜まりの中に落ちた。
次の瞬間、僕らの耳をつんざいたのは、けたたましい笑い声だった。
心底おかしくて堪らないといった様相の場違いな感情の表出。耳を疑った。その笑い声は、紛れもなく僕と曽根崎さんのものだった。
「ああああ……あああああああ!!」
老人が絶叫する。しかし笑い声はより大きくなって辺りに響いた。がっちりと彼の足にしがみついた子供達の顔の空洞から、ヒューヒューという音に混ざって節をつけた言葉が流れてくる。
「わーらった、わーらった」
「わーらった、わーらった」
「オイデ、オイデ、オイデ、オイデオイデオイデオイデ」
突然ゾクリと鳥肌が立った。警告を発する本能に抗えず、自分の全身から汗が噴き出す。
青い光の中、清浄たる天使が老人の前に顕現していた。
「違います! 私じゃありません!」泡を吹かんばかりの老人は、僕らに人差し指を突きつける。
「裁かれるべきはあちらでぶら下がっている二人です! 私じゃありません! お許しを! どうかお許しを!!」
天使は、青い炎を灯した蝋燭を掲げた。形の良い唇が、火先に近づく。
「おやめください……お許しを! どうか、どうか……!」
哀れな懇願を前に、憂いに満ちた天使の目がゆっくりと開かれる。――そこには、何も無かった。闇が。子供達と同じ底無しの闇だけが、僕らを向こう側から覗いていた。
「景清君!」
曽根崎さんの声にハッとする。慌てて見上げると、恐ろしい形相の彼に「ボーッとしてないで早く上ってこい!」と叱咤された。黒い腕にしがみつき、力を振り絞ってなんとかよじ登る。そして、ようやく体が地面らしき場所に落ち着いた時。
金色の光があたりを照らした。ずっと聞こえていた壮絶な悲鳴と笑い声が、ふいにかき消える。
その光の中に、僕は見た。
おじいさんのいたはずの場所に、一本のカカシが立っているのを。
「わーらった、わーらった」
「わーらった、わーらった」
子供達が歌っている。しかし彼らの顔には、何故かカマキリやセミに似た影がぼんやりと重なっていた。
――いや、あれこそが本来の姿なのだろう。僕はそう確信した。
天使は依然として厳かである。絶対的に侵せないその存在をもう一度目にしようとした間際、僕の意識は急激に遠のいていった。
景色が歪み、捻れていく。黒と赤と金の混ざったグロテスクな世界を眺めながら、消失の衝撃に目を閉じた。
木々のさざめく音、鳥の鳴き声、埃っぽい地面、下敷きにした小石の感触――。
ここは、どこだろう。意識を取り戻した僕は、恐る恐る目を開けた。
「……」
燦々と降り注ぐ太陽が眩しい。あたりを見回すと、ボロボロの建物が点在しているのが見えた。……例の集落だろうか?
いや、それはともかく――。
「……戻れた?」
両手をにぎにぎとしてみる。……実感は、無い。でも、もしループの中だとしたら、目覚めた時点で始点である事務所に戻っているはずだ。
そうだ、曽根崎さん! キョロキョロと探すと、僕の後ろで無様に倒れるオッサンを発見した。
「曽根崎さん、曽根崎さん!」
ゆさゆさと揺さぶる。すぐに呻き声が聞こえて、ホッとしたのは内緒だ。やがて目つきの悪い目を開けた僕の雇用主は、億劫そうに片手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます。大丈夫ですか?」
「一応は。……なんだここ。地獄か?」
「地獄に落ちる心当たりはあるんですね。違いますよ。あの集落です」
「集落……」
真っ黒な瞳がぐるりと周辺をめぐる。ぼーっとしているように見えて少し心配したけど、彼は平然とした顔で僕に向き直った。
「君は、一連の流れを覚えているか?」
「ええと……おじいさんに小箱をぶつけたら、笑い声が出てきましたよね? それで悲鳴をあげるおじいさんをよそに天使が現れて、蝋燭が消えたと思ったら金色の光が満ちてカカシが現れて……」
「うん、大体合ってる。じゃあ次は、ここが現実世界か否かの判定だが……。君、スマートフォンを出してみろ」
言われてポケットに手を突っ込むと、持ち慣れた機器に指が触れた。……滝に投げ込んだはずだけど、あるに越したことはない。取り出して画面を見てみる。ちょっと身構えたものの、あの蠢く虫達はおらず初期設定のままの壁紙が僕を見返すだけだった。
「時間は、滝を離れてから二十分ほど経ったぐらいか」僕の頭越しに覗き込む曽根崎さんが言う。
「ちょうど道に迷って集落にたどり着いたぐらい、と。まあ想像はできていたが」
「で、どう検証します? 旅館とかに電話してみますか?」
「そうだな。よし、私が話してやろう」
「なんでいちいち上から来るんですか……まあいいですけど」
旅館の電話番号を表示させた状態で、曽根崎さんにスマートフォンを渡す。電話している最中、手持ち無沙汰な僕は彼の目の届く範囲で散策してみることにした。
気になっていることがあったのだ。荒れ果て好き放題に雑草が生えた畑に立つ、見覚えのあるものについて。
ずんずん歩いて、近くまで行ってみる。……間違いない。これは、あの空間でおじいさんがいた場所に立っていたカカシだ。
「……あれ?」
カカシの着物の前合わせの所から、何かのぞいていることに気づく。慎重に取り出してみたそれは、数枚の黄ばんだ紙きれだった。





